ep.24 東雲柳 プロデビュー第3戦 VSセリーナ・ウォーレン 氷上のスピードスター
足音が、仮想アイスリンクのフロアに響く。
東雲柳は足元が確かであることを確認するため、リンク上を並行移動し、マントを翻して回った。アバターの処理は滑らかで、動きがスムーズだ。
そして軽くジャンプすると、体格に見合わない重さに足元のフロアが大きく軋んだ音を立て、亀裂が入った。そして彼は頷く。どうやら想定の度合いで調整されていることが確かめられ、自分の準備に納得したらしい。
東雲柳。彼は今回、アバターの『重さ』『密度』を変更しているらしかった。そのアバタープログラミング技術の高さに、実況の馬場は驚く。
彼はサポートメンバーを入れずに単独で競技に挑む選手だ。全ての試合前の告示に合わせて、都度このような調整をするつもりなのか?
馬場は手元の資料を確認する。
彼はまだ新しい選手である。この試合はプロ入り3戦目にあたる。しかし、プロ入りの前に行われた一般試合、幼年ルールのスターライトチェイスにおける華々しい戦績でも、東雲柳はその強さを十分に証明していた。
観客席からは、そのアバターコントロール技術に期待と畏敬の入り混じった声が小さく漏れ始める。しかし相手選手は先日の試合とはまた違った意味での強敵だ。
『やっほー! 応援よろしくね!』
海を思わせる深い青のアイスリンクをバックに立ち、対するセリーナ・ウォーレンは笑顔で観客の声援に応えていた。そのシルエットが青色の中で切り抜かれたように、眩しいイエローの衣装で存在感を主張する。
旧時代のフィギュアスケート選手が身に纏っていたレオタードのような仮想装甲は、東雲と同じように仮想ファブリック製だが、役割が異なる。東雲のものは特性である幻影を処理するための機構である。
このレオタードは彼女のスピードを電脳処理によってより高い次元に引き上げ、現実世界での物理法則では到底不可能な処理を可能にするもの。ウォーレンは全身をスピードに乗せ、ゴールに向かって突き進む選手だ。妨害技術はそこまで高くはないが、勝利条件であるゴールゲートを先に潜ることに注力するプレイスタイルである。
そしてその選択は間違っていない。彼女の適正に合致している。
『うん、コンディション悪くないわ』
装甲の裾には繊細な装飾が施され、動きを引き立てるきらきらとした輝きが散らされている。
足元には膝下までを覆うブーツ状の装甲を身につけていた。このように滑る領域タイプに対する装備としては、これが有利に働くだろう。靴底には刃が仕込まれており、素早い移動のため仮想物理の干渉をコントロールする役割を担っている。つまり、現実世界でのスピードスケート。しかしこの装備の華麗さは、フィギュアスケートの舞姫のようだった。
セリーナ・ウォーレンはその場で数度円を描き、アイスリンクとの相性を確認する。
ブーツには彼女がある動作を行うと視線の先に仮想障壁を出現させ、相手の進路を妨害するというギミックが組み込まれていた。
今回は対戦相手同士がスタートラインに並ぶ形式だ。
スピードスケートのような風景。馬場は幼い頃、現実の冬季世界大会で似た風景を見ことを思い出した。しかしこの領域には美しく舞うきらきらとしたエフェクトが特徴づけられている。デザイナーによって演出が施されることが、現実のスポーツと異なる点だ。これが観戦者の娯楽に繋がっている。
ウォーレンが東雲に近づいた。にこやかに挨拶しようと彼女に向かっていた東雲が歩みを止め、握手を求めた。
『悪いけど、シノノメ。私が勝つわよ』
挑戦的な一言だ。そして強めの握手。しかし、その口元には笑みが浮かんでいる。勝ち気な表情に、東雲柳はある種の親しみを感じたらしい。
「お手柔らかに願います……ウォーレン選手」
試合前の緊張を感じさせない、静かな微笑みだった。
ウォーレンの瞳は、東雲を捉えるとその瞳に闘志を燃やし始める。
海外の選手として、セリーナは圧倒的なスピードと豪快なスケーティングを模した超速の走りで「次世代のスピードスター」として知られている。
勝気そうな印象を、その大きな瞳が強調していた。色は鮮やかなグリーンで、後ろに向かって撫でつけられた長い髪は鮮やかな茶色だ。
すらりとした体格は、まさにスケートリンクという場のモチーフにぴったりの軽やかさ。
『もうまもなく開始時刻です……』
東雲はそんな彼女の面立ちと立ち姿に、先日の試合とは違う親しみを感じているようだ。しかし今は試合前。余計な考えを振り払うかのようにくるりと回り、仮想ファブリックを翻すとスタート位置についた。
数秒間目を閉じたが、次に開いた瞬間、そこにはアイスリンクの冷たさに負けない程の怜悧な輝きがあった。
『セリーナ・ウォーレン、スピードスターとして知られる選手です。新進気鋭の東雲柳選手でも、今回の戦い……油断できないものとなるでしょう!』
馬場はが彼らの試合を盛り上げるため、それぞれの紹介を軽く挟む。試合開始まであと1分と迫っていた。
セリーナは勝利への執念を込めるように、東雲へとしっかり目を合わせた。東雲はその視線を受け止め一瞬の微笑みを浮かべると、すぐにまた俯いた。先程の柔らかな笑みとは違う、口元だけの笑み。馬場は感じ取った。彼の意識は完全に試合モードに切り替わっている。
試合まで、残り30秒。
『両者真剣な眼差しで、ただ前を見据えています……』
鋭い電子音が始まりを告げ、二人の身体が瞬時に動き出す。
東雲の動きは、狙いを定めた猛禽類のように鋭く、ウォーレンの反応はそれを感じ取るかの如く素早い。電脳世界上に設けられた観客たちの姿が領域外に並んでいるが、それらがまるで石礫のように通り過ぎ、あっという間に像を結ぶことすらできないほどの猛スピードへと到達した。
ネオトラバースのスピードは、ここから更に加速した段階で本番と言える。まだ序の口だ。このスピードについて来られないようなら、はなからプロ選手たる資格はない。
まるで高度な戦術ゲームの駒を動かすように2人はフィールドを駆け巡り、緻密に相手の動きを読み解こうとしている。
『さすがに最低限の速さはあるわね。あなたの特徴的な速さは瞬間的なもの……つまり反射神経。私の走りについてこられるかわからなかったけど、まあまあ合格のようね』
その挑発に東雲は乗ることなく、ただにっこりと笑ってみせた。彼の足捌き、その姿は鷹のようで、地に足をつけていながら空を飛んでいるような錯覚を起こすものだった。
観客たちは一斉に歓声をあげる。期待されていたスピードを超え、ふたりは瞬時に領域の彼方へと過ぎた。立体表示では彼らにフォーカスした映像が観客席の眼前に映し出され、その戦略的なゲームを観戦できる。
東雲はゴールゲートに向けて一直線に進もうとはせず、まずはセリーナの動きに注意を払っている。
幅広いフィールドでは、相手との試合上のコミュニケーションも勝利に影響する。今回のコースの仕様はまだ動きの少ないものだ。つまり妨害の要素が進路上になく、相手の妨害を処理、または自らの下す一手がコース上の有利を決定づける。それら全てを追い越すほどのスピードがあれば別だが。
ウォーレンに向けられた東雲の眼は細められ、彼女のスケートの刃が氷を切る音に耳を澄ませているようだった。彼は戦略という、ゲームを彩る要素の最大単位について評価が高い。ウォーレンとて油断は禁物だ。
今まさに成されているのは戦略の立案であり、心理戦である。
『両者一歩も譲らないスタート! 凄まじいスピードで電脳世界の風を切り、ゴールへと鋭く走ります!』
ウォーレンは東雲の静かなる存在感に圧倒されながらも独自のテクニックを披露し始め、領域上を縦横無尽に舞う。
彼女はスピード勝負なら負けないが、一度妨害への対処をする様子を見たいだろう。馬場の予想通り、まずは東雲の足元を揺るがすギミックを爪先で仕掛け、発動をステップで命じた。
進路上の座標に、輝く双眸が鮮明な像を結ぶ。
『割れろ!』
氷を模した地面が亀裂を走らせる。氷が隆起し、まるで氷河の衝突のような衝撃が一帯に走った。当然、ウォーレンは意図通りのため、最短コースで切り抜けて先へ進む。
「……あ、……っと!」
彼はその干渉を避け、特殊装甲を大きく翻しながらターンし、彼女の視界内まであっという間に追いついてみせた。セリーナの妨害から受けたアイスダストのような電子塵が、蛍光イエローに瞬いてはあっという間に消えてゆく。
『おおー! 東雲選手いなしました! 滑らかに追いつき、スピードの世界に戻ってゆきます!』
東雲はウォーレンの動きに合わせて微調整を繰り返し、攻防のバランスを崩さないようにしている。ゴールゲートはまだ、遥か彼方。
「……やるわね!」
ウォーレンは一向に妨害を始めない東雲に苛立っているようだ。
「かかってこい!」
試合の初めの数分は、ある意味で最も緊張する時間帯である。勝敗を左右するのは、この序盤戦での読み合いと、互いの技の精度にある。
まるで互いの心の中を見透かそうとしているかのように、1つ1つの動きを細かくチェックし合いながらデジタルの世界に軌道を描いてゆく。
時には相手の攻撃を巧みに避け、時には自らが攻めの姿勢を崩さずに相手の弱点を探る。
『……軍師気取り? 本当、生意気だわ!』
東雲は防御を重視しつつも、決して消極的にはならない。
そこからウォーレンのプレイには進路妨害の意図が見え隠れし、積極的にギミックを駆使した戦術で進む道を制限しようとする。
数度の妨害で東雲の対応力を確認した彼女は、試合を進めるべく次のプロセスに移った。
今までの試合データから読み取るに、彼は自ら進路妨害をすることが少ない。その装備の内容も、主にはそのマントのような薄い布を用いた幻影や、加速のための細かなブーツギミックがメインである。それを裏付けるような試合運びだ。確信は強まる。
基礎スピードは自分と遜色ないが、勝てる。
試合の中盤に差し掛かると、ウォーレン・東雲間の戦いは戦略の応酬となる。馬場は観客に試合の進行度を明示した。
『さあ試合は中盤! 技の読み合いの段階は終わり、ゴールへの道を作らねばなりません!』
二人の緊張感は観客を釘付けにしていた。
そしてついに東雲がウォーレンの進路を操るよう、緻密なギミックを駆使し、彼女を迂回させようと仕掛けてきた。
彼が指先をついと動かすと、鋭い角度で仮想物理シールドが行く手を阻む。
少ない妨害ギミック。事前資料の通りだ。しかし、このシールドは接触したものを弾くような反発性はない。つまり、ジャンプ台のように駆け抜けることが可能だ。
『きた!』
セリーナは怯むことなく一気にシールドを駆け上がり、ほぼスピードを落とさないまま乗り切った。
馬場は彼女の対応を賞賛する。
『ウォーレン選手、自らのスピードで東雲選手の妨害を超えた! 見事な対応力!』
しかし、このような妨害を何度もまともに食らえばウォーレンとて勝利を逃すだろう。ここで自ら妨害に出るとは。自制力がある選手だ。
彼は相手の出方によって、自らのアバターに手を加える技術も高い。ウォーレンの攻撃的な行為に対応して、ここで妨害ギミックを使ってくることを馬場も読みきれていなかった。ウォーレンにはもう分析している時間はない。こうして焦らせることが狙いか?
柳の指先はセリーナが妨害ギミックをいなしたことを確認すると、そのコントロールを解き、続く試合を運ぶ。
「ダメか……」
今は彼女らのゲートまでの距離はそれほど差がないように見えたが、ウォーレンは勝利するため、早く攻略法を見つけなければならないだろう。
ウォーレンは東雲の次の罠を予測し、その一瞬先を行く動きで対抗しようとする。彼女の動きは変わらず、獣のように俊敏。前傾姿勢のまま加速し、続いて激しく急カーブしてコース内をショートカットする。
この領域はアイスリンクのようだが、時折僅かな勾配があることで試合内容に微妙な変化をもたらすものだった。坂をまともに上り下りしている時間はない。そんなことをしていれば、追い抜かれる。
クロスカントリースキーのような立体的な領域に入った。少しでも高低差の少ないコースを選び取り、渡らなければならない。
『東雲選手の妨害を警戒したのか、ウォーレン選手も様子を見ている?! こう着状態です! このままクライマックスへと向かうのか?!』
観客は彼女が如何に東雲の計算を上回るかを見守っていた。
現実ベースの物理法則を捻じ曲げられた電脳フィールド上では、仮想物理を駆使した進路妨害と防御が絶え間なく繰り広げられる。
ウォーレンの策略は東雲の周囲を舞い、彼の進む道を巧みに封じようとする。東雲はそれに応じ、次なる行動を静かに、確実に展開しようとした。
しかしウォーレンの猛攻は止まない。コースの選択肢は、徐々に狭められていく。
「……うっ!」
『おおーっ! 危ない! しかしまともに受けなかったのはさすがの反射神経というべきか?!』
東雲の薄い外装が僅かに剥がされ、宙を舞った。バランスを崩しかけたが、慣性を利用して宙返りすると、弧を描きながら元のコースに戻った。
『おら、おら、おらぁ!』
東雲が予測した動きを覆すために刻一刻と策を練り、ウォーレンは彼を追い詰めようと手数を増やしていく。
『シノノメ! ただ走ってるだけじゃ、この私には勝てないわ!』
ウォーレンの踵から生み出された亀裂がふたたび段差となり、砕けた氷が東雲に降りかかる。
両者が過ぎ去った道程には形を変えたフロアの残骸が次々と出来上がっていき、相争う試合の激しさを物語る。
氷塊が積み上がっていく。シューズの刃から削り取られた氷が勢いよく飛び散る。美しいウォーレンののスケーティングは、攻撃的な氷の牙。
「次は……」
東雲は次の展開を予測し、準備を整えていた。反射神経を過信することなく距離を取る。避けた妨害の破片のひとつ、氷塊がまた弾け、彼の目の前に落下した。片脚で宙返りして避ける。あくまでスピードは殺さずに。
『ウォーレン選手の猛攻を辛くも躱し続ける東雲選手! 一瞬たりとも目を離せない試合運びだ!』
外套が動きに追いつけず、大きく風に流された。東雲は右腕でそれを払い除け、真っ直ぐに前を向いて高低差のあるコースを抜けていった。ウォーレンとは一進一退の追い抜き合戦が始まっている。
ゴールゲートに近づくにつれて観客の期待と緊張が高まり、それぞれの応援の声も力を増していく。
クライマックスを前に、馬場は叫んだ。
『ここからが真の試合だァ!』
彼女の目は最後のチャンスを伺っている。
しかし東雲は不動の構えを崩さず、彼女の動きを静かに追い続けていた。眼差しはウォーレンに向けられたまま一切の揺れもなく、彼女の意図を見透かすかそうとしているようだった。
ウォーレンは叫ぶ。
『──ああ、その目が気に入らないわ。勝つのは私! 私だ!』
ついにウォーレンはゴールゲートへと踏み込もうと再加速する。
だが、東雲も再加速して彼女を追い越した刹那、その戦略が既にウォーレンの道を封じていた。
「しまった!」
ウォーレンは僅かに気を緩めた。勝負は常に、一瞬の隙も許されない。
東雲のシールドはすでに眼前に広がっていた。翻る外套から生成された妨害。ウォーレンのアバターは軌道を変えられ、目前のゴールから遠ざかっていった。
『きたぁーっ! 東雲の象徴! その身に纏った極薄のシールドがプログラム通りに展開し、ウォーレン選手の行手を阻む! もう手出しができないーッ!』
ようやくシールドの隙間からウォーレンが東雲を視認した時には、遠く彼方で彼がゴールゲートを潜るところだった。もうウォーレンの装備に、有効な進路妨害手段はない。
駆け抜けた東雲の脚が勢いのまま数秒動き、摩擦によって停止するため地面を抉るようにスライドする。
彼の体が押し入ったことで、ゴールステージに満たされたスモーク状のエフェクトに大きな穴が空いた。フロアが重量を受け止めきれずに大きく砕ける。
『東雲選手、信じられない! スピードスターの猛攻を切り抜け、 ゴールを制したァーッ!』
馬場は叫ぶ。
ウォーレンは遅れてゴールした途端に肩を落としていた。脚からは力が抜けていき、崩れ落ちそうになる。
『見事な試合でした! スピードと戦略の一騎打ち、今回は戦略に軍配が上がりました!』
彼女は最後に焦ってしまった。東雲はその場での対処を繰り返しながらその時を待ち、すべてを覆した。このゲームを自分のものに変えたのだ。
割れんばかりの声援を受け、二人はそれに答える。ウォーレンは敗れたことを認め、東雲に敬意を表するため、日本式に一礼をした。
「ありがとうございました」
『ありがとう、やっぱり強かったわ……』
東雲もまた深く一礼を返し、自らの勝利を冷静に受け止めているようだった。
『シノノメ、素晴らしい戦いだったわ。あなたの冷静さと戦略、本当に学ぶべきことが多かった……オジギって、これでいいのかしら?』
東雲は照れ笑いする彼女に対し、静かに応えた。
「……ええ、とても綺麗なお辞儀ですよ。ウォーレンさん、あなたの熱意と技術も見事でした。お互いにとって意義深い戦いになりました。これからも、共に切磋琢磨しましょう」
踵を返し、東雲は再度、観客へ礼をする。外套から立ち上る粒子がフィールド上の照明を透かし、彼の背中を包んでいた。




