ep.004 一般人・介入者
――首都、東京。
この日、その中心に位置するバーチャルスポーツアリーナには、国内外から多くの観客が集まっていた。
電脳という新技術が広まってから急速に人気を得たこの分野は、通常の野球やサッカーの試合のような大型の施設を、本来は必要としない。
しかし、電脳世界で行われる物理法則を超えたスポーツをこのように広いフィールドで観戦するスタイルが、この国では主流となっていた。
法規制により安全に配慮した数値まで調節が入るが、ある程度の衝撃や巻き起こる風、選手たちの息詰まる試合がAR技術で大きく立体的に表示されることで、その迫力は観戦者を魅了する。
サラリーマンの村田は、仕事を終えた後のひと時を息子と共に楽しむために駆けつけていた。
今日の試合は、息子が関心を示した注目選手を見せてやるために、苦労して席を取ったのだ。買ってきた大きなドリンクを手渡し、こぼさないよう注意しながら息子に手渡した。
村田が目撃したのは、東雲柳が「白き死神」として観客を圧倒するシーンだった。試合の始まりから、村田は柳の動きに目を奪われていた。
村田はこの競技の熱心なサポーターではない。東雲柳に関する知識は、リビングで流れる情報番組や、それに取りあげられる彼のインタビュー、それにニュースでの彼の戦績ほどしかなかった。
しかし目の前に展開されるフィールドで迫力ある試合内容を見た村田は、ここに到着するまでに彼の情報を集めてこなかったことを後悔している。
そしてある疑問が、どうしても彼の思考をよぎった。
「こんなに静かで、穏やかそうな顔をした少年が、本当に『白き死神』なのか?」
村田の息子はその異名に関心を持ち、妻にその意味を尋ねた。妻も意味を知らなかったが、識者が言うには、これは試合相手を始め、柳の優れたプレイをおそれ驚嘆したサポーター達に自然に呼び習わされている異名とのことだった。
疑問はすぐに驚嘆に変わった。
その名の通り、まるで死神が相手を狩るかのように冷酷で、かつ美しい。テクニック、戦略、そして試合を読む眼力は圧倒的。相手プレイヤーの息の根を完全に止めるかのように追い詰めていく。
「見ろ。あれが東雲柳だ、かっこいいな」
村田は息子に耳打ちした。
「うん……!」
息子は目を輝かせながら、柳の動きに釘付けになっている。
試合は進むほどに柳の圧倒的な強さが際立ち、観客からは驚嘆の声が上がっていた。実況の声が大きく響き、観客達のボルテージは最高潮に達する。
しかし村田は、やがて柳の複雑な感情を感じ取った。
自らを追い込むことでしか、この異名に応えることができないというプレッシャーを感じているのではないか。いや、もっと別種の重い理由かもしれない。それほどまでに彼の試合内容は研ぎ澄まされていて、このために彼が捧げてきた時間に思いを馳せると、村田はやはり自分にはこの競技は無理だと結論した。
試合の終わりに柳の圧勝が宣言されたとき、アリーナは割れんばかりの拍手に包まれた。しかし東雲柳は勝利を喜ぶよりも先に、敗れた相手に対して礼を尽くし、敬意を表していた。その姿に、心を打たれる。
彼は本当に『白き死神』なのかもしれない。だが、その心は……と思いを巡らせた。
◇
心地よい午後、清宮流磨はカフェのテラス席で、妹の玲緒奈との待ち合わせをしていた。
涼やかな目元が、ともすれば冷たいと受け取られてしまいそうだが、はっきりとした意思が見て取れる深く黒い瞳が彼の印象に人間らしい体温を与えていた。
周囲は穏やかな会話とカフェから漂うコーヒーの香りで満たされている。店内から漏れ聞こえるボサ・ノヴァのリズムが呼吸を整わせ、ふと息を吐く。流磨が1日1杯までと決めている嗜好品を見つめていたときだった。
隣の席に、予期せぬ訪問者が静かに腰を下ろした。
流磨の髪の分け目は乱れて、目にかかってしまったそれに違和感を感じながら一瞥すると、不審げに問いかけた。
「……誰だ?」
彼の口調には、明らかな戸惑いが含まれていた。男は落ち着いて答える。
「おれ、ユエン。アメリカから来たんだ」
彼の声は穏やかで、しかし流磨にはその真意が計りかねるものだった。
流磨の警戒心は解けず、髪をかきあげながら「俺、あんたのこと知らないんだけど」と返した。ユエンは微笑みながらも、次なる質問を投げかけてくる。
「玲緒奈?」
ユエンがその名前を口にした瞬間、流磨の表情が一変した。一瞬の沈黙が2人の間に流れ、眉をひそめて疑念を抱く。
「……柳じゃなくて、か?」
その問いに、ユエンは静かに頷いた。流磨の不信感は増す。思わず唇を開いてしまった。
「……玲緒奈はまだ、プロデビューもしてない。知名度は中学の部活レベルだ。なぜアメリカにいたあんたがそこまで知ってる?」
この質問に対するユエンの答えはない。流磨は、いくらか考えた後に自分が要らない情報を与えてしまったことに気づき、内心で歯噛みした。
ユエンは長い髪を後ろで1つに結び、黒髪に所々銀色のメッシュを入れていた。流磨自身も身長は高いほうだが、それを更に上回る大柄なユエンは、そこにいるだけで場をものにするような雰囲気があった。しっかりと鍛えられた肩幅も流磨と比べて広い。重い体重を受けた底の厚いスニーカーが鈍い音を立て、広げた脚を窮屈そうに調整した。
筋肉量、体重移動。アスリートか? 部活動によるものかもしれない。しかし、それでもかなりレベルが高い。その理由を問うても、眼の前の彼が素直に返答することはないだろう。
何より、その表情が流磨は気に入らない。探るような目つき。ヘーゼルの色が陽光を弾いて、流磨の心へと挑むように突き刺さってくる。笑みを浮かべているようでいながら、相手の表情の裏にある真意を探ろうとしているに違いなかった。
流磨はメンタルコーチングのスキルを持っている。そして、その専門的知識を踏まえてのことではなく、もっと野性的でカジュアルな要素。
勘が言っている。この男を警戒せよ。流磨はこういった場合の勘に、一定の自信を持っていた。
「……何なんだ、あんた」
ユエンはまたも質問には答えず、ただ深い意味を含んだまなざしを流磨に向ける。流磨は、目の前の男が質問の答えを与えないよう意図的に振る舞っているのだと確信していた。
その態度で自分を値踏みしていることに流磨は不快感を覚え、視線にそれを込めて伝える。不愉快である。シンプルに出した結論。ユエンは何かを納得したようにゆっくりと立ち上がり、流磨のブラックコーヒーから立ち上る湯気を歪ませた。
「ごめん、君を怒らせるつもりじゃないんだ。気を悪くしたなら謝るよ。妹さんのことも、何かおかしなことを考えているわけじゃない。それだけはわかって欲しいな」
一応の礼儀と気遣いを認め、流磨は男への視線を緩める。仕切り直すようにブラックコーヒーの温度を確かめ、それを啜った。
「そうか、じゃあな」
「……よろしく」
ユエンの言葉には何か決断があったかのようだが、彼はそれ以上のことを明かさずに、静かにその場を立ち去った。
流磨はその背を見送りながら、左手首のデバイスが妹からのメッセージを伝える電子音声を聞いた。