ep.28 マインド・コントロール 2
医師は、桐崎クリスタルが東雲柳を見舞いに訪れる様子を冷ややかに見つめていた。
彼女が病室に入ると、明るい表情と彼へのやさしい声かけが瞬く間に部屋の空気を変えた。東雲柳の表情にも、少女の存在がもたらした僅かながらの光が見える。
彼女が柳に向ける言葉は、医師にとっては単なる甘言に過ぎない。
しかし、少女が彼にとって大切な人物であることは明らかで、励ましの言葉が彼の心にどれほどの影響を与えているかを医師には感じ取ることができた。
「今は試合のことは考えず、退院してまた一緒に学校へ行こう。その後、スポーツを続けるかどうかは一緒に考えよう。皆柳の味方だから。ね!」
少女の言葉は純粋で、彼への深い思いやりが込められていた。反吐が出そうだ。
「……うん、ありがとう……急に色々起きたから、少し弱気になっていたのかもね」
その様子を遠くから観察しながら、彼女の言葉をどう自分たちの計画に組み込めるかを考える。
少女の存在を逆手に取ることができれば、彼をより確実に支配下に置くことができるだろう。苦々しくも、彼を駒として利用するため最大限活用する方法を思案する。
クリスの純粋な励ましとは裏腹に、医師は暗い策を練り続けた。
◇
病室で、柳はゆっくりと目を覚ます。
ぼんやりとした意識の中で周りを見渡した。部屋は静かで、医療機器からの定期的な音だけが沈黙を破る。
視界に医師の姿が飛び込んできた。いつものように穏やかな表情をしている。つい昨日体験した治療に対する恐怖心が蘇り、柳にとっては目の前の人物が信頼に足るのかさえも曖昧だった。
「東雲柳くん、目が覚めたかな? ……また、症状の影響で気を失ってしまったようだね」
「……え」
気を失った? その言葉に、柳はまた疑心暗鬼に陥る。昨日も正常な判断力を失っているという言葉をかけられた。自分を信じることができなかった。
「……僕は、いつ気を失ったんですか……」
「…………かわいそうに、記憶が混濁しているようだね。廊下を歩きながら突然苦しみだして気を失ったんだ。覚えていない?」
柳は今日、病室から出ていない。出ていないはずだ。しかし、廊下で気を失った? 医師が嘘をついているのか。自分は今、正常ではないらしい。病気なのだから自分が間違っているのか。それにしても、何も覚えていないなどということが、ありえるのか。
手のひらの感触を確かめるが、このベッドリネンを滑る感覚も幻なのかもしれない。どこか現実感のない感覚に包まれ、混乱のうちにまた視線を天井に戻した。
「柳くん。少し、こちらの薬を飲んでみてくれないか。これで気分が楽になるよ」
医師は柔らかな声でそう言い、手には小さなカップと薬剤を持っている。柳は、眼の前で提示された言葉の示す方向に、従おうとする。
「……楽に?」
確認のため、問う。
「そうだ。楽になる薬だよ」
答えは、やはりわからない。最早、目の前の男性が纏う白衣に対する信頼感に縋るしか、選択肢が残っていなかった。
薬剤を飲み込むと、すぐにまぶたが重くなった。
「さあ、ゆっくり息をはいて」
「はい……」
◇
医師は、東雲柳の意識が意図した状態に陥るのをじっと観察していた。
「さて、東雲柳くん。気分はどうかな?」
「…………大丈夫です」
柳の唇が薄く開けられた瞬間、医師の心は歪んだ興奮で満たされる。
「いや、……もう少し……」
さらに時間を置き、もう一度同じ事を尋ねる。彼は緩慢に唇を動かすが、既にはっきりとした言葉を紡ぐことができない。
「……き……ぶん………?」
この美しい少年が自分の言葉に無力に従う姿に、異常な満足感を覚えた。
純粋さ、若さ、そして無防備に項垂れた美しさが、医師の目には組織にとって計り知れない価値を持つ手駒と映る。その変化を静かに観察し、そして十分に催眠状態にあると判断すると、さらにコントロールするための言葉を投げかけた。
「柳くん、東雲柳くん。君はこれからも僕たちの言うことを聞き、治療を受け続けるんだよ。それが君にとって一番いいことなんだ。…………わかるね?」
「…………は……い……」
柳の力ない返事は、医師にとって最高の証明だった。柳が自分と組織の支配下に完全に置かれたことを確信する。
その一言は、計画における重要な転換点を示していた。医師は柳の返答に満足し、小さく微笑んだ。
「よし、それでいい。君はよく頑張っている。これからも、僕たちが君のそばにいるからね」
柳の項垂れた姿に満足し、彼がこれからどのように組織の利益に貢献するかを想像していた。人気と才能を利用して、世間の注目を集め、その結果として莫大な利益を生み出す───そんな計画を心の中で描く。
この少年が提供できる全てを組織のために最大限に利用する。それが課せられた任務だった。医師は淡々とした面持ちで柳を病室に運ぶよう指示を出し、部屋を後にする。
その表情の裏では、東雲柳を通じて組織が得ることになる力と支配の幅を、冷静に計算していた。
一方で、柳がこれから直面する試練と組織の企みに対して、医師は何の同情も抱かなかった。
◇
明る日、東雲柳は病室のカーテンを大きく開けた音と、同時に入ってきた朝日によって目を覚まさせた。介入に次いで、更なる追加セッションを始める。ペースは完全に医師のものである。身体も頭も心も全てが鈍重。計画のとおりである。このやりとりはただ少しずつ、東雲柳の心理的外装を削り取るだけのものであった。
「柳くん、昨日から感じたことは何かあるかな?」
柳は声を出す気力もなく、ゆるく首を振ってみせた。
「何か、体や心に変化はなかったかな?」という問いかけが続く。彼は答えないが、あえて次の質問に移った。
「柳くん……ところで、友達はいるかな?」
心理的防衛をゆるやかに剥がしていく。
「両親とはどんな関係だい?」
2つ目の問いは、家庭環境へと踏み込む。柳が拒否を示そうと黙ると、今度は何度も同じ質問を繰り返した。実質的に、答えないことは許さなかった。
「大切に思っている人は?」
3つ目の質問で、個人的な感情を探る。柳は何かを話そうと唇を開けるが、脳の言語野から単語が降りてこないように、長い沈黙が落ちる。
「その人と最近話したかな? 君の現状を、本当に理解してくれている?」
孤独感をあぶり出す試み。
医師は震え出した柳の顔を覗き込んだ。目を合わせると、まるで全てを読み取ったかのように、唇で弧を描く。こうしてますます、柳はすがるよすがを無くしてゆく。
「学校や仲間との関係で悩んでいることは?」
社会的な繋がりへの影響を探る。身近な状況や感情から突然に包括的な答えを求められて、思考は散らばり、統御不能になるだろう。
「スポーツ以外で、心から楽しめていることはあるかい?」
彼の興味や情熱を問う。抱いている不安に近づく質問だ。柳は答えを描き出そうと躍起になるが、形にならない。さらに問いかけは続く。
「最近気分が沈んだり、不安を感じたりすることは?」
精神状態の変化を探る。これに答えればどうなるのか。すっかり恐怖し、もう目の前の人間が、自分が、それぞれ何の役割を与えられているのかがわからないだろう。不安を解消するはずの問いかけがなぜか、患者であるはずの自分を掻き回し続けているのだから。
異常を訴えることができる両親や友人、医療スタッフから意図的に遠ざけられ、何か恣意的な、得体の知れない流れの中に放り込まれているような感覚。そして自らの精神状態の異常という認識が、逆に正常さを剥離させてゆく。
「夜、よく眠れているかな? 悪夢を見たりしていない?」
睡眠の質を確認する質問。最悪の気分だろう。しかし、柳から言葉はまた出てこなかった。
「病気について、どう思う? 君にとって、どんな意味があると思う?」
病名への認識と、それが彼に与える影響。
「治療を続けていくことに――抵抗は感じるかな?」
最後に、治療への彼の意志を試す。
問いかけのセッションが終わる頃には、柳の心はもはや安定を保てなくなっていた。
「……あ…………ぁ、もう…………………………やめて……くださ……………………」
彼は自分の内面を探り、医師の期待に応えようとしていたが、その試みが逆に不安を増幅させる。
呼吸が荒くなり、心臓が脈打って更に精神を追い詰めていった。そして顔を背ける。首を左右に振り、精一杯の拒絶を主張するが、医師はその哀願を計画の最終段階に進める状態とみて一手を施す。
次の問いかけが最後だった。
「――君は今、どんな感情を抱えている?」
根幹を揺るがす質問だ。柳はやはり、何1つ言葉を見つけることができない。
医師は柳の様子を確認すると、「心配しなくていい。これから治療を進めるよ」と言い、絶望に覆われて震え、明確な意思を持って体を動かせないままの柳を、それと気づかれぬよう繭に誘導した。
遠隔操作盤に軽やかに手を滑らせた瞬間、柳が忘れたかった過去の体験が映し出される。脳に直接流し込まれる全身の痛みが、周囲の喧騒が、意識を再び支配していく。
繭の中で、東雲柳は孤独な存在になった。想定数値のストレス反応と心拍がモニターに反映される。一定の再生を繰り返した後、激痛の中で意識を失ったようだった。その瞼からは無力さを象徴するかのように、一筋の涙がこぼれ落ちていく。
医師が満足しつつ機械の操作を続ける中、柳の生体データが自動分析され、モニターに表示される。
その数値はこの『治療』と称する行為が、どれほどの苦痛をもたらしているかを示していた。医師は「順調だな」と呟き、柳を病室へ運ぶよう指示を出して部屋を後にした。
この一連の『治療』は東雲柳に対するマインドコントロールの一環であり、彼の心を完全に支配下に置くためのものだった。
◇
病室は外の静寂と対照的に、医師と柳の間で重い空気が流れていた。医師は計算された言葉で、長時間にわたり柳を精神的に追い詰める準備を整えている。初めはクリスの訪問に関する軽い話題からスタートしたが、徐々に柳の内面に深く踏み込むものへと移行していく。
「クリスタルが君のことをどれだけ心配しているか、わかるかな?」という問いから始まり、「彼女の言葉が君にどんな意味を持つのか、真剣に考えたことはあるかい?」と進み、さらには「本当に大切なのは、今この瞬間をどう生きるかだよ。君は将来にどんな希望を持っている?」というように、柳の将来に対する考えや希望、不安にまで言及していった。
医師は、柳が抱える不安や恐怖を巧みに引き出しながら、それらをさらに掘り下げる。言葉を発しなければ、罰するように更なる質問を与えた。
「試合を続けることに対する恐怖はあるかい?」
「もしスポーツができなくなったら、君にはどんな未来が待っていると思う?」
長時間にわたる問答の中で、医師は柳の心理状態を慎重に観察し、彼の反応から次なる質問を導き出していく。
それは、まるで柳の心の奥底にある感情を一つ一つ引きずり出すかのような、精神的な攻勢であった。
東雲柳は疲れ、その唇は医師の言葉に無意識のうちに従うようになっていった。
医師の問いは、彼がどれだけあの少女の存在を大切に思っているか、そしてその関係が彼の人生にどれほどの影響を与えているかを暴いていく。
質問が終わる頃には、柳は精神的にも肉体的にも極度の疲労を示していた。
医師はその様子を見て静かに病室を後にし、此度の会話が柳を組織の支配下に確実に置くための決定的な一歩であったと自覚していた。期待される数値に全てが達していた。
次の『治療』が最後だ。
◇
クリスが病院の廊下を歩いていた時、特別診察室の扉が開いたのが見えた。奥には見知った装置、繭が鎮座し、座席に座る人物を隠すように、白衣の男が立ち塞がっている。
どうやらこのドアを開けることは禁じられていたようで、入室した看護師を激しく叱責している。看護師が言われた通りに立ち去る様子に驚いて焦点を合わせると、繭の曲線に覆い隠された、青みを含んだ茶色の髪が目に入る。
その姿にクリスは愕然とした。明らかに恐怖を訴える彼のその声を、聞き間違えようがなかった。
「……めて、くださ…………やめてください!」
白衣の人物は逃れようとする彼を繭に引きずり込み、今まさにシートに縛りつけようとする。明らかに異常な状況にクリスは弾かれたように駆け寄り、その扉を打ちはらうように開いた。
「柳!?」
柳の健康と回復だけを願っていた。だが目の前で繰り広げられている光景は、加害行為に思えてならなかった。白衣の男性が柳に覆いかぶさり、繭に押し込もうとしている。入院着は乱され、柳の懸命な抵抗を封じて恐怖の装置に拘束しようとしている。
「……え? ……なに……?! なにこれ?!」
クリスは怒りと不安で一杯になり、医師に詰め寄る。
「先生、柳がどこで倒れていたか知ってるんでしょ?!」
医師は答えない。
「どうして繭に柳を入れたの?!」
続けて詰め寄る。
「あなた医者でしょ?! 柳をなんだと思ってるの?!」
医師は一瞬驚きの表情を浮かべるが、すぐに落ち着きを取り戻し、クリスに対して何とか説得しようとしたようだった。だがクリスの心はもう決まっていた。すべて聞き流し、震える柳の手を引いて立たせる。そのまま扉へと向かった。
「……もういい。帰ろう、柳! ママに連絡する。今日柳のことウチに泊めるって」
クリスは止める医師の声には構わず緊急コマンドを使って全ての装置を外し、柳の頭に引っかかっていたシンクロヘルムを奪った。
「柳を、あなたの好きにはさせない。こんな酷いことするなら、柳をこの病院にいさせることはできない。柳の両親だってそう言うに決まってます! ……行こ、柳!」
クリスは柳の手をぎゅっと握り、引っ張りながら病室を後にする。決然とした態度に、医師は何も言えずにただ立ち尽くすだけだった。




