ep.27 マインド・コントロール 1
病院の病室に、クリスは息を切らしてやってきた。
意識を取り戻したばかりの柳が起き上がると、彼女の目には安堵とは裏腹に、涙が滲む。柳の名を呼び、彼女はベッドの枕元にと歩み寄ってきた。
「柳!」
「……クリス……」
柳は、クリスの涙に軽い戸惑いを隠せずにいた。柳の精神状態は、自らの心境を言葉にすることを避けさせる。それでも、クリスの涙に心を揺さぶられるのを確かに感じていた。
彼女は慌ただしく近寄ったものの、柳に触れるその時にはそっと手を取ろうとする。大きな粒になった涙が零れ落ちて、手の甲と布団にぽたぽたと弾けた。
「柳……もう大丈夫なの……?! 痛くない?」
「……ああ、うん……」
「柳、心配……したぁ……!」
「ごめんね……心配させて」
彼女の手を、安心させるため握り返す。
――以前に怪我をした時にも思った。運ばれた自分より、クリスの方が痛そうな顔をする。ああ、この子がいてくれるのなら、きっと大丈夫。
柳は、彼女の涙をそっと指で拭った。その涙は暖かかった。
◇
柳が連れてこられた診察室は、表面上は平穏で治療のために設計されているように見えた。
今は緊張と恐怖が満ちている。柳はこの機械が過去の苦痛を呼び戻すかもしれないという直感があった。しかし、繭は本来医療機器である。迷う。だが柳は質問した。
「……これで、治療するんですか?」
後ろに立った医師は、不安を和らげようとするかのように答えた。
「そうですよ。必要なことですからね」
しかし言葉の調子とは裏腹に医師は柳の両肩を押し、半ば無理やりに繭に座らせた。途端に心臓は恐怖で縮み上がり、高鳴り始める。立ち上がろうと手をかけたシートにベルトがかかり、動きを止められる。
「すみません、やっぱり無理です……無理です!」
「はい、閉めるよ」
数時間前に繭に入った後の出来事が、つい柳の中で連想される。味わったばかりの苦痛の時間。まだ新しい印象、記憶。病院に来たばかりだ。治療をするのではないのか? 自分はここに入ることが、果たして正しいのか?
抵抗しようとするがその試みは虚しく、機械の冷徹な動きの前には無力だ。体を軽く固定するためのはずのベルトは何故か今回はきつく、過剰に締め付けられた。シンクロヘルムが被せられ視界を奪われる。
『大丈夫だよ、東雲柳くん。これは治療のためだ』
スピーカーを通しての言葉だ。医師の姿は見えない。ますます体温を失ったような声音に感じられ、柳はパニック状態になっていく。
「……だ、大丈夫じゃないです、気分が悪……出して、……やめてください! 治療を中止してください!」
『君は極度のストレス状態だ。正常な判断ができていない……大丈夫だよ、座って』
その言葉は柳にとって何の慰めにもならない。元々、既に手首と足首を固定されている。無意味な指示だった。
『うん、錯乱しているだけだよ。安心してね。すぐに楽になるから』
医師の始めるよ、と言う言葉で繭の中は闇に満たされ、その瞬間柳の体は極度の痛みに襲われた。叫びたい衝動に駆られるが、声は微かな叫びとしてしか出てこない。
「……ァ………………!」
呼吸は荒くなり、激しい息遣いだけが繭内に響く。
『……はぁっ、はあっ……ああああ……!』
繭の厚い壁によって完全に遮断され、外界には何も聞こえないだろう。拘束された体を激しく捩じらせ、喉からは苦痛で高い音が絶え間なく漏れる。
眼前に青い光が瞬き、目を閉じても脳裏には鮮烈な出来事が再来した。逃れられない。意識は混濁していく。
「先生……! 先生、やめて……何も聞いてない、聞いてないから、知らない……!」
大きな手が迫る。赤く染まった空が上下反転する。縋るものが手足の遥か彼方へと遠のき、正しく反応した平衡感覚は鳩尾を冷たくしてゆく。
上からかかる声が柳を責め、変えられないものを否定しようとする。小さな器は、永久に満たされない空っぽの破片となる。乾いた上にいくら塗り重ねたところで、器が風化してゆくような虚無感が増して行く。これが柳の人生の終わり。永久に続く苦しみの始まりの日。
「僕のせいじゃない、……違う、聞いてない! 聞いてない……!」
その譫言にほくそ笑むと、医師は痛みをループさせた。脳が信号を受け取り、柳は背中を反らせる。
「……あ、ああ!! 痛い!! 痛い! 痛い!」
痛みと記憶が再び脳内で再生される中、精神は暗闇に沈んでいった。
◇
医師は冷徹な表情でモニターを観察していた。
モニターには東雲柳の脳波、心拍数、筋肉の反応などがリアルタイムで表示されており、その数値が急速に変動しているのが見て取れる。医師はキーボードに手を伸ばし、その治療記録を入力する。
『患者ID: 002147、東雲柳。今日のセッションにおいて、高度な痛覚刺激と記憶操作を施行。患者の反応は予測通りに激しく、治療によるストレス反応が最大値を記録。これにより、準備段階が更に進展。患者の抵抗力は顕著に低下し、次フェーズプロセスへの適応率は前回のセッションから15%向上。次のフェーズに進む準備が整った』
力なく垂れ下がった腕が、現在いかに東雲柳が無力であるかを物語っていた。その生体データは、外部のモニターに静かに表示されている。
続けて、東雲柳が意識を失う直前までのデータを詳細に分析し、その結果を治療の成功として記録に残す。その目は科学的な興味と成功への満足感に満ちていたが、東雲柳が経験している苦痛に対する同情の情は微塵もない。一通りの分析を終えると、画面に映る苦痛に満ちた表情を一瞥した。
『完了』
ひと言呟きながら、医師は次の治療の準備に取り掛かる。この一連のプロセスは、彼にとってはただの任務の一部であり、柳の声は完全に無視されている。
◇
薄暗く、重苦しい空気が病室を支配していた。
ゆっくりと目を開けると、瞼の裏に感じた光の残像が徐々に薄れ、曖昧な現実感へと意識を引き戻していく。
視界に浮かぶ白い天井は霧がかったようにぼんやりとしており、身体は柔らかなベッドに沈み込むように包まれていた。しかし全身に漂う鉛のような重さが、感覚を現実の世界へと繋ぎ止める。
部屋の隅に立つ医師は影のように静かで、柳の微かな動きを冷静な眼差しで観察していた。
「東雲柳くん、目を覚ましましたか」
「……はい。でも、あの……治療は……?」
発した声は紙のように薄く、乾いていた。心は、まだ繭での恐怖体験から自由になれずにいる。
「大変だったと思いますがね、これでわかりましたよ。君の病名は――」
『電脳感覚逸脱症候群』という診断を医師から告げられた時、柳の心は急速に冷え込んでいった。
その言葉が存在全体を包み込む氷のように、全身を覆う。柳も知る病名は、すなわち選手生命の危機を示していた。
「電脳……感覚逸脱……?」
呟くとその声は震え、空気に吸い込まれるように消えていった。
医師の説明によると、この症候群は過剰な電脳空間での経験からくる錯覚と、心の奥深くに根付いたトラウマ等が原因で発症する。その原因は明らかで、記憶の奥底に焼き付けられたあの日の出来事、裏切りと衝撃が幼い心と体を襲った瞬間だった。
「心配しなくていいんですよ。私たちは君の味方です」
柳にはそれが遠い夢のように感じられた。
医師の言葉に希望を見出そうとするが、思考は混乱と疑念で満ちる。今の治療は何のためだ。そして自分の判断はどのように正常ではないというのか? 部屋を後にする医師の背中を見つめながら、柳は沈黙を守った。
治療が自分をどこへ導くのか、そして失われた力を取り戻すことができるのか、その答えを見つけることができずにいた。
深夜の病院、寂静は窓外の灯りと共に、柳の心にまで静かに侵入していた。
ベッドに横たわりながら、閉ざした瞼の裏で繰り広げられる葛藤に身を委ねる。医師から告げられた診断は、将来を根底から揺さぶる暗雲となって立ち込めていく。
バーチャルプロスポーツ『ネオトラバース』選手としての道――柳にとってまさに生きがいであり、アイデンティティそのものだった。
だがその病が現実のものだとすれば、競技を続けることは自身の生命を蝕むことに他ならない。そして、勝ち続けるどころか、出場すらも危ぶまれるだろう。スポンサーとの契約に刻まれた文字は、外界からの責任と期待を体現していた。
巨大な企業からの支援はキャリアを支え、また肩に重い荷をも負わせていた。
両親や教師、学校。友人。彼らは柳の才能を信じ、背中を押した。特にクリスとの関係は、心の奥深くに残る僅かな自我に、温かい感情を宿してくれる。
それら全てが今、心の中で渦巻く。
冷静に、理論的に考えようと柳は自らに言い聞かせるが、恐怖と不安、そして未来への憧れがせめぎ合っていた。競技を続けるリスクと引退という選択が前に広がり、それらは思考を占領して離れない。
ネオトラバースと身近な人々へのこだわりは、柳が現在も生きる指標として大切にする、数少ない行動の理由そのものだった。太い柱の1つを失うことは、相当の苦しみが伴うだろう。今まで、どれほどの時間と努力を重ねてきたか。
たくさんの失敗、成功、敗北と勝利、友と競った時間、人生最大の事件さえもこの競技とともにあったが、競技へのこだわりにおいて乗り越え、今現在のステージにようやく降り立ったのだ。
支えは父と母、クリスに流磨……辞めれば悲しむ。しかし辞めなければ、更に悲しむ結果になるかもしれない。
静かな夜の中、思考は次第に1つの決断へと傾いていく――もはや彼らをこれ以上心配させないために、競技人生からの退場を考え始めなければならない。デビューしたばかりだというのに、とんだ笑い話だ。
しかしその決断を伝える、その一歩を踏み出す勇気が、柳には必要だった。
◇
病室に光が差し込む朝、クリスは見舞いに来た。
「柳、おはよ! 今日はどう?」
「うん、ありがとう。だいぶいいよ」
「そうなの? ……良かった」
病名は昨日のうちにテキストで両親とクリス、流磨に共有した。彼女の顔には心配が浮かんでいるが、柳の安全を確認できて少し安堵しているようだった。いつものような穏やかな空気が流れていたが、柳の心中には伝えなければならない重大な決断があった。
柳は深呼吸を1つしてから、クリスに向き直った。
「クリス……僕は」
言いかけて、喉に詰まった空気を飲み込む。クリスは柳が発する言葉を、静かに待った。
「……僕は……引退するべきだと思う?」
クリスの表情が瞬時に変わった。驚きから不安へ。そしてすぐに彼女は柳を止める言葉を口にした。
「今は休むべきなんだよ。あんたはまだやれる……」
言葉を続ける間、その澄んだ青からは涙がこぼれ落ちていた。次から次へと。――そんなに泣いたら、また目が赤く腫れてしまう。
「……ありがとう、クリス。君は本当に優しいね」
柳は、できるだけ優しく微笑んだ。
「…………あんたはまた泣かないんだ……だから私が泣いてあげてるの」
――確かに、自分は泣いてもいい場面だろう。しかし涙は出ないのだから仕方ない。
「……昨日も泣いてたよね? 僕が小さい頃泣いてばかりだったっていつも揶揄うクリスが、こんなにメソメソ泣いてるなんて…………ふふ、ぼたぼた落ちて、目玉まで溶けそうだよ」
その言葉に、クリスはぱっと顔を上げ、目を見開いた。そして、泣きながらも怒り混じりに柳を軽くポカポカと叩き始める。意地悪いからかいも、この距離の近さが親しみとしてクリスに認識させる。
「……もう!柳のバカバカバカバカ!」
彼女の声は怒りよりも、むしろ愛情深いものだった。
「ごめん、ごめんね。ほら、鼻かんで」
柳はやはり、彼女の存在が自分の多くを占めていると思い知る。
この言葉1つに、まっすぐな感情を向けてくれる太陽。存在を感じるだけで強くなれる陽だまり。瞳はいつ見てもきれいで、憧れすら抱かせる。翻る長い髪が光る。声は道標に。その行動のすべての結果が自分のもののように感じられ、嬉しいことは何倍にも増やしてやりたいし、悲しいことは分けてほしいと思う。
――どうして、自分のそばにいてくれるのか?
そのことを考えるたび、無意識の自己否定感が思考回路を停止させてしまう。しかし、今の柳にもわかっていることが1つだけあった。
クリスタルは、柳の力だ。




