ep.31 雨上がりの光、クリスタルのきらめき
教室の隅から、クリスは静かに柳を観察していた。
彼がいつも通りに振る舞い、周囲の人たちもそれに安堵している様子を細やかに捉える。授業に参加し友人たちと談笑する姿は、表面上は何も変わっていないように見える。
だがクリスは、あの棄権負けの後の柳の苦しみを、他のどんな人間より詳しく知っている。
「ありがとう、心配してくれて。でも競技をプロとしてやることが厳しいだけで、普通に生活したりスポーツをするだけなら何も問題ないんだ」
「ノートありがとう。おかげで授業の進捗状況が早く把握できたよ……え、わからない? そうか、そこはね……」
彼が体験した人知を超えた苦痛と心の叫びは、クリスの心に深く刻まれていた。
なにせ、一度死にかけた過去の経験だ。文字通りの死ぬほどの痛み。彼が言うには感情的な追体験も含まれ、それを数回に渡って脳に強制的に認識させ、その後に暗示をかけるような真似をし、質問を繰り返して精神的に追い詰めようとする。それが何度も繰り返された。
説明をする時に、彼は極力客観的事実だけを述べようと努めていたが、クリスは全ての内容に怒りと不信感を抱いた。
ある日柳がその苦しみについて問われた時、彼は淡々と説明した。
「病気というより、珍しい現象かもしれない。でも、今は普通の生活を送ることができるから、ネオトラバースの進退は療養後に考えようと思う」
その言葉を聞きながら、クリスは柳がネオトラバースの世界から遠ざかるかもしれないという不安に駆られた。彼のネオトラバースに対する情熱、その世界で輝いていた姿は、忘れることができない。
教室の窓から外を見ながら、それを防ぐための策を練り始める。
「……あ……」
名案がふと頭をよぎる。
彼がネオトラバースに関わることで感じるプレッシャーや不安を和らげ、心の傷を癒やすための環境を整える。そして、彼が自身のペースでまたネオトラバースの世界に戻れるよう、クリスタルは支えるのだ。
その計画を実行に移すため、学校のカウンセラーやネオトラバース部の顧問、そして何よりも柳自身と話をすることを決意する。
提案は、柳の心に新たな希望の光を灯すかもしれない。
「……よし、考えるより行動。調べながら考えればいい」
柳が再びネオトラバースの舞台で輝く日を夢見ながら、クリスは積極的に行動を起こす準備を始めた。心の中には柳への愛情と、彼が再び自分の夢を追いかける姿を見たいという、切なる願いがあった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
数週間がたった頃、クリスは柳に寄り添うようにして帰り道を歩きながら、質問を投げかけた。
「柳、ネオトラバースのプレイヤーになるって、どうやったらいいの?」
柳は彼女の質問に対して、いつもの優しい口調で答えを返す。
「……ネオトラバースの世界では、基本的には高校生相当の年齢になったら、初心者としてスタートするんだ。まずは三回以上の練習試合を経験して、そのフィードバックを活かしながら、自分のプレイスタイルを見つけていく」
彼はさらに続けた。
「練習試合でプレイデータが十分に吸い上げられると、最初に支給されるスタンダードな仮想装甲から、自分に合った仮想装甲に変更される。それからは、自分やサポート要員の手で装甲を改良していくことで、試合を自由に、有利に進めることができるようになるんだ。もちろん自動生成も精巧にできているから、並のプログラマーなら素のままの装甲でプレイしたほうがベター」
クリスは柳の話に真剣に耳を傾け、柳がどれだけネオトラバースの世界を愛し、理解しているのかを改めて感じ取った。
心の中には希望が膨らんでいく。柳の声は道を吹き抜ける風に乗って、クリスにとっての望む答えとなって届けられた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
公園を二人で歩く中、クリスは先程の話に再び言及した。
「柳、もう少しネオトラバースのこと教えて。ジュニアってどんな区分なの?」
うだるような暑さの中、突然に吹き込んでくる強い風に、夕立の予感がした。柳はさりげなくクリスも傘を持っていることを確認し、よく散歩に使われるコースを選び取って歩を進めた。
柳はクリスの好奇心に微笑みながら、説明を続ける。
「ジュニア区分は中学生相当の年齢で、幼年ルールのスターライトチェイスと違って個人戦が中心になるんだ。ペアでの出場も選べるよ。実は、ジュニアの中でも特に実力のあるプレイヤーは、高校生区分の公式試合にも挑戦でき……あっ」
空に黒い雲が立ち込め、瞬く間に強く雨が打ちつけてきた。
二人は傘を持っていたが、あまりの雨足の強さにさしたる役には立たなかった。このまま少し戻れば街に抜けることもできるが、今は二人で話したいという目的が先に立ち、公園内の休憩スペースとなっている屋根の下に駆け込み、そこで落ち着いた。
「濡れちゃったね」
「そうだね……タオル持ってる?」
「大丈夫、ありがと」
柳はさらに続けた。
「練習試合では、技術や指導面でのサポートがとても重要になる。ネオトラバースでは試合中に選手に直接指示を出すこと、技術面での支援を受けるためにサポート要員と共に出場することが認められているんだ。ただし、フィールドで実際にプレイするのは、選手本人だけ」
クリスが興味深そうに聞き入る中、柳は自身の場合のことを交えて話す。
「電脳世界上で仮想装甲・電脳装甲とか呼ばれているものについては、練習試合の内容を繭とネオトラバースAIが学習して、選手のスタイルに合わせた装甲を生成してくれる。僕の場合も、初めての装甲は今とは違って、もっとベーシックなものだった。数回の試合を通して、僕のスピードと戦略を活かすために特化した装甲にアップグレードされたんだよ。ほら、あの薄いマントみたいなのが今の大きな特徴かな」
クリスは少し緊張した面持ちで柳を見つめながら、切り出した。
「ねえ、明日も一緒に帰れる?」
柳はクリスの眼を直視し、微笑みを浮かべて答える。
「……うん、大丈夫だよ」
クリスは深呼吸を一つしてから、もう一つの質問を口にする。
「柳、今でもネオトラバースのことは好き?」
少し眉を寄せて考え込むような素振りを見せた後、心からの答えを返す。愚問である。
「……そりゃあ、大好きだよ。正直、せっかくプロになったのに試合に出られなくなったのは辛い」
「うん……」
クリスは率直な言葉に小さく頷き、心情を察しているようだった。柳の指は、少しだけ拳を作るような動作をする。しかし、すぐに力を解いて下の形に戻した。クリスは目ざとく気付いたようだった。彼女には隠せない。きっとクリスにしか、この微かな動きの意味には気付けない。
柳は続けて言葉を紡ぐ。
「だけど今はまたプロの世界に戻るためには、こうして毎日を大切に過ごすことにしようと思うんだ。スポンサーの人たちからも、療養を了承してもらっているしね」
「……良かった」
クリスは安堵の息を吐く。柳はクリスの言葉を静かに受け止め、ふと考え込む。
「父さんが……」
自分の父親が、その症状についてどのように考えているのかを思い返す。確かに、ネオトラバースの世界では、プレイヤーの現実世界の肉体の状態が直接アバターに影響を及ぼすことが、全ての基本だった。
だが父が指摘するように、肉体に異常がない状態でアバターが長時間痛みを感じることは、理論上ありえない。そして今回、その痛みは電脳空間上の垣根を越えるほどの強さで柳を傷つけた。心身ともに。
「父さんも、その点については納得いっていないみたいだ。ネオトラバースは精神没入型バーチャルリアリティスポーツとして設計されていて、現実の僕たちの肉体の状態やパーソナリティがアバターの形成に直接関わってくる。逆にアバターの受けた物理的な刺激は、肉体にはほとんど影響しない。だから、肉体に何の異常もないのに、アバターからプレイヤーが痛みを感じ続けるのは、理論的におかしいんだよね……」
柳はクリスの顔を見つめながら、さらに続けた。
「父さんは、何か外部からの干渉があったのではないかと考えているみたい。ネオトラバースのシステム自体が何らかの方法で操作され、普通ではありえない現象が発生したのかもしれないって」
この話を聞いてクリスは深くうなずき、その可能性について真剣に考え始めている。柳が経験した異常な症状。これが単なる偶然や自身の問題ではなく、何者かによる意図的な干渉の結果である可能性を、今は否定できなかった。
「そう……なんだね」
「……クリス、明日クリスが話したいことを、なんでも話して。僕は大丈夫」
その言葉を聞いて、クリスの顔には安堵の表情が浮かんだ。
雨音が遠のく中、柳とクリスはお互いを強く意識しながらも、心の中でそれぞれが抱える問題への解決の糸口を見つけようとしていた。
柳はクリスの支えが自分にとってどれほど大きなものかを改めて感じ、クリスは柳が直面している困難に寄り添い、支えていく決意を固める。
「…………うん、待ってて」
晴れ間から差し込む光が二人を照らし、その温かさが心に染み入る。
この一瞬のやすらぎが、これからの道のりを共に歩む二人にとって、大切な記憶となっていく。雨上がりの匂いを感じながら、柳はゆっくりとクリスの指に自分の指を重ねた。
「……いい?」
「ん…………」
彼女の細い指に自らの指をそっと絡めるその瞬間、先日彼女が自分の手を握ってくれた時のことを思い出す。
その時には気づかなかった彼女の指の細さに、淡い切なさが心を満たしていく。この繊細な触れ合いが、秘められた感情の奥深くを静かに揺さぶる。深い深い部分で、小さな接触は無数の波紋を生んでいた。
しかし一方でこの細さが示す脆さや、彼女がこれまで知らなかった自分の深い部分への認識に、柳は無言の苦悩を抱えている。
この切なさは心の奥底に仕舞われた秘密のようなもので、クリスが察することはなかった。彼女は彼の手の温もりに安堵し、未来への希望を新たにしているように見えた。
柳は彼女の細い指を感じることで、その僅かな皮膚と皮膚の間に存在する微妙な距離と、言葉にできない感情の重さを噛み締めていた。
その切なさを内密に、胸に秘める方法を探す。
差し込む柔らかな光の中で、柳はクリスとの未来について考え、彼女がいてくれるだけで十分だと改めて感じるのだった。
すっかり雨が上がり、晴れ間の光が二人を照らす中、柳はクリスの目を見つめた。
「……もう行く? クリス、君のペースでいいよ」
クリスは小さく息を吸い込み、彼女なりの不安を吐露した。
「ありがと……でも、色々頭の中ぐるぐるしてて、うまく話せるかはわからない」
柳はその不安を受け止める。
「うん。大丈夫だから………………大丈夫」
クリスはこの言葉を受け、小さく頷き返す。柳はさらに言い添えた。
「相手は僕なんだから。何も気にしなくていいよ……明日話せなければ、また別の日でもいいから」
彼女が何を話そうと、受け止める準備ができている。流れる静かな空気は、言葉以上のものを互いに伝えるようだった。
そんな中、清宮流磨と玲緒奈の兄妹が通りがかった。
玲緒奈は目の前の光景に目を丸くし、「クリスちゃん……?!」と驚きを隠せずに声を上げた。その顔は期待と驚きで紅潮しており、間違いなくふたりがついに付き合い始めたと勘違いをしている。
クリスはその反応に慌てて、柳と絡めた手を慌てて解き、「ち、ちがうんだよれおちゃん! これは……ていうかまだ…………えっ、あ、まだじゃなくて!」と曖昧に笑いながら誤解を解こうとした。
クリスは自分でも何を言っているのかわからないほどに焦っている。
流磨が柳に対して「……シノ」と呼びかけた際、つい口から飛び出た言葉に、柳自身戸惑った。
柳が「違う」と言ったその声には、微かに怒っているような響きが含まれていた。こんな声を出そうとしたわけではなかったのに。
流磨は少し驚いたように目を見開いて、二人を見つめた。柳はその後雨宿りしていた屋根から歩き出し、「今帰り?」と話を逸らす。
「……おお」
表情と態度に、違和感を与えてしまっただろうか。




