ep.25 【速報】試合中の謎の症状で緊急搬送―リタイア決定、原因は依然として不明
試合の舞台は、虚空に浮かぶ電脳仮想アリーナ。
観客のざわめきの中、柳は対戦相手と対峙していた。一瞬の隙も見逃されない緊迫した空気が、電脳世界のこの一角を包んでいる。
試合が始まる直前のこの宙に浮いたような時間の中で、いつものように心臓の鼓動を速く感じていた。
柳は深呼吸をする。電脳空間のアリーナが鮮明に感じられ、ここが自分の居場所だと改めて確信する。歓声は電子的な音波として意識に流れ込み、そのエネルギーが自分のものとして変換されていく。
アバターは意志の延長としてフィールド上を動き始める。ただゴールゲートに至るまでのシナリオを実現する。
考えろ。身体を動かせ。鋭く研ぎ澄ましていけ。対戦相手との間には互いに尊重し合う緊張感があり、柳はそれが心地よかった。
『さあ、一瞬の油断も許されない、ヒリヒリするほどの攻防! まもなくコースは複雑なポリゴン群がブロック状に浮いた、メイン・エリアへと到達します!』
しかし試合が進むにつれて、感覚は変化していった。
「……? ……あれ……」
最初は、小さな違和感だった。何かがおかしい。
それは内側から来るもので、仮想空間のグラフィックや音響とは無関係の、もっと根源的なものだった。その感覚を振り払うようにさらに集中して試合に臨むが、違和感は次第に痛みへと変わっていく。
「……ッ……?! ……動かな……!」
予期せぬ展開に、観客席は一瞬にして騒然となる。
東雲柳の真白いアバターが体調の異常を訴え始め、警告アラートが画面上に浮かび上がる。鋭い動きが、突然の警告アラートと共に止まり、柳はフィールドの端に向かって無慈悲に叩きつけられた。
「……ぐ……あっ…………!」
突如として響いた轟音。観客席は騒然とした。
◇
村田は、今日は妻の仕事と託児施設の都合がどうしても折り合わなかったため、休暇を取得して自宅にいた。
息子はまだ留守番ができる年齢ではない。しかし、今日は息子が好きなネオトラバース選手である東雲柳の試合が、昼間に行われることになっていた。
好都合だ。息子も喜ぶし、自分も楽しめる。息子のおやつと牛乳を用意してやりながら、コーヒーを淹れた。
村田は最近になって、この選手がきっかけでネオトラバース観戦に興味を持ち始めていた。知れば知るほど、この東雲という選手の特殊性が際立つ。彼以外の様々な選手の試合をデータアーカイブから観戦してみたが、あのような新人は他にいない。
そんな時、息子が立体テレビの前に立って言った。
「転んだぁ」
その一言の意味するところがわからなかった村田は、生返事をしながら息子とテレビに近づく。村田は、領域の広いフロアに突き刺さるようにして転倒する東雲柳を目撃した。
「……はっ?!」
信じられない。何が起こったというのだろう。
特徴的な仮想ファブリック製のマントは、光の粒子をまといながら舞う。しかし、重力の法則が電脳世界でも容赦なく働き、急速に床へと降り落ち始めていた。
「転んじゃったぁ」
息子は、少ない語彙の中でトラブルの衝撃を伝えてきた。それは村田も同じだ。
「……そうだね、転んじゃったね……」
柔らかな布地は落下に合わせてするりと変形し、星空が一瞬地上に降り注ぐような幻想的な光景を生み出していた。東雲の現在感じているだろう衝撃と苦しみを、まるで皮肉るように。
思いがけない激しい転倒。実況も固唾を飲んで見守り、現状を報告しているが、緊急時に現れるはずのスタッフのアバターはまだ現れなかった。
試合の熱気が静まり返ったアリーナで、東雲はやがて異常な動きを見せ始める。ポリゴンデータの塊が先の落下の衝撃に反応し、物理演算の通りに緩やかにその姿を衆目に晒していった。
『……っ、あ…………あ……ぁ…………!!』
東雲の手が伸びるが、その動きはまるで別の意志に支配されているかのようにぎこちない。
うつ伏せの姿勢で懸命に立ちあがろうとしていたかに見える。しかし腕で体を支えることができなくなり、肘が外側に向いて身体を地べたに這いつくばらせた。
激痛によって明らかに筋肉が緊張し、腕は空を掴むような無力な動きをする。それでもなお、痛みを何とか和らげようと、肩を掻きむしるように動かしていた。
しかしその苦痛はあまりにも強いようだ。その表情は苦痛に歪み、東雲の口からは抑えきれない悲鳴が漏れ出る。
『あっ……い……いた…………痛い……痛い……!!』
その声には耐えがたい痛みと、状況から逃れたいという切実な願いが込められていた。
痛みに反応してひくつき、まるで電流に打たれたかのように不規則に震える。身体が自らの方法で苦痛と戦おうとしているかのようだった。
五本の指が広がり、集まる。膝下が折り畳まれ、再度伸ばされる。
『……聞いてない、聞いて無いです……! 僕は何も……!』
東雲柳はただひとり電脳世界の虚空で、理解し得る者のいない深い苦痛に包まれていた。外套から放たれた光の粒子が広がり、無惨に床に散らばってゆく。
『何も知りません……な、にも、ああ……あ、痛い……痛い! ……痛い痛い痛い痛い! やめ……ああああ!!』
苦悶の姿は、この高度な技術で作られた世界の中でも、人間の脆弱さと苦痛がいかにリアルであるかを痛切に示していた。
彼の体は仰向けに転がった。
『……………ぅぐっ……は……あっ……………………!』
試合全体が凍り付く中、東雲の対戦相手は突然の雰囲気の変化に思わず振り返った。モニターに東雲の苦痛の表情が大写しにされていることに気づいた彼は、この時に初めて事態を認識したらしい。
アバターの高速機構を瞬時に解除し、再稼働。彼の下に向かう。東雲選手が叩きつけられた場所へと、気づいた瞬間のほとんど瞬時に駆けつけていた。
『東雲くん! どうしたんだ、東雲くん!』
しかし到着しても対戦相手は何もできなかった。東雲の苦痛に満ちた姿を目の当たりにし、助けを提供する手段を持たない。
『痛い……知らない……! 痛い……! 痛い……!』
ただ、柳の側でその痛みを共有することしかできない。対戦相手の目には、信じられない光景を目の当たりにした衝撃と、深い無念が浮かんだ。
彼は柳の痛みに対して直接的な援助を提供できない立場に苛立ちを感じつつも、その場に留まり続けることで、少しでも柳の孤独を和らげようとしていたようだった。
複数のスタッフがようやく緊急対応のため領域上に現れたが、様子を目の当たりにしたそのうち1人のスタッフのアバターが顔を覆って、逃げるようにその場を離れてしまった。その光景は、東雲柳が経験している苦痛の深刻さを一層際立たせていた。
電脳空間がフラッシュバックや警告のメッセージで満たされる。耳を劈く警告音が、東雲をますます追い詰めている。
『嫌、嫌です嫌です! やめて! やめてください……!』
ついに残された僅かな力さえも失って、悲痛な叫びがアリーナに残響した。
『……ぁあ、……い、た……………』
電脳世界の法則に従って彼の姿は徐々に消え、ログアウト処理が始まる。現実世界の東雲が意識を失ったことを示しており、アリーナには彼の存在があったことのみが残された。
東雲のマントの粒子は、彼の痛みと共にアリーナに残る、悲しい記憶の一片となった。その光は、技術の粋を集めた電脳世界でさえ予期せぬ出来事の前には無力であることを示していた。
東雲がこれまで示してきた無敵の姿はあまりにも脆く、突然の出来事によって崩れ去る。外套は彼の苦しみの証として、静かにその場に残されていた。
息子が泣き出す声で、村田は我に帰る。
「ああ、ごめんなぁ。怖かったなあ」
息子には衝撃的すぎただろう光景を、あまりのことにチャンネルを変更するなど対処することを忘れて、全て見させてしまった。
「しにがみ、しんじゃったぁ?」
「……大丈夫だよ、たぶん、転んで怪我をしちゃったんだろうね」
村田もわからなかったが、幼い我が子の感じた恐怖を和らげようと励ます。
あの痛がり方は、普通ではなかった。譫言のように、聞いていないと繰り返していた。数々の奇妙な点が頭を巡る。このことに関しては報道に載るだろう。もともと注目度の高い選手だった東雲の、突然の転倒とリタイア。
息子は先ほどよりは落ち着いたようだが、村田が抱き上げてもまだ泣き続けていた。かわいそうなことをしてしまった。
「ごめんなぁ。びっくりしたよなあ」
今見たことが、息子の深刻なトラウマにならなければいいが……。
◇
技術スタッフは東雲柳の意識喪失に至るまでの一連のデータを、ひとつひとつ慎重に分析し続けた。
彼らは仮想空間の制御室で、無数の画面に映し出されるグラフと数値を見つめながら、何が異常事態の引き金となったのかを突き止めようとする。
心拍数、神経反応、筋肉の緊張度など、東雲のアバターから送られてくるあらゆる生体情報が異常値を示していたことは明らかだった。
しかしその原因については、分析を重ねるごとに、さらに複雑で解明の難しいものであることが明らかになっていった。
仮想空間の物理法則、アバターの設計、フィールドの構造、そして東雲が直面した外的衝撃まで、あらゆる角度から検証を進めた。
対戦相手の行動、移動パターン、さらには外部からの干渉の可能性に至るまで、一切の可能性を排除することなく調査を続けた。専門知識と最新の技術を駆使したこの分析作業にもかかわらず、東雲柳のアバターが示した異常事態の直接的な原因を突き止めることはできなかった。
最終的に、技術スタッフはこの件がプロの技術と知識をもってしても解明できない、仮想空間内での未知の現象によるものかもしれないという結論に達した。




