ep.002 変化しない関係性
朝の未来ノ島は、柔らかな光で満ちている。
クリス──桐崎クリスタルは、いつものように朝日を浴びながら高専へと足を進めていた。サイズがピッタリで清潔なブラックのローファーが、小気味良い音を立てて存在を知らせている。
視線の先には、クリスが思いを寄せる人、幼馴染の東雲柳の背中があった。彼は静かに自分のペースで歩いている。クリスは少しでも近づこうと、歩調を早めた。
その途中通り過ぎた友人たちに、笑顔で挨拶を投げかけてゆく。友人たちもまた溌剌とした声に応え、キャンパスは小さな笑い声で満たされていく。この気持ち良い島の朝が、クリスは好きなのである。
「おはよ!」
「おはよー、クリス。あれ? 今日は東雲くんは?」
「ちょっと私が用事あって。寄り道してたから、ほら、あそこ!」
ついに追いついたとき、クリスは彼の横顔を覗き込み、声をかけた。
「柳!」
柳は驚いたように振り向き、「おはよ、クリス」と応えた。
「おっはよっ!」
その動作は、朝を象徴するようなもの。梳いた金色の毛先がきらめいて、軌跡を描きながら柳の傍らに、クリスはふわりと降り立った。スカートの裾を見せつけるように、彼の数歩前でさりげなく、くるりと回る。
しかし柳はその仕草を見ても、微笑んだ表情を崩さずにそっと目を逸らすだけだ。クリスは小さく拗ねたように、唇を尖らせた。その小さな期待は、柳には伝わらない。
ほんのりとした空気は、温かな春の訪れを告げていた。2人が年の数だけともに過ごした、始まりの季節。
◇
未来ノ島高専の昇降口にて、クリスは上履きに履き替えるため腰を折っていた。
光が差し込むその空間で、クリスは柳との会話を続けながら、短く調整した自分のスカートについて、なおも彼が何か言ってくれることを期待している。
――大丈夫。中身は見えない。鏡の前で入念に確認済みだ。別に下品に振る舞いたいわけじゃない。ただ、少しだけ。少しだけドキッとしてくれたらいいのに。
「私、中間テストのプログラミング実技やばいんだよね。今日提出の課題、やっぱりうまくできなくてさあ」
元の姿勢に戻りながら発したクリスの声は、ざわめきに紛れながら思っていたより大きく響いた。柳は寄り添うように言う。
「そっか。クリスそれ苦手だもんね」
「ねえ、教えてくれるって前言ってたよね。今日の放課後、教えてよ!」
クリスの目は期待で輝いている。しかしその瞬間、ばっちりと目線が合った柳の表情は、一変した。
「……クリス」
柳の声が静かに彼女の言葉を遮る。
「なに?」
少し躊躇いながらも、彼は慎重に言葉を紡ぐ。
「……あの……」
「な……なんだよ。」
クリスの声には少しの焦りが混じった。
「…………制服……もうちょっと長くしたほうがいいよ」
瞬間、積もり積もったフラストレーションがせりあがり、クリスの肺から声となって飛び出した。
「……はあー?!」
「……だってさ……」
しかし言葉を受け入れられず、感情が爆発する。
「もういいし!! 柳のバカバカ! 朴念仁すけべマッチョアスリート!!」
柳から背を向け怒りに任せて、クリスはその場を離れた。
――もう、ばかばかばかばか。ばか! ばーか!
柳はその場でクリスが去っていく背中を見送る。
今の言葉は、クリスを守りたいという純粋な思いから出たものだった。しかし、クリスの期待とは裏腹に、その思いが彼女を傷つけてしまったことをうまく掴むことができないまま立ち尽くす。
「またやってるよ」
「いちゃついてんじゃねーぞ、っと。はよ、東雲」
「あー、俺も彼女ほしー」
クラスメイトが後ろから声をかけたが、反応が遅れた柳は彼らの挨拶に返答できなかった。
◇
未来ノ島高専の校舎は島の上層部、大学院を除いた最北端に鎮座し、島中の景色を一望できる。
春の暖かな日差しの下、根岸リリアはこの展望を思う存分楽しんでいた。3人揃って、中庭を望む校庭の花壇へ。昼食を取りながら、穏やかな風を受ける。
クリスだけが、その静謐を乱す存在だ。
「ありえなくなぁい?! 散々溜めといてそれッ?! いくらなんでもひどいと思うんですけど!」
ほとんど自らの感情をむき出しにしたような訴えに、リリアは慣れた笑顔で応じる。
「はっはぁー! 2人は今日も仲良し! だっつーことはわかったよ〜ん」
「まあまあ……柳くんやさしいから……」
大分鞠也は、花壇の花に目線を落とす。リリアは足を投げ出し、鞠也の隣で苦笑いしながら言った。
「あんたがさっさと告っちゃえば、アタシらはこんな痴話喧嘩ごっこにつきあわなくてすむんだけどナー」
弁当に押し込まれた魚のフライをフォークで仕留め、クリスの訴えから逃れるように、光る海へと目をやる。
「ほんと、ありえない……」
クリスは突如として意気消沈し、うなだれ始める。リリアは更に言葉を重ねた。
「『柳! 私、あんたのことが好きなの! ちっちゃい時からずーっとなの! 交際よろしくおねがいします!』……簡単! ほら、復唱!」
「ううぅ〜……!」
これは、何度目になるかわからない。今回は時期的にも、より強調して伝える必要があるだろう。複数の高校、または高専に入学するため未来ノ島学園の進学試験を突破した生徒は、もちろん柳のことをよく知っている。しかし、外部から通学し始めた後輩も増え、ますます東雲柳に注目する人数は増えているだろう。ここ未来ノ島は、世界的にも進学・就職の倍率が高い土地として知られている。そんな場所で活躍するアスリートとなれば、なおさら噂の的だ。
「ねえ、クリス。あんた知ってるのか知らないのかアタシわかんないけどぉ……柳ってモテてるぜ?」
下を向いたままのクリスが、「わかってるよ……」と絞り出す。
「言うて、クリスも大概だけどなー」
桐崎クリスタル。今は伏せられたまつ毛で翳りが出ているが、彼女の瞳は空の青さを映し出しているかのようにクリアだ。
春風がそよぐ度に、腰までの髪が風になびいている。太陽光に反射し、まるで周りを明るく照らす光源となっているかのようだった。クリスタルが持つ外向的な性格を反映しているかのような、眩しい輝き。薄い金髪は、彼女の父の生まれ故郷、北の民から引き継いだ、遠い遺伝。
この国においては黒や茶色がほとんどであり、染髪することが少ない若年の生徒たちの間にあって、その姿はひときわ目立つ。
「幼馴染とか、一番近いとか、そんなの誰かのものになっちゃったら、パアになっちゃうんじゃないの。早く名実ともにモノにして、私の柳! 彼氏! って周りに言っておかないと……そう思わねえ? なっ、鞠也」
「う、うん……そうね。がんばって!」
小柄な鞠也は、頭上から投げかけられたリリアからの突然のパスに戸惑いつつも、健気に応援する気持ちを伝えていた。クリスが中学時代、自分たちにその思いを明かしてから何年も経つ。だというのに、まだ大切な一歩を踏み出せずにいる。
そして遠くに――――アスリートの世界に旅立った柳への思いを、心の奥深くでくゆらせている。その感情は、もはや爆発寸前。いや、毎日小さく爆発しているけれど。リリアと鞠也は親友だ。――この子がいちばん大切な人を誰かに奪われて泣くなんて、見たくないのだ。
「告っちゃえって言ってるのは、ふたりのためなんだぜ? あーんな有名人、クリスの知らないところで知らない女と付き合い始めたらどうするんだよ。広報とか、父親の会社の人とか、コーチとかもいただろ、知ってるんだぜ?」
「で、でもあの……あの人達は、仕事で」
「ただでさえ試合だ撮影だで、最近あんまり会えてないでしょ。早く好きですって言って、彼女になって、柳のことも安心させてやりなよな」
東雲柳は意識的に、決定的結論を回避しようとしているのかもしれない。それが怖くて、怖くて仕方がないのだろう。と、リリアは推察する。
この友人は誰よりもまっすぐで、そして隠し事が下手だった。
毎日、このかわいい顔を見ていればわかる。大きくはっきりとした色の瞳は、覗き込めばすべてがわかってしまいそうなほどに、如実に感情を表現してくれる。
「……あれでいて、柳もあんたのこと特別視してるのは明らかじゃん」
肩にかかった髪をかきあげた。黒く太いこの髪と、褐色の肌。クリスタルとは全く別ベクトルの魅力があるとリリアは思っている。母譲りの起伏に富んだプロポーションも、自分の体の特徴のなかでは、かなり気に入っていた。
「柳って、クリスが大事ってことは誰が見てもわかるだろ。ぜってー大丈夫だわ。アタシらが太鼓判押すって! なっ鞠也!」
「うん! そう、そうよ! クリスちゃん! 大丈夫よ」
どうしてさっさと言ってしまわないのか、リリアは理解に苦しむ。中庭から歓声が聞こえる。クリスはすぐにここからいなくなるだろう。
――だけど、柳も柳だ。
驚くべきことに柳は、こんなにも明らかな好意をクリスが示しているにも関わらず、それを自分への恋愛感情と認識していないのだった。
◇
昼休みの中庭は生徒たちの熱気で溢れ返り、バスケットコートはその情熱の中心地となっていた。
長岡は男子バスケ部の中心選手として、今のところは実力でコートを支配している。しかし、ここに放っておけない存在がひとり。なんと、彼はプロアスリートだ。とはいえ、この学校の生徒の半分近くは彼を子供の頃から知る。何かをしてくれるだろうという期待が、ギャラリーの視線にこもる。
東雲柳はバスケ部に所属していないながら、特有の技術と速さで長岡に挑戦していた。動きは繊細かつ効果的で、自然体の中にも計算された技巧を感じさせるものである。
同じクラスの東雲。ネオトラバース選手であり、普段から現実世界での肉体の鍛錬も欠かさない。先日体育の授業中に、彼の驚くべき反射神経に驚嘆したことを長岡はよく記憶していた。
彼は電脳世界の領域上での妨害をかわし続け、自らをゴールへと導くための速さを鍛え上げている。その評判においては長岡も中学の頃から聞き及んでいた。成績優秀者が推薦される未来ノ島中学校の外部生徒枠に入り、この島に長岡は通い始めた。当時はクラスが別であったが、長岡は彼と同じクラスの桐崎クリスタルに関心を持っていたため、伴って東雲柳についてもクラスメイトたちよりも積極的に情報を得ていたのだ。
そう。最初だからと、体育教師は3日前の授業でバドミントンのラケットと羽根を生徒たちに配布し、好きに打ってみろと言った。
まずはスポーツを楽しむこと。お互いの運動能力を知るには、ピクニックなどで行う軽く簡単なスポーツから始めようというのが、教師の方針のようだった。これなら運動が苦手な生徒も、ラケットに羽根を当てるくらいは可能だろう。
誰もが、東雲柳というアスリートが臨むその一投に注目している。柳は知ってか知らずか視線の只中で真上へと羽根を放り、ペアの生徒に向けてラケットを振った――かに見えた。
何と、彼の握ったラケットは高い音を立てて、空振りした。羽根は重力のままにぺたりと落ちる。
気まずい沈黙が流れる。体育教師は質問した。
「どうした、東雲? お前、アスリートなんだろ?」
体調でも悪いのかと質問されながら、東雲柳は照れくさそうに笑顔を浮かべ、こう答えた。
「すみません。電脳世界のような感覚で現実のスポーツをしようとすると、かえってスピードを合わせるのがむずかしくて……慣れるまで、試しに何度かやってみないといけないと思います。電脳スポーツのプレイヤーによくあることらしくて」
「なにそれ?!」
――意外だった。
「どしたぁ、長岡」
教師の声掛けに、自分が素っ頓狂な声を上げて目立っていたことに気づいた。長岡は口を手で覆いつつ、東雲柳に非礼を詫びる。
「わ、悪い……東雲」
「いいよ、最初は皆ビックリするよね」
つまりは、ラケットに羽根を当てるその瞬間、羽根の落下速度の緩慢さに自らのラケットの動きを『鈍く』調整する必要があるほどに、彼のスピードは達しているという意味である。スポーツ経験は現実世界のみの素人には理解不能な次元だ。
肉体への反映を行う瞬間の、避けられない現実世界の生物的限界が排除された電脳スポーツにおいて、現実世界で体を使うには、数度のテストを経てそのギャップを埋める作業を要する。
クラスメイトたちはその意味を理解できる者から驚嘆し、ネオトラバースプレイヤーとしての彼の活躍の理由を口々に語り合った。
もちろん、長岡もである。
――巧妙なフェイントと俊敏なカットは、長岡をもってしても見逃すことができない挑戦である。
隣に校舎がある未来ノ島高校の清宮とほぼ毎日のようにトレーニングジムに通う姿は、ジム近くのバスケ部練習施設に通う長岡にとって、日常の景色の1つとなっている。
場所が違うにしろ、反射神経を鍛え上げ、俊敏さの向上に真摯に挑む彼の姿勢に同調する気持ちはあった。
「いけーっ、長岡!」
「高専バスケ部の意地、見したれー!」
試合の熱気が中庭を包み込む中、東雲が機敏にボールをドリブルで運んでいく。その隙を狙って接近し、奪った。長岡は息を荒らげながら挑発するように言う。
「来いよ、東雲! 今度は抜かせないからな!」
この一言には直球な挑戦の意志を込めた。今はただのゲームではなく、真剣勝負の瞬間だ。東雲は無言のままその瞳で返事をし、動き出した。どうやら、バスケに『感覚』を合わせる作業は完了しているらしい。配慮は不要だ。
ゲームはカットとシュートが繰り返され、次第に長岡と東雲の一騎打ちに焦点が絞られていく。遮る東雲のチームの生徒をかわそうとした瞬間、またボールを彼に奪われてしまった。しかし、ゴールには至らない。再びチャンスがやってくるのを待つ。東雲はチームメイトの位置取りを素早く確認するとパスを出し、駆け出して再びボールを受けた。
「ナイスパス!」
そのまま彼が巧みにボールを扱いつつ守備を激しく試す中で、一瞬の隙を突けた。ボールが自分の手に渡る。
その瞬間東雲は短く息を吸い込み、闘志を燃やしているようだった。
「次は絶対取り返す……」
ほとんど吐息のような小声であった。ボールはチームメイトにパスが通り、1点が入る。
再び始まったゲームでは、再びボールを取ってスタートすることができた。
東雲がフェイントと速さでボールをカットしてこようとするたびにその挑戦を受けて立ち、今まで数々の試合で獲得した経験値をフルに活用してはかったタイミングで、またボールを奪回する。
そして、勝負の行方を左右するかのような瞬間が訪れる。今しかない。長岡はコートを疾駆し、力の限りを尽くしてシュートを放つ。
「……っうらぁ!!」
ボールは気持ちよくバスケットを貫いた。
コート内は瞬く間に友人たちの歓声で満たされていく。
「やった〜!」
チームメイトと喜びを分かち合うが、内心では東雲の技術に対する尊敬の念が芽生えていた。
バスケ部に所属していないにもかかわらず彼が見せるカットの技術の高さに、「今のは危なかった」と心の底から感じていたのだ。
昼休み終了の予鈴が中庭に鳴り響き、プレイヤーたちは次々にコートを後にする。汗を拭きながら東雲に近づくと、彼から軽い言葉が投げかけられた。
「すごいね、長岡」
「東雲こそ、バスケ部じゃねーのにあのカットはすげーって。マジ敵わねー!」
すぐに感動を込めて返答する。あの時はやられた、さっきのあれは良かった。たった今得た興奮を互いに分かち合った。
「さすがだったよ」
東雲は穏やかに自分を称賛してくれ、しかし笑顔で「次は負けないよ」と次の挑戦を約束する。またやりてーから、コート来いよ、と返答した。
背中や肩を叩き合う。なんだ、よくわからないと思ってたけど、こいつもちゃんと人間だったんだな。
「じゃ、俺は先教室行くな!」
「――柳!」
振り返り、桐崎クリスタルがこの昼休みの間に、自分と東雲とのゲームを見ていたことを知った。
「クリス、ありがとう」
クリスは東雲に持ってきたドリンクを手渡し、花が咲くような笑顔で彼を見上げていた。ブルーの瞳は潤み、東雲に対する感情が溢れ出している。
そんな顔をされたら、嫌だってわかる。知る限り数年間にわたり、2人の関係性が変化を見せないことに、長岡さえ苛立ちを覚えるほどだった。