ep.33 クリスタルの決意
帰宅途中、またしてもうだるような湿気が街を包んでいた。昼下がりに降ったにわか雨のせいで、汗がひいていかない。
柳とクリスはいつもの帰り道を歩いていた。
「こっちでいい?」
「ん」
繁華街近くの道を通り、そしてこの先は、少し奥まった小さな店が密集するエリアになる。
この通りは主に大人だけが通うような店もあり、つまりは夕方から営業を始めるために、今はまだ従業員たちが開店準備をしている最中だった。
居酒屋の電気提灯が緩やかに宙に浮き、回転している。
「柊さんと夕子さん、お酒飲むんだっけ?」
「うん、父さんはまあ、付き合いで飲むこともあるし強さは普通だって言ってた」
「へー、柳は体質がお父さん似だっけ」
「そうだね。母さんはお酒弱いらしいけど、僕はやっぱり普通なのかも」
「こればっかりは、まだ飲めないからわからないよね〜」
「サファイアさんとヴィンセントさんは、強いんだっけ?」
「2人ともどれだけ飲んでも平気そうな顔してる。だからきっとマックスもそうだよ」
「マックスは普段からクリスをからかい倒してるから、酔っ払ってても変わらなさそうだね」
「ひどくなるのならお酒取り上げてやる」
「仲良いなあ」
「あんたが言う?」
商店街のスピーカーが、アナウンスと音楽を流す。
『未来ノ島ノスタルジア商店街へようこそ! 居酒屋からスイーツショップまで、バラエティ豊かなお店がよりどりみどり!』
ARプログラムが同内容の文字をアーケードに横切らせている。暑くなってきたからか、その色は春のピンク色から夏の空を思わせるブルーに切り替わっていた。
バーのデジタルサイネージが開店時刻を告知している。その下を、首に下がった鈴を鳴らしながら猫が散歩していた。
「……あっ、猫ちゃん」
「かわいいね」
クリスたちを見ると、にゃあと鳴いた猫は看板の裏へ身を隠した。遠くへ逃げはしないから人には慣れているが、照れ屋のようだ。
ここはいわゆる小さな商店が連なる、『昔ながらの』商店街。クリスたちはにぎやかな場所へ行く気分でないとき、ここをたまに通る。
繁華街の喧騒が遠くから響き、周囲の落ち着いた雰囲気を一層に強調していた。
昔ながらとは言っても、ここは昔からあった土地ではない。人工島なのだから。一世紀も前から未来ノ島という、その名の通りの夢を描いた人々が、このように昭和時代から平成時代のスタイルを踏襲した商店街を、新たな土地でも存続させたかったらしい。サファイアからクリスが聞いた、島にまつわる話の1つだ。
クリスはたまに世話になる路面の揚げ物屋から声をかけられる。
「あらクリスちゃん、こんにちは!」
「こんにちは、アゲマキのおばちゃん」
「彼氏?」
「……違います!」
「こんにちは」
「あら、ごめんね」
「このあいだも言ったのに! 柳とはその……」
「クリス、まあまあ」
「ふふふ、青春だねぇ」
「んもぉー!」
クリスはまた来ますと言い、柳も一礼して続いた。クリスはこのように、小さな店に知り合いが多い。親友のリリアも家がエスニック料理店を営んでいる。
「よー、クリスちゃん。それに柳くんも!」
「こんにちは、イコマのお兄さん」
「こんにちは」
「ほれ、バナナあげるよ……サファイアさんによろしくね!」
青果店であるイコマには、瑞々しい果物と野菜が看板に立体表示されている。
「ありがとう! いただきます」
「ありがとうございます」
クリスの母親であるサファイアはこの島の完成に深く関わっており、娘である自分のことを覚えてくれている大人もたくさんいる。
一方柳は有名人であることもあり、店に入っても気を遣われてしまうことが多い。
「東雲くん、今帰りかい?」
「こんにちは、マスター。ええ、今日はまっすぐ帰ることにしました」
「うん、また気が向いたら来てね」
柳は小さくお辞儀をした。この行きつけの喫茶店の店主は、たまたま店内のテレビで柳が映るまで、本人だと直接確認できなかったらしい。
しかしそれはこの未来ノ島に富裕層や著名人、芸能人が多く、そうでない人間たちにとってもそれらの人々の存在が生活の一部になり、誰もがプライベートがあることを尊重されているから。
クリスはそういう意味でも、いい島だと思っている。
「暑いねぇ」
「……そーだね」
クリスはインナーを除けば制服のブラウス1枚だが、これ1枚がわずかばかりの皮膚表面温度の低下にどれほど貢献しているのかと思うと、本当に嫌になってしまう。
少しでも風を入れようと、胸元の合わせを掴んでぱさぱさと動かし、そして離した。無駄な努力だった気さえする。対する柳は涼しげな顔で、極薄ではあるがワイシャツの上にやや長いサマーセーターを羽織っていた。
彼は何も言わない。
クリスは数日前、柳に話があると切り出してから、考えをまとめることに思っていたより時間がかかってしまっていた。大きな決断だ。元来こういった戦略じみたことを考えることが、クリスは苦手だった。
ただ目の前の柳の顔を見ていると、どこか寂しげに思えて仕方がない。再びその瞳の輝きを見たい一心で、クリスはまだ形にならないままの言葉を掻き集める。
彼は瞼を一瞬おろした。そして睫毛の下に、月光のように鈍く光を反射し、その瞳がのぞいている。
「…………ちょっと来て!」
堪らなくなったクリスは柳の手を引き、人目を避けるようにビルの隙間へと導いた。
「ど……どうしたの、クリス?」
柳はクリスが突然立ち止まってもぶつかってしまわないよう、歩くスピードを調整していた。人目につかない奥まで入り込んだクリスは一呼吸おき、勇気を振り絞るように言葉を紡ぎ始める。
「この前、私が話すって言ってたの……今、いいかな」
柳はその場を和ませようとするかのように優しい眼差しで、クリスに応えた。
「え? ……う、うん……」
クリスは深刻な面持ちで切り出す。
「私、ネオトラバース始めようと思って!」
柳は一瞬、意図を計りかねていた。しかし右手首のあたりを掴んだままのクリスがその手に力を入れたことを感じ、まっすぐな言葉を信じようとするように見返す。
「……クリスが?」
「だ、だから、あんたに助けて欲しいの。私、試合はたくさん見たけど、えと、色々曖昧だし、あと、精神没入型スポーツも初めてだし……バ、バスケはやってたけど……!」
捏ね回したプランを伝えようとする。理解してもらわなければ始まらないからだ。しかし今、先走る気持ちの強さが柳を壁際へと押し込んでいた。言葉が追いつかない。
「……どうして?」
柳が尋ねる。彼の声には真摯さが込められていた。
クリスは一瞬言葉を詰まらせたが、その問いに自分の気持ちを説明した。
「……あんなにネオトラバースが好きだった柳が、競技から遠ざかっちゃうのが嫌なの。私自身ももう、見てるだけじゃなくて積極的に知りたい。柳のことも、何か力になれるかもしれない!」
その一言は、柳を突き動かす力になったらしい。クリスの瞳を見つめ返し、そしてゆっくりと頷いた。
「ありがとう。クリスがそう思うのなら……僕はサポート要員としてサポートする。全力で。」
クリスの心には喜びが広がる。
「……わっ……! ほんと……?!」
「まずは基本から練習しよう。僕も今はクリスのそばで、競技への情熱を違う形で見つけたいな」
柳の言葉はクリスにとって、最高の応援歌のようだった。
「ありがと、がんばろーね!」
「うん……ありがとうは、僕が言うべきかな」
「いいんだよ、そんなの」
路地はうだるような湿気で満ちていたが、その瞬間だけは時間が止まり、世界がふたりだけのものになったかのように感じられた。
◇
クリスは自室のデバイスの前に座り、柳の過去の試合映像を丁寧に見ていく。画面に映し出される鮮やかなプレイに、息をのむ。
しかし同時に、自分にこれができるのだろうかという疑問が心の中を駆け巡った。
「……プロだもんね。あんたは」
深くため息をつきながら、自分の得手不得手を分析していく。
実利優先で直感的に物事を考えるクリスは、柳のような反射的かつ柔軟な戦略を立てることが苦手だ。戦術はできても戦略となると、実に不得手である。
中学時代バスケットボールに情熱を傾けていた頃も、そちらの方面でのアプローチには常に苦労していた。
「んんー! ……やばい、これ基準で考えたらだめになりそう」
柳の過去の試合映像を見て、クリスは彼がネオトラバース個人競技でいかに戦略的思考とスピード、技術で優れているかを具体的に感じ取った。
特に記憶に残る試合は、柳が独力で複数の高度な仮想環境を駆使して戦った一戦だ。
「……アバタープログラミングか……未知すぎ」
この試合では、柳は物理法則から解き放たれた電脳スポーツの真価を発揮するかのように立体的な領域を駆け巡り、敵アバターの妨害を華麗にかわしながら反撃を仕掛けていた。
スピードは目を見張るものがあり、仮想領域上での瞬間的な加速と方向転換は、観客を驚嘆させた。
「精神没入型……実際の肉体ベースでも、電脳世界上のスピードには、頑張って合わせなくちゃならない」
戦略的な面で柳は、常に相手の動きを数手先まで読み、自らが有利になるような位置取りと環境利用を心がけているようだった。
「反射神経が……大事」
特定の要素を利用して妨害技を展開したり、相手の妨害パターンを見極めてそれを逆手に取る様は、見ている者に深い印象を与えた。
単なる反射神経の勝負ではなく、深い理解と計算に基づくものだ。これが戦略。妨害を多用する選手ではないが、勝利条件であるゴールゲートを潜るまでの時間を短縮することに注力している。
柳は目的のため行動で、最短ルートを取る。時間が重大で、それを操るのが彼の戦略。必要不可欠な瞬間のみ手の内を見せるようだ。
また、技術力も際立っていた。
仮想空間内での移動技術、アバターを使った妨害技法において、卓越した能力を見せつける。特に得意技である幻影は相手プレイヤーを翻弄し、勝利に大きく寄与した。
「すご……マメだからな、柳」
柳が独力でフィールドを支配し、圧倒的な技術と戦略で勝利を収める様子は、彼がネオトラバースの競技においていかに稀有な存在であるかを感じさせるものだった。
「すごすぎでしょ……」
デスクの操作面に手を伸ばし、ARサブディスプレイを展開させる。
そこには自身のスポーツデータと心理傾向分析のデータが表示されていた。グラフと説明文を確認しながら、自分の見解と過去のデータが一致していることに安堵する。
「またぶち当たるのかぁ、難儀〜」
クリスは、中学時代のバスケットボールの試合を振り返る。
クリスはチームのエースとして、何度もチームを勝利に導いたと思う。瞬間的なスピードと直感的なプレイで、多くの場合において相手を圧倒できた。
だが、自らの戦略的思考能力の不足を痛感した瞬間があった。都大会の準決勝で対戦したチームに、終盤までリードを許した試合だ。
相手チームはクリスのスピードに対応するため、徹底したゾーンディフェンスを敷いてきた。この戦略は直感的なプレイを封じ込めるのに効果的で、クリスはなかなか得点することができなかった。
試合の流れが変わったのは、一瞬立ち止まり、相手チームのディフェンスを観察した時だった。
自分の得意なスピードと技術だけではなく、ここで戦略的にチームを動かす必要があると感じた。そこで自らデコイとなり、相手ディフェンスの注目を集めながら、同時にチームメイトを有利なポジションに導く役割を果たすことに、その場は集中したのだった。
戦略の変更は功を奏し、チームは試合の流れを引き戻すことができた。最終的にクリスのチームが勝利を収め、決勝へと駒を進めた。
しかしこの試合を通じて、自分の戦略的思考の不足を深く認識することになった。
自らが直感と反射で動くことに長けている一方で、試合の流れを読んでチームを導く戦略的な判断が迅速にできない、そのことに気づかされた。
クリスはバスケットボールにおいても、チーム全体を見渡す視点が重要であることを学んだ。
この経験を踏まえ、自分の弱点を補うべく、戦略的な視点を養う努力を始めた。コーチと相談し試合映像を分析したり、より戦術的な視点からゲームを考察する時間を増やした。
しかし、自分が根本的に実利優先の思考を持つ選手であり、戦略的な思考が自然には行かないことを自覚していた。
この自己分析を、ネオトラバースへの挑戦にも活かそうと考える。
自分の長所と短所を改めて認識し、これを柳に伝え、助けを借りて向上できるように計画を練ることを決める。
柳なら、有効なアドバイスをくれると確信していた。
「……寝るか」
明かりを弱め、就寝の準備をする。
髪をまとめて、今日のこの日に別れを告げた。心は不安と期待で揺れ動きながらも目を閉じ、明日への一歩を踏み出す準備を始めた。




