ep.001 ネオトラバース
――ああ、痛い。
東雲柳は、塞がったはずの傷が痛むのを感じた。
この痛みを最初に感じたのは、既に8年も昔の話だった。だというのに、ふとした瞬間に気配を感じ取る。例えば高い階段から地上を見下ろし、生物的な恐怖を感じた時には思う。無味乾燥な感情の手触りを、確かめる。“彼”は、こんな気分だったのかと。
「東雲くん、体調は?」
「問題ありません。試合まであと何分ですか?」
「あと10分よ。モニタリングは先生が担当するわ。繭に入って」
「はい」
体調モニタリングのため、立体画面が多重展開されるデスクへ向かった校医に促され、慣れた〝繭〟のコックピットへと入る。このシートに座れば、頸に入った〝生体識別チップ〟によって全てのデータが電脳世界にリンクする。競技用のヘッドギアを装着し、柳の立つ舞台は教室から世界へと、瞬く間に変わる。
「――トランジョン完了」
柳の出番は第2試合。今日の試合への準備は、怠らなかった。過去の影を振り払うためにも、心に残った炎を燃やし続けるためにも、柳は勝たなければならないのだ。
◇
『今日も現実・電脳問わず、無数の観客たちが見守る中、このネオトラバース専用の仮想領域が展開されていきます!』
実況が電脳空間上の会場に響き渡り、見るものの心を高揚させる。ネオトラバース実況の分野で、このアナウンサーは的確な言葉を紡ぐ実力が高く評価され、今日の試合を受け持っていた。
光の装飾が領域全体を彩り、選手たちの動きに応じて、色を変える。
ビビッドな色彩の草原や山脈が広がる仮想空間は、現実では見られない美しい景色で満ちていた。選手たちのパフォーマンスに合わせ、夜空は花火を咲かせるように変化する。
各々の個性が色濃く反映されたネオトラバースプレイヤーの専用象徴。彼らが領域を駆け巡る姿は、これがただの無為なゲームではなく、電脳技術と人間の可能性を探求する冒険者の象徴という事実を、見る者に強く感じさせる。
『ッしゃぁぁぁーっ! 勝ったーッ!』
先にゴールゲートを潜った第1試合の勝者が、ゴールゲートのステージ上で雄叫びを上げた。上空にはクラッカーのようなエフェクトが色とりどりに舞い、彼の勝利を祝う。
『いやあ、盛り上がっています。注目選手2人の対決とあって、インターネット上の実況もものすごい速さで流れていきますね!』
指定された座標に降り立った柳の周りでは、無数のデータパーティクルが動きに応じて舞い上がり、ふわりと光の軌跡を描いた。
軽やかに翻る仮想ファブリックとその仕様によるエフェクトは、硬いシルエットで構成されたこの電脳世界上で、存在をより強く印象づけていた。
『選手が登場するステージに走る、精神と肉体を象徴する光とエフェクト、そしてエンブレム。これが彼らと、電脳現実領域の遥かなる可能性』
それぞれのエンブレムが、スタート地点の台座前に掲げられる。
『第2試合、両者ともにスタート座標へと降り立ちました』
東雲柳のエンブレムは、深淵なる心象世界を象徴するかのように深い。その色彩は、東雲の海を思わせるグラデーションに彩られている。『柳』という名前に因んでのものか、枝葉の茂るフレームがフォントの周りに配されていた。それはどこか生物の翼の骨格を思わせるフォルムを形作っており、独特の印象を作り出していた。
対する相手選手のエンブレムは、固く重い石をモチーフにした硬質なものである。彼の胸に光る石は、揺らがない心と迸る力の象徴のように柳に対峙していた。
この試合を観戦するため、電脳空間上に存在する観客たちのアバターも、現実世界からモニターを通して見守る人々も、今か今かと試合開始の瞬間を待ち座席についている。その数は膨大であり、いかにこのネオトラバースが人気スポーツであるのかを物語っていた。
『東雲くーん!』
『シノーッ! 頑張れー!』
学生である柳には、学校からの声援も目立つ。柳は手を振り、友人たちの声に応じた。その笑顔に、一般観覧席から黄色い悲鳴が上がる。
今回対峙する2人の選手。1人は新進気鋭の東雲柳、もう1人は重い打撃を得意としている選手だ。
『東雲選手。今日はよろしく』
「ええ。よろしくお願いします」
一瞬視線を合わせて、逸らす。
柳は目があった瞬間、僅かに微笑んだ。しかし、相手選手が集中して試合に挑もうという厳しい雰囲気を醸し出すのを見ると、すぐにゴールゲートのある方向へ焦点を合わせた。
――銀色の瞳が、光を放つ。
その眼光は先程の微笑みとは似ても似つかないものへと変化している。刃物のように鋭利で、氷のように冷たかった。デビュー戦から数回の試合、全ての試合に勝ち続ける新人選手。柳は17歳という年齢を感じさせないほどの落ち着きを見せていた。
彼らに充てがわれた領域が、空間を塗り替えながら広く展開される。星空が広がった瞬間に、観客は次の試合に起こるエンターテインメントを想像して沸き立った。宇宙を模したステージ上、ゴールゲートは視認できないほどに遠く広いフロアは、2つの象徴を、動く度に飛び散る電子ダストで語らせる。今、如何にして勝利するのか、その存在価値とは何か。彼らは今、観客の熱狂とは一線を画す世界にいる。その人格、プライド、自己研鑽、試合への思いを、まさに問われている。
試合開始の瞬間は、特徴的な電子ブザーが鳴り響くことで告知される。
『さあ、第2試合。両者スタートラインに立ちました。集中しています。緊張の一瞬……』
競技場全体の空気が、ピンと張り詰める。音の波が止まり、全ての観客は息を呑んだ。
『運命のスタートです!』
――鋭い音がフィールド内外に満ちる。観客たちは、一気に興奮に包まれた。
柳は瞬く間に動き出し、領域上を軽やかに駆け巡る。翻る外套が軌跡を描くがあまりにも速く、右腕を向ける対戦相手は彼の位置を捉えるのに苦労していた。電子ダストが柳の道程を残し、舞い散り、光を反射する。観客たちは派手なエフェクトの衝撃に盛り上がり、ますます興奮してゆく。
相手選手が重い打撃を活かして勝利するには、まずその力で柳の進路上の仮想物理法則を書き換えなければならない。フロアや壁、障害物がその対象として認められているが、この試合は宇宙空間を模した、だだっ広い領域を使用している。
幅はかなり広く障害物が少ないため、実質的に打撃の対象は、エフェクトをはめ込んだように空中に作られた、この透明でフラットなフロアにほぼ限られている。一応は空間認識のため、等間隔にドットが組まれたものだ。空中にブロックが浮いているが、その位置や大きさは不規則。これを利用することは難しい。狙いを定める時、角度が悪ければ無駄撃ちになる。それに、選手へ当ててしまえば、衝撃の強さからしてアウトだ。
これが、相手への直接的攻撃が禁止のこの競技で、“妨害”を高度なトリックであると位置づける者が多い理由であった。
打撃をアバターに文字通り「当てる」方が、遥かに簡単なのである。しかし、これは格闘技ではない。
『……当たれェッ!』
対戦相手は、グローブ型の装備から強烈な一撃を狙った。
空間に浮かぶ無数の電子ダストを、「打撃」というトリガーで書き換える。硬い衝撃音と共に、一拍遅れて東雲柳の降り立つ地面が次々とクレーター化されてゆく。観客は強い打撃に伴う振動と音に熱狂し、彼を応援するラッパを吹き鳴らした。
この競技のルールは、単なる殴り合いに発展し、殴られた選手の試合続行不能により殴ったほうが勝利する、というエンディングを防ぐために設けられたものだ。走行とアバターの個性、領域の特徴、駆け引きが絡み合う。
『大きなクレーターが東雲選手の行く手を阻まんと、衝撃音と共に生成されていきます! 極薄の装甲を翻してかわしてゆく! かわしてゆくーッ! 新人らしからぬ落ち着きを見せるが……果たして!?』
実況が試合を盛り上げる。
「……ふ」
柳はそれを微笑んで楽しみながら、クレーターの生じる空間を足先で跳ね除け、新たに生成した最適ルートにステップを繋いでいった。過ぎ去った道は凹み、領域の端が崩壊している。この瞬間、2人のゲームはあらゆる数字の書き換えと駆け引きで、激しく争われている。
左右に振られていた進路が徐々に狭まり、柳は惑星をデフォルメした台座に差し込まれた、彼方のゴールゲートに焦点を合わせている。
「――あれか」
あれを潜ったほうがこの試合の勝者だ。ゲートはネオンサインのような輪が幾重にも回転し、色とりどりに輝いて選手を手招きする。
現実世界では不可能な方向へ向かって、柳は宙返りした。体を捻って着地するや、相手選手の打撃は明後日の方向へ穴を開ける。相手選手の妨害が今、失敗したということだ。
『くそっ、すばしっこい!』
この軽重力のステージタイプは、スピーディーな試合展開と妨害エフェクトの派手な展開が望め、人気が高い。現実世界と環境が大きく違うほど、割り当てられる選手もレベルが高くなる。デビューから間もない試合をこの領域で飾る柳は、すでにかなりのレベルに達しているということになる。加速機構が唸り、白いシルエットは鋭くコースを駆け上がる。
『打撃やめるか?!』
相手選手は走りつつ、サポートメンバーと通信している。彼は打撃に気を取られて、思ったよりコースを進めていなかったようだ。コース上では、現在柳よりやや後方に位置している。だが、彼の真価は他にあった。だからこその打撃の試みだったと言えよう。
柳以外なら、妨害に怯んで足を遅らせることができる。その点で、彼の打撃の連打は優れた戦法と言えるだろう。だが、柳は臆せず走れる選手だった。
――非暴力を、クリーンなルールを、娯楽へと昇華する。電脳空間は、剣闘士闘技場ではない。柳の頬を破壊エフェクトが掠め、散り、電子的な破片がチリチリと裾を焚いた。それはこの相手選手の特性を反映し、細かな砂状のダストではなく、細かな岩の破片を模していた。
「……痛そうですね!」
柳は僅かな合間を見つけては妨害を避け、反撃や加速の隙を伺う。確実に足を運び、ゴールゲートへ近づこうとしている。
『くそ! 速いな……』
相手選手のグローブは重い。そして巨大だ。――それゆえに、彼は所定の動作で身体を物理法則の波に乗せ、一息にゴールゲートへ近づくことができるのだ。
『――ふん!』
巨大な見えない振り子のように、相手選手は領域上を一気に登っていく。
『おおっ! 独特の加速方法! これで彼は数々の勝利を手に入れてきましたッ! 今回もその戦法が勝利へとつながるのでしょうか! 注目です!』
これこそ、彼が今まで勝利してきた個性的な戦法なのである。足元に入っている加速機構も併用しているが、この独特なショートカットによるスピードは、柳にとっても厄介な要素として認知されている。
「速い? ……それはあなたも!」
遥か彼方にあるゴールゲートを目指す彼らは、一刻も早くスピードに乗る必要がある。
ネオトラバースは、現実世界で言えば徒競走・障害物レースのようなシンプルなルール上に成り立つ。そこに各選手の戦略や戦術が乗り、娯楽として機能しているのだ。
だからこのスポーツは確定的要素が少なく、面白い。試合前のインタビューによれば、柳はそう考え、今までの人生を、この競技への情熱で突き進んできたという。この試合中、妨害やスピード調節、領域上のギミックを利用した戦術など取れる手段は自由であり、先にゴールゲートを潜れば勝ちだ。その道中でどれだけの試合展開を見せるか。観客を沸き立たせる選手たちのアバターは、試合用領域に咲く大輪の花である。
ショートカットにより柳の直ぐ側を飛び越え、ルール上1回の飛行に認められた距離のギリギリに到達した相手選手は、着地の途端に慣性のまま更に駆け出した。
そして振り返り、柳に向けてまたクレーターを複数連続して生成していく。
「あっ……ッ、はは……」
柳もまた相手の重たい打撃が繰り出されるたびに、それをかわすのに全精力を注ぐ必要がある。しかし、笑っている。心からこのゲームを楽しんでいるようだった。
直接的攻撃の禁止。それは、領域内の物理法則という要素を挟んだ干渉をのみ受ける、ということを意味している。それが直接攻撃よりも、かえってプレイヤー同士の動作の予測を難しくしていた。
『この試合展開で笑っていられるのか、あいつは!』
試合は攻撃と防御を繰り返し、息もつかせぬ緊迫感の中で進行していった。ゴールゲートへの距離は現状相手がリードしており、あの振り子のような加速法を使われては柳にとって勝利が難しいと、観戦者たちの誰もが思っていた。
「あ……いえ、すみません。おかしくて笑っているわけではないんです」
そのとき、外套が翻る。本体の姿が明らかになった。細身の甲冑のような、白く硬質でスマートな象徴。
『なんだお前、その……』
「……珍しいことではないでしょう。あなたも事前告知された資料に、このアバターのビジュアルは入っていたはず」
柳は一瞬の隙も見逃さず、相手の攻撃を躱しながら、距離を詰めた。
基本的なクリアシールドを多重展開し、走り抜け追い越しながら、不意を突く技を何度も放つ。鋭い風と共にシールドが出現し、相手は進路を阻まれそうになる。
『お前、打てたのかよ!』
対戦相手も負けじと自身の強力な打撃で圧倒しようと試みるが、柳の素早い動きに翻弄され、なかなか手が届かない。試合が進むにつれて、柳の戦略が徐々に効果を発揮し始める。
繰り返しのショートカットと、狙いを定めての空振りの繰り返し。今まで有利な試合展開に見えていたが、追い詰められていたのは相手選手の方であった。
精彩を欠いた物理干渉が狙いを逸し、領域外の宇宙空間へとグローブごと『落下』しそうになる。
『おわっ!?』
観戦者席からの悲鳴とともに、実況は叫んだ。
『あーっ! 落下……する、か?! いや、既のところで……逃れたーっ!』
彼はグローブを勢いよく振り上げ、そのまま元の地点まで跳ね上がった。しかしその動作が、思いもよらない事態を引き起こす。
発動させたギミックが、柳の象徴への直接的攻撃にもなりかねない角度へと暴発していた。
いや、間違いなく柳へと、電子ダストのインパクトが到達するだろう。まるで隕石が彼を目指して宇宙を横切るように、グローブから伝った軌跡が赤く光って直線を作っていた。観客席がどよめく。この打撃の強さでは、当たってしまえば反則負け確定だ。
『東雲! 避けろ!』
柳の動きは、この仮想の世界でさえ物理法則をあざ笑うかのように軽やかだ。
『危ない! 東雲選手の方へとグローブの衝撃が――――』
そこに、柳はいなかった。指先が空を切るその時、彼はグローブの衝撃波の行き先と、全く違う座標に立っている。
「足元……」
『……え?』
インカムを通して遠くから、低くつぶやくような声が聞こえた。
一瞬の出来事だ。
コン、と領域上の浮遊ブロックが位置を変更され、相手選手の身体は安全な地点まで後押しされる。これは間違いなく柳の采配だった。
絶え間なく動き続ける、この領域上の物理法則を計算し、不確定要素に次々と確定数値を流し入れたのだ。今、相手選手の身体を押したものは、その結果だった。放っておけばいいものを。領域外に落ちてしまえば、コースアウトでギブアップと同じ処理になる。
次の瞬間、高く飛び上がって空中に浮いた柳の体は、加速機構によってトップスピードに達し、ゴールゲートを弾丸の如く貫いた。
『勝負あった! 春のネオトラバースバトル、今回の勝者は白き死神、シノノメ・ヤナギ!』
領域上には歓声が響き渡り、東雲の柳が告げられる。
「ありがとう、いい経験になった」
試合後、相手選手は息を整えながら握手を求めた。
「……はあ……すみません……足元、お気をつけくださいと言おうとしたのですが。どうも試合中は、言葉が続かなくていけない」
柳は握手を求められ、応じる。負けたことの悔しさや東雲への称賛より先に、相手選手の視線は、東雲のアバターの胸部へと釘付けになっているようだった。
「……いや、強かった。また当たったら頼むよ」
「こちらこそ、楽しかったです。ありがとうございました」
相手選手の胸部は、その心の象徴である最も重く硬いと言われている石――橄欖岩が深く差し込まれている。対して柳の白いアバターの胸部は固く閉ざされ、まるで心の内を見せることを拒むかのように厚い装甲に覆われていた。
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