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星渦のエンコーダー《スターメイズ・エンコーダー》  作者: 山森むむむ
1章 ■壊されたヒーロー:ep.001〜030
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ep.30 指先から伝わる温もり

 リビングルームのソファに腰掛けた柳は、今日はほんの少し顔色が良くないように見えた。


 外は晴れていて、居住エリアの建物やマンションがひしめく屋根たちが陽光を反射している。この光景を見て、海みたいだと柳は言っていた。まだ小さな頃の話。

 彼はクリスとは別の視点を持つ人で、きらきらと光を反射する景色を、海でちらつく沢山の小さな波に例えられることを教えてくれたのだ。


 柳は何も言わないが、心の中では過去の傷を抉られ続けた痛みが、彼を苦しめているのに違いない。

 クリスは、スポーツクラブのコーチに柳が突き落とされたと知った時、柳の母親の夕子が自分を真っ先に病院へ連れて行ってくれたことを思い出した。


 今の彼の横顔は、あの時と比べゆるやかな曲線を描く、すっきりとしたものに変化している。

 クリスはあの日から今もずっと変わらず、一見して内側の苦しみを感じさせないその表情に、胸が苦しくなる。こういうときの柳が、どこを、何を見ているのかは、何年見ていてもわからない。

 そして、いつもの通り彼は少し上に目線を置いて、苦しみも悩みもない世界に通じているかのような静けさをたたえていた。


 そっと隣に座り、一緒になって窓の外を眺める。

 外はもう陽が一番高い時間を過ぎ、だんだんと窓ガラスに映る景色は色を濃いものにしてゆく。ここは居住エリアの最も高い場所で、まるで天空に浮かぶ島と錯覚するような飽きないロケーションだという認識は、二人の間で共有された感覚だった。

 そのまま、ひたすらに静かな時を過ごす。柳が時折垣間見せる弱さを今、探すように。しかし、不用意に触れて痛みに震えさせないように。クリスは、ただ心配そうに見つめた。

 その弱さはクリスにしかわからないほどに微弱な、心の奥底から湧き上がる彼の、小さな悲鳴の欠片だ。親友という地位に収まっている流磨すら、クリスほどに柳の情動を感じ取ることはできない。


「……よし、じゃあ、退屈しのぎにクリスに勉強を教えてあげようかな?」

 柳が不意に言い出すと、クリスは思わず身を乗り出した。

「げえー! お願いします先生」

 クリスの声は軽くはずんで、彼女自身も笑った。

「何それ。前半と後半の発言が一致してないよ」

 柳はクリスの言葉に小さく笑いながら、彼女の態度の変わりようを指摘して笑った。

 部屋の空気が少し和らいで、柳の顔からも緊張がほぐれていくのがわかる。柳のケアをしようと思っているのにこちらが安心してしまう現状に、やはりこの存在が自分の中の多くを占めていると思い知った。


 彼がこんな状況でも彼らしい冗談を言えることがどこか心強く、自身も柳の提案に乗ることで、普段の生活の一片を取り戻せるかのように感じた。



 テーブルには教科書とノートが広げられ、二人はそれぞれの学びに没頭していく。クリスは柳の解説にうなずきながら、彼の横顔をちらりと見た。

 その顔は真剣そのもので、教えることに全神経を集中させているようだ。そんな柳を見て、彼が教師になったらどんなに素晴らしいだろうと思う。

 彼の言葉一つ一つが、クリスの理解を深めてくれる。

「ありがとね、柳。こんな時に……」

 クリスが小さな声でつぶやくと、柳は穏やかに答えた。

「いいよ、クリス。君が連れ帰ってくれたことに比べたら……本当に、大したことじゃない」


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 夜も更けて今日の勉強に区切りをつけた2人は、テーブルに広げた勉強道具を片付けていた。

 明日も勉強するから、とクリスは通学カバンにそれを全て詰め込み、柳も自分のものを纏めた。クリスが柳の自宅から持ってきてくれた荷物はリビングに置かれ、共に居候の身だ。

 しばしの沈黙が流れる。

 飲んでいたお茶のカップをクリスの分まで片付けようと柳が立ち上がると、それを途中で制したクリスが唐突に名を呼んだ。


「……柳」

「ん?」

 クリスは強く柳の腕を掴み、廊下へ出て自室のドアへと突き進んでいく。

「……あ、ど……どうしたの? ちょっと……」

 柳はなすすべなく彼女のペースだった。

 クリスの自室に足を踏み入れた瞬間、ふわりとした温かい空気が柳を包み込んだ。

 リビングよりも先に夕陽が差し込み始めていたこの部屋は、窓ガラスが眩しく光ってクリスの姿を浮き上がらせる。


「……クリスの部屋、久しぶりだ」

 そういえば、中学生になってから今までは、クリスの部屋に入ったことがなかった。部屋はクリスの個性が溢れる小物やポスターで飾られている。中心まで歩を進めたクリスは振り返り、柳の手をそっと自らの手で包み込んだ。

 その手は温かく、柳の感覚を優しく溶かしていくようだった。そっと引き寄せられ、柳は幾分か大きな自分の体の重さがその動きを妨げないように、全てに従いつつも微かな力を腕に伝えた。


 ただずっと、向かい合った二人は掌の感覚に没頭した。クリスは女の子で、その力は弱い。

 赤子の頃から成長を共にし、第二次性徴期を経た性別による差異は確かに二人にとっての距離を広げるものとなっていたが、彼女を傷つけないように、彼女を怖がらせないように、そして彼女を尊重し、助けることを柳は無意識のうちに選択していた。

 クリスは軽く目を閉じ、柳の両手の拳を少しだけ力を込めて握っている。

 まだ泣き虫だった柳が泣いていた時、こうして手を握りながら彼女は、励ましの言葉をかけてきた。今はその代わりの沈黙が、慰めを提供する。


 ────ああ、君は暖かい。いつも僕の心に触れようとしてくれる。


 長い間その感覚に身を委ね、ふたりは互いの存在を確認し合うように、日の暮れに流されていた。

「……よし、柳に元気を注入したよ!」


 クリスの声には力強さと共に、微かな照れが混じる。

 顔はやや赤く染まり、表情は純粋な喜びと希望を映し出していた。金色の髪が光を吸収しているかのように眩しく、それに縁取られた笑顔はくっきりと心に刻まれた。


挿絵(By みてみん)


 言葉を受けて、柳は数回瞬きをしてから、クリスを見つめた。

「……クリスの有り余る元気なら、僕が復帰する日もそう遠くないって訳だね」

 クリスはその返事に、とびきりの笑顔を浮かべる。

「……そ! 特別大サービスで、特盛にしておいたから!」

 笑顔は部屋の中で一際輝いており、その明るさが柳の心をも温かくする。しかし次の瞬間、彼女は何かを思い出したかのように慌てて言葉を続けた。

「……あ!」

「なに?」

「今の、パパには内緒にしてね」

「……あ……うん……」

 返事は小さく、クリスに手を引かれながら部屋を後にするときの歩みは、緊張したものに変わっていた。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 朝の日差しが未来ノ島高専のキャンパスを明るく照らし出している。


 クリスと柳が並んで校門をくぐると、周囲からは驚きの声が上がった。柳が入院していたことは友人たちにも知られていたが、すでに登校できるほどに回復しているとは誰も予想していなかったのだ。


「東雲お前、もう大丈夫なのか?」

 長岡が心配そうに声をかけてくる。

「うん、ありがとう。まだ完全ではないけど、もう大丈夫だから」

 クリスはそんな柳の様子を傍で見守りながら、彼女なりに安堵の息をついていた。彼女は柳の競技へ復帰について、今はまだ自ら話題にすることは控えることにしているようだった。

 しかし、柳が友人たちと自然に会話を交わしているのを見て、日常に戻りつつあることに笑顔を見せてくれた。

「柳くん、授業大丈夫?  必要ならノート貸すよ」

 別の友人が提案する。

「ありがとう、助かるよ」

 柳は微笑みながら感謝の言葉を返した。

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