第三章 非凡の中の平凡
すみません、ゆっくりとかいって、新作に集中したいのでぱっぱと上げています。
解説は例によって後書きにて。
2022/03/05 副島王姫
3、非凡の中の平凡
――身体が、熱い。
熱にうなされることには慣れていた。幼い頃から幾度も繰り返してきたのだから。
目を開ければ、いつでも誰かの姿があった。母であったり、父であったり、兄であったり……。何時目を覚ましても、誰かしらが側にいて、励ましてくれたのだ。生まれつき病弱な彼女に、大丈夫だ、すぐ治る、と。
――頬を、額を撫でる、心地よい感触。
今も、誰かが側にいるらしい。母か、父か、兄か……。
その誰かに会おうと、彼女はゆっくりと目を開けた。
「気がついたか、リーゼ」
彼女が目を開けたときは、ちょうど男が、冷水に浸した布で彼女の顔を拭いているところだった。
病院のベッドの上らしい。古ぼけた天井が見えることから、よほど古い病院か医院のようだが。とにかく、そのベッドの上に、彼女は寝かされていた。長い金髪はほどかれており、寝衣姿である。そして、すぐ横の椅子に、男が座っていた。
男――三十代後半で、黒い髪を全て後ろに撫でつけている。身長は高く、黒いシャツに黒いズボンと、一見黒ずくめの服装だ。彼が座る椅子には、彼のものらしき黒いジャケットが掛けられている。
――父でもなく、母でもなく、兄でもなかった。しかし、彼女の名を知る人物。
――誰?
ともすれば虚ろになりがちな青い瞳で、彼を見ながら、心の中で繰り返す。
知っている。自分は知っている筈だ。彼のことを。
「ここは俺の知り合いの病院でな。評判は悪いが腕はいい。お前を何度か診せただろう?あいつの病院だ。
幸い、命に別状はないそうだから、ゆっくりと休んでいろ」
布を水に浸しながら、彼は言ってくる。
確かに、知っている筈だ。この面影は、どこか頭の奥に焼き付いている。
「リーゼ?」
彼女の様子を不審に思ったか、男が、彼女の頬に手を当てながら、もう一度呼びかけてくる。
――誰なの?
もう一度、同じ問いを繰り返す。
自分を見つめる目。この目は、前に――ごく最近に見た。彼女の金色の瞳を見つめ、美しいと――
瞬間、彼女の瞳が金色に変わる。
「……ドルティオーク……」
憎悪のこもった声で、目の前の男の名を口にする。
思い出した。全て。
この男は、彼女から父も母も兄も奪った殺人鬼だ。父も、母も、兄も、もういない。四年半前、この男に殺されたのだ。彼女の目の前で。それどころか、この男は彼女の故郷を滅ぼしたのだ。
『禁忌』――それが、彼を示す言葉。
この男は、仇だ。彼女の家族と、故郷の。
自分の名は、ティーンだ。もう、リーゼと呼んでくれる家族も、故郷の人々もいない。
「私に……触れるな……!」
頬に当てられたドルティオークの手を振り払おうとするが、身体が思うように動かない。
「……!」
ただ、全身に激痛が走っただけである。
「無理はするな。まだ動けん。もう二、三日辛抱するんだ」
相変わらず彼女の頬に触れたままのドルティオークに、ティーンは敵意のこもった眼差しを向け、
「何故……私は生きている……?
解毒剤を……準備する時間は……なかった筈だ……」
「喋るのもきついだろう。黙っていろ。
俺も、一時は絶望したよ。どう考えても、解毒剤を入手する前にお前が逝くのが確実だったからな。
だが、わざわざ持って来てくれた奴らがいてな。その二人……まあ、ああいうのを一人二人と数えるのも適切ではないかもしれないが……彼女らから受け取った。
向こうも、お前に死なれては困るそうだ」
「何者だ……?」
「黙って聞いていろ。確か……セミ-プレシャス プロトタイプ〇一三と〇三八。俺達が言うような名前はないそうだ。コードネームは持っていたが。
俺から見ても奇妙な存在だったよ。気配がまるで存在しない。姿と声がなければ、そこにいることにすら気づかなかっただろう。
力の程は定かではないが……水が邪魔だという理由で雨雲を消し去ったのは事実だ。並大抵の力の持ち主でないことは確かだ。
それに……俺のことを何と呼んだと思う? 『人たることを捨てた者』だ。実を言えば、俺はそう呼ばれる心当たりがある。お前が何をやっても俺に通じなかったのはそのせいだ。俺のことを予め調べておいたのか、一目で見抜いたのか、それは分からんが……俺の本質をも知っていた。どう考えても、徒者ではないな。
とにかく、彼女らが調合済みの解毒剤を持って来た。彼女らが言うには、お前の死は何をしてでも避けるべきこと、だそうだ。
それから、彼女らは俺から言えば中立の立場にあるそうだ。今のところ、敵でも味方でもない。但し……」
言いながら、ドルティオークは、もう一度彼女の顔を濡れた布で拭く。
「俺がお前を危険に晒せば、即座に俺を処分すると言っていたがな。だが――」
ドルティオークは椅子から立つと、彼女の顔を覗き込むようにして、言う。
「お前が大切なのは、俺とて同じことだ。
リーゼ。お前は俺が死なせない」
言葉を終えると同時に、彼は、身動きできぬ彼女の唇に、自分の唇を押し当てた。
次に目が覚めたのは、真夜中だった。どうやら月明かりらしい光が窓から差し込んで来ている。
「貴様……まだいたのか」
その月明かりに浮かび上がった人影に、昼間と同じく憎悪のこもった声をかけた。人影――相変わらず、ベッドの傍らの椅子に座り、こちらを見つめるドルティオークに。
「お前が回復するまでは離れないつもりだ」
言いながら、彼は彼女の前髪をそっと撫でる。
「触るな!」
叫び、その手を払いのける。ぎこちない動作ではあったが、今度は身体が動いたようだ。
「昼間よりはいいようだな」
彼に向けられた憎悪にも、払いのけられた手にも気分を害した様子はなく、満足そうにドルティオークは言う。
「明後日には、ここを出られるかもしれん」
「私をどうするつもりだ?」
警戒心を露にした彼女の問いに、彼は穏やかな調子で、
「別にどうこうするつもりはない。ただ、俺が使っている拠点の一つに来てもらうだけだ。
リーゼ、お前の部屋も用意してある」 「私はティーンだ! 私をリーゼと呼ぶ人々はもういない! お前が皆、殺したんだ!」
激昂し、叫ぶティーン。だが、ドルティオークはそれを意に留めた様子もなく、
「俺は、お前をそう呼ぶ気にはなれないな。
……そういえば、そろそろ教えてくれないか? リーゼというのは、愛称なのか? それとも本名か? ファミリーネームは?」
「答える筋合いはない。
それに、お前なら、それくらいのことは調べれば分かるだろう」
「お前の口から聞きたいんだ」
「私の家族にでも訊いて来い」
皮肉げにそう言うと、ティーンは彼とは逆の方向に顔を向けた。ドルティオークの嘆息が聞こえ、その後は沈黙が落ちた。
かなりの時間、その状態が続いたが――不意に、ティーンが顔をドルティオークに向けた。
「……どうした?」
ドルティオークが、ティーンの頬を撫でながら訊くが、ティーンは今度はそれに抗う様子は見せずに、
「……カイナたちはどうなった?」
それだけ訊く。
ドルティオークは、その手を彼女の頬から耳、髪へと移しながら、
「どうして欲しい?」
逆に尋ねる。
「…………?」
意味が分からずにいるティーンの長い髪をいじりながら、ドルティオークは続ける。
「お前が眠っていたのは一週間だ。まだ、カイナ・プレテオルを抹殺する期日ではない。
俺はこれ以上お前に嫌われたくないからな。カイナ・プレテオルについては、お前の意志を尊重しよう。
……但し……」
ティーンの髪をいじるのを止め、再びその頬に手を当てる。彼女の顔を覗き込みながら、穏やかながらも硬い口調で、
「もう二度と、命を捨てるような真似はしないと誓うなら、だ」
「……分かった」
彼の手を払いのけながら、ティーンは答えた。
問題の二人がいなくなったことで、ようやく受けた被害の修復を始めたようである。クレーターだらけになっていた地面は、取り敢えず整地され、苗木や芝生が植えられ始めていた。被害が完全に回復するのに、一体何年かかるのかは、彼女らの知ったことではないが……少々調子に乗り過ぎたと思わないでもない。やろうと思えば、周囲に損害が及ばないようにすることもできたのだが……そういう配慮を全くしなかったのは、やはり問題だろうか。
セルドキア王国・呪法院である。
建物の外――彼女らがよく模擬戦と称して破壊活動を行った場所だ。その修復途中の草原と森(だった場所)に、彼女らはいた。深い赤の髪に同色の瞳。同じ色のローブにマント。これもまた深い赤の石が多用された、装身具の数々。傍らには、オレンジを帯びた赤色の、牛ほどの大きさの鳥がいる。
時刻は早朝。学生も教官もこの辺りにはいないようだ。ただ一つ、こちらに向かって来る気配を除けば。
彼女が呼び出したのである。彼は、やや急いで来た様子で、呪法院の寮の部分の扉から出て来た。
短く刈り込んだ黒い髪。やや痩せ気味の体躯。少々ヨレたシャツに、黒いズボン。――この呪法院の学生、ウォルトである。
「久しぶりじゃねーか。ガーネット」
彼は、こちらに歩み寄りながら、声をかけてきた。
「お前とセイズがいなくなってから、こっちは大変だぜ。教官の目が厳しくなっちまって……」
「そういう世間話をするために呼び出したんじゃないの」
ウォルトの声を遮り、ガーネットは言った。いつになく真剣な声である。初めて聞く声だ。少なくとも、彼が聞いたことのある声は、殆どがふざけ半分にはしゃぐ彼女の声だった。
「イリアから指示が来なかった? もう『ウォルト』の人格を被る必要はないって」
「…………?」
突然の覚えのない名と、意味の分からない言葉に、ただ呆然とするウォルト。
「指示が届かなかったの?」
飽くまで冷静な口調で、重ねて訊いてくるガーネットに、ウォルトは、やや動揺しながら、
「ち、ちょっと待てよ。何の話だよ? イリアって誰だ? 指示って何の?」
「……分からないの? まさか」
声を発したのは、ガーネットの傍らの鳥だった。
「し、喋った……? スペサルタイト……が?」
顔色を変えるウォルトの目の前で、ガーネットの愛鳥・スペサルタイトが姿を変える。
数秒の後には、そこには、一人の女が立っていた。何もかもが、ガーネットと瓜二つの姿。ただ、全体的な色がガーネットよりもオレンジに近い点のみが異なる。
「……な、……な、な……」
半歩下がり、スペサルタイトを震えた指で指さすウォルト。
「私のことも、覚えていないの?」
スペサルタイトが声をかけると、彼は暫く息を荒げていたが、やがて、
「な、何なんだ!? 何が一体どうなってんだ!?」
ガーネットとスペサルタイト、そのどちらに尋ねたのかは分からないが、とにかく声を裏返しにして叫ぶ。
「…………ウォルト」
嘆息し、ガーネットが口を開く。 「忘れたの? あなたはリーゼの監視の為に、ウォルトに成り済ましたのよ」
「リーゼ?」
その名は、ウォルトにも聞き覚えがあった。
「それって確か……セイズが探してた……」
「セイズは『禁忌』の部下。彼――ドルティオークの命令で、彼女を追ってたのよ」
「『禁忌』!?」
スペサルタイトの言葉に、ウォルトは大声を上げる。
「ティーンが探してた仇じゃねぇか……」
その言葉に、ガーネットがまた嘆息する。
「あー、頭痛い。
つまり、あなたの記憶じゃあ、リーゼとティーンは別ってことね」
「どういうことだよ!? ティーンがどうしたんだ?」
「はっきり言うしかないわよ。ガーネット」
完全に狼狽しているウォルトを見ながら、スペサルタイトが言う。
「……そうね」
ガーネットは、三度嘆息すると、
「よく聞きなさい!」
混乱するウォルトを一喝するように言い放った。
「あなたは、セミ-プレシャス 二四一 コードネーム《ブラック・オニキス》。
あたしたち同様、イリアに生み出された、セミ-プレシャスの一員よ。
これでもまだ思い出さない?」
「セミ-プレシャス……?」
おうむ返しに呟き、暫く考え込むウォルト。だが、次には首を大きく左右に振り、
「何なんだよ!? イリアだのセミ-プレシャスだの……何が言いたいんだよ!?
第一何だ!? そのブラック・オニキスってのは! オレはウォルトだ! コードネームなんか持ってねぇ!」
一気にまくし立てる。
その様子を、ガーネットとスペサルタイトは同じ表情で、黙って見ていた。
ウォルトが、二人の反応を待って沈黙していると――
「『ウォルト』に成り済ましているうちに、ブラック・オニキスとしての意識が埋没したのかしら」
「或いは、何らかのきっかけで、ブラック・オニキスが『ウォルト』に取って変わられた。……でも……」
「あたしたちプロトタイプならまだしも……彼は完成形のセミ-プレシャスよ。普通なら有り得ないわ。
稼働率が低かったのを無理に動かしたせいかしら」
「それとも……作り出した時点で何らかの欠陥があったのに、イリアがそれに気が付かなかったか……」
ガーネットとスペサルタイトは、ウォルトにとっては意味不明の会話をし始めた。
「お前ら、何を話してんだよ?」
「いずれにせよ、イリアに報告しておく必要はあるわね」
「確か、パイロープかツァボライトが稼働しかかってたわよね。同調できるかな……」
横からかかったウォルトの声を気に留めた様子もなく、二人はそのまま会話を続ける。
「できなかったら、私がイリアの所へ戻るわ。その間、一人でも大丈夫よね。ガーネット」
「リーゼの命に危険はなさそうだし……多分大丈夫よ。
……で、こっちの話はこれくらいにして……」
スペサルタイトと向かい合っていたガーネットは、不意にウォルトに視線を向けた。
「ブラック・オニキス。今はあなたは『ウォルト』でいいわ。こっちでも原因究明を行うつもりだけど……もし自然に、ブラック・オニキスの自我が戻ったら、連絡を頂戴。……方法は、分かるわね。
今日のことは、取り敢えず忘れてていいわ。混乱するだけだから。
あなたが正常化することを祈ってるわ」
ガーネットの台詞が終わると同時に、二人の姿が炎と化し、消える。
一人残されたウォルトは、暫し呆然とした後、自分の頬をつねった。
――どうやら、夢ではなかったらしい。
「着いたぞ。リーゼ」
「ティーンだ!」
飛行船が着陸するなりドルティオークが言った言葉に、ティーンが鋭い声で訂正を入れる。個人用の小型飛行船で、内部は操縦システムがその面積の四分の一ほどを占め、残りの空間に座席やテーブルが備えられているといった造りになっている。魔力制御に拠るところが大きなもので、こういったものを入手するには、金だけでは足りないのだが。
到着した場所は、岩ばかりが鋭く突き立った山脈の一部である。その一部を削り取り、飛行船を置けるスペースを作っているようだ。到着した場所には、他にも大小三つの飛行船が置かれていた。
「ここは一応屋上でな。居住空間はこの下だ」
言いながら、ティーンの真横に座っていたドルティオークは立ち上がり、彼女を抱きかかえようと手を伸ばす。
「触るな! 一人で歩ける!」
「……無理だと思うがな」
ドルティオークは、言い、座席から立とうとしているティーンの姿を観察する。
淡い緑のドレス姿で、長い髪には丁寧に櫛が入れられている。ドルティオークは、髪飾りもつけたのだが……それは彼女が外してしまった。
とにかく彼女は、座席の背もたれを支えに、どうにか立ち上がっていた。そのまま一歩前へ進もうとし――そこで態勢を崩す。
「だから無理だと言っただろう」
倒れそうになったティーンの身体を支え、ドルティオークは言った。
「本来なら、あと三日は病院のベッドの上だ。まだ身体の自由は利かん。おとなしくしていろ」
言いながら、彼女の身体を抱きかかえ、飛行船から降りる。彼女の敵意のこもった視線が刺さるが、そんなことは気にも留めない。屋上の隅の扉を開くと、階段を下りる。
「早速にでも中を案内してやりたいんだが……それはお前が歩けるようになってからにしよう」
ドルティオークが言う間に、階下へと着いた。どうやら、屋上とこの階しかないらしい。
居住区は、呪法で岩山の内部を削り出して作られたものらしい。壁、床、天井共に、滑らかに削り取られた岩肌が見える。廊下を照らす明かりは、おそらく呪法で生み出された光だろう。ふわふわと、天井近くを漂っている。廊下の両側には灰色の扉が並び、その先は行き止まりになっている。
と、階段に割と近い扉が開き、中から一人の男が現れる。
中肉中背、派手なローブ、左耳の大きなピアス。『禁忌』の部下の一人、セイズである。
「いらっしゃいませ。お姫様」
ドルティオークの腕の中のティーンに向かって、話しかけてくる。彼女の服装を見て、
「ああ、そういう格好の方が似合ってるよ。厚ぼったいローブ姿よりはさ。
可愛いよ。年頃なんだし、お洒落の一つもしておかないとね」
「……黙れ!」
苛立ったティーンの声を物ともせず、セイズは続ける。
「早くここに慣れるといいよ。何しろ、ここが今日から君の家になるんだしね。
ここに住むのは、君と隊長だけ。僕は時々用があってここに来るけど……他の人は一切来ないよ。ごゆっくり、ね。
あ、隊長。本は指示通りに整理しておきました」
「ご苦労だった。用があったらまた呼ぶ」
「では、失礼します」
「……待て」
言って、先程二人が降りてきた階段に向かうセイズに、ティーンが声をかけた。
「何か用? お姫様」
「ティーンだ。
それより、お前は、この男にとって個人的かつ重要な任務を任されているようだが……何故だ? 力がそれほどあるわけでも、頭が異常に切れるわけでもあるまい」
「はっきり言うねぇ」
ティーンの言葉に、セイズは肩をすくめた後、
「よく言うだろ。長い物には巻かれろって。
僕は余計なことはしない。指示を受けたら突っ込んだことは聞かないし言わない。指示された通りの事しかしないんだ。それ以上のことも、それ以下の事もね。
便利なんだよ。要するに」
それだけ言うと、セイズは階段を昇って去った。
――情けなかった。
一族の仇を打つべく力をつけたつもりが、その仇には全く通じず――挙げ句、自殺を図ったことが裏目に出て、憎むべき仇に世話をされる羽目になるとは。
彼女は、ベッドの上で、横になっていた。天蓋つきのもので、四方のカーテンは閉じられている。奴が彼女をここへ寝かせ――そのままの状態なのである。
ゆっくりと、身を起こす。
それだけでも、全身が軋むような痛みが走った。
――ひどく、不甲斐ない。
奴に挑んだものの、戦いにすらならず――気が付けば、一週間以上も奴の介護を受けていた。今も、一人では立ち上がることも難しい。
結局、奴から言えば、彼女が奴の元に戻っただけなのだ。思い通りにさせまいと、心に誓っていたにも拘わらず。
だが、疑問は残る。常軌を逸した、奴の強さもそうだが……それ以上に奴の行動である。最初にセイズと会話を交わした時――奴が自分を探していることを知った。まさかと思いつつも奴に会ってみれば――奴はしっかりと彼女のことを記憶しており、あまつさえ抱擁で彼女を出迎えた。
妙だった。
今、彼女が知っているだけの力が奴にあるのなら――いや、あるのは紛れも無い事実だ。そうでなければ、ああまで情けない惨敗にはならなかっただろう――どうして四年前、奴は彼女を見逃したのか。
四年前は、上手く奴の隙をついたと思っていた。半年間連れ回された末に、やっと見つけた隙だと。しかし、仇を取ろうと力をつける中で、気づいた。あれは隙などではなかったと。彼女の脱走を、敢えて奴が見逃したに過ぎなかったと。生体探査の呪法を使うだけで、彼女の脱走は防げたのだ。それを、何故か奴は見逃した。疑問に気づいた時は、結局奴にとってはどうでもいいことだったのだろうと結論づけた。彼女を半年間連れ回したのも、ただの気まぐれに過ぎず、逃げるものをわざわざ追うまでもなかったのだろうと。
奴はただ遊んでいただけで、彼女の名も顔も、いなくなれば忘れるだけなのだろうと。
だが、セイズに出会い、その結論に矛盾が生じた。
――何故、覚えている。
――何故、探す。
そして、四年ぶりに顔をあわせた時。
――何故、抱き締めた。
覚え、探し、抱き締めるぐらいなら、四年前に彼女の逃亡を防いだ方が話は早かった筈である。にも拘らず、何故奴は敢えて彼女を逃がしたのか。 考えても、答えが出る筈はなかった。
と、不意に、ノックの音が部屋に響く。
「リーゼ。入るぞ」
扉が開く音。続いて足音。ベッドを囲むカーテンの前で止まった。返事を返す気にもなれず、沈黙していると、
「……眠っているのか?」
声から二、三秒の間を開いて、カーテンが開いた。部屋の明かりが差し込んでくる。
「まだ動かない方がいい。横になっていろ」
上半身を起こした彼女の姿を見て、穏やかな口調でそう言い、彼女をベッドの上へ押し戻す。
ドルティオークは、そのまま近くにあった椅子に座り、ティーンの顔を見つめる。姿を見せた時点から突き刺さってきている、敵意のこもった視線にも、全く気分を害した様子は見せない。
「…………
……何をしに来た?」
刺々しい口調のティーンの問いに、先程と同じく、気分を悪くした様子は見せず、
「顔が見たくなってな。ついでに話でも、と思ったんだが……」
「話か……。なら丁度いい。訊きたいことがある。
四年前、私がお前の元から逃げ出した時、何故捕らえようとしなかった?」
「…………リーゼ……」
ドルティオークは椅子から立つと、彼女の前髪にそっと触れる。
「触るな!」
叫び、その手を振り払おうとするが、できない。彼女の前髪を優しく撫でているだけなのだが、その手はいくら押しても動きそうになかった。
「……分かってくれ……。これでも……愛しているつもりなんだ」
「……愛している……だと?」
声にこもる憎悪を深くし、呟き返す。前髪から頬へ移った手を退けようとする手に精一杯の力を込めるが、それでもその手は動かない。
「ああ。……愛している」
開いている手で、自分の手を退けようとしている彼女の手を解くと、覆いかぶさるようにして彼女の青い瞳を見つめ、言う。
「お前が欲しかった。お前の全てを手に入れたかった。
家族も、故郷も、お前から全てを奪って……俺はお前を手に入れたつもりになっていた。
…………しかし……お前は逃げ出した。俺の元から。
お前が去っていくと知ったとき、勿論俺は連れ戻そうとした。……だが……できなかった。お前の泣き叫ぶ声ばかりが耳について、離れなかったんだ。
思えば俺は、お前がいくら泣こうが喚こうが、俺の欲望のままにお前の全てを奪い続けていた。お前が逃げ出すまで、それがお前を苦しめているだけだということに気が付かなかった。
あの時、お前を追っていたとしても……合わせる顔など俺にはなかった」
彼女の頬に当てた手を、そっと離し、自身も彼女から二、三歩の距離まで遠ざかると、ドルティオークは言葉を切った。
「……懺悔のつもりか」
「そんなもので許されるとは思っていない」
小さな沈黙を打ち破った、ティーンの鋭い声に、ドルティオークは首を横に振る。
「ただ、聞いて欲しかっただけだ。それに、お前の問いに答える術は、俺にはこれしかなかった。
……分かってくれ。リーゼ。愛しているんだ」
「お前の歪んだ愛情などいらない。
それに、あの半年間のことを愛だなどと言うなら……私は絶対にそれを許さない」
「……許されるとは思っていない。
ただ、今は俺の側にいてくれ。四年前のようなことは、絶対にしないと誓う」
「馬鹿を言うな。誰がお前の側になど……!
私はここから脱出してみせる。こんな場所に骨を埋めるつもりなどない!」
ティーンの言葉に、ドルティオークは、一呼吸の間を置いて、
「……脱出は不可能だ。俺が引き留める」
どこか申し訳なさそうに、呟くような声で言った。
ティーンは一人、ベッドの天蓋を見つめていた。
申し訳なさそうな一言を最後に、ドルティオークは去って行った。奴は脱出は不可能だと言ったが、勿論彼女はそれで諦めるつもりなどなかった。
どうすれば、奴の隙をついてここから出られるか。思考は自然とそちらに向かう。勿論、身体もろくに動かない現在では、何も出来ないと分かっていたが、回復した時にどう動くか、それを考えずにはいられない。
まだ、この拠点の詳しい情報などは手に入っていないが、それ以前に考えておかなければならないことがある。
ドルティオークの監視の目を、どうやり過ごすかである。脱出しようとすれば、即座に気づかれるだろう。生体探査の呪法を使うだけで可能なことだ。生体探査にかからないように自分の気配を消すことも、可能なことは可能だが……それは自分の呪法の技量が、相手と同等かそれ以上の時にのみ言えることである。自分の技量がドルティオークより上だなどとは、どうしてもティーンには思えなかった。
そんな考えを巡らせているうちに、まさに唐突のことだったが、
「リーゼ。俺が憎いか?」
カーテンの向こうから、声がした。
声と同時に、ドルティオークの気配が現れる。一瞬前まで、何の前兆も無かったというのに。
「俺が、憎いか?」
声は、繰り返し尋ねてくる。
「……憎くないとでも思うのか」
半身を起こし、ティーンは呟く。彼女の瞳は、既に金色に輝いていた。
「……俺がお前にしたことは、そう簡単に埋め合わせられるものではない。それは、俺も分かっているつもりだ。だから……リーゼ。
お前に、俺の命をやろう」
「……?」
「よく見ろ」
声と同時に、カーテンが開く。その向こうには、二振の剣を手にしたドルティオークが立っていた。
一振は、ティーンが所有していた剣。もう一振は、刀身がブラック・オニキスでできた短剣。
ドルティオークは、短剣を傍らのテーブルに置くと、ティーンが所持していた剣を抜く。名刀と言うほどでもないが、質の良い剣ではある。
それを右手に持つと、自分の左腕に振り下ろした。
「……!」
剣が、ドルティオークの左腕を切り裂くことはなかった。
粉々になったのだ。彼に触れた部分が。
「これで分かっただろう」
剣の破片が落ちる音の中、彼は言った。
「俺には、普通の武器は通じない。この通り、武器の方が崩壊するんだ。
だが――」
彼は、砕けた剣の柄をテーブルに置くと、短剣の方を手に取った。先程と同じように右手に持つと、今度は左手を、浅く切りつける。
短剣の切っ先が動いた跡には、赤い線が刻まれていた。
「このブラック・オニキスの短剣なら、俺を傷つけることができる。無論、こんな浅い傷だけでなく、致命傷も負わせられる。俺を殺すことのできる、唯一の武器だ。
リーゼ。この短剣をお前にやろう。俺を殺したいなら、これを使え」
言い、短剣を鞘に収めると、ベッドの隅にそれを置く。続いて、
「ついでだが、これは返しておく」
三つの終了証を、短剣と並べて置いた。
「お前のローブから出て来たものだが……大切なものだろう。持っておけ」
それだけ言うと、ドルティオークはカーテンを閉めた。続いて、彼の気配が消える。
残されたティーンは、暫くしてから短剣を手に取り、ブラック・オニキスの刀身を見つめていた。
呼び出し音。彼女は、意識を繋いだ。
『ガーネットか? 俺だ』
「ブラック・オニキス……自覚が戻ったの?」
そんなは無いことは分かっていた。それなら、こんな方法で連絡を取ろうとする筈は無い。今、彼は、彼女の自宅として登録されているところに電話をかけただけで、彼女がわざわざそちらに意識を繋いだのである。
『また訳の分からねぇことを……オレはウォルトだ。何なんだよ、ブラック・オニキスって』
「自覚が戻ってないなら何の用?」
彼女は、憂鬱に嘆息し、尋ねた。
『ここのところ、ティーンの奴と連絡が取れねぇんだけどよ……』
「そりゃ、取れないでしょ
『禁忌』に捕まったもん」
事もなげに、あっさりと言い放つ。
『……なっ! ……それで、ティーンは生きてるのか!?』
「心配しなくても、丁重に扱われてるわよ。
じゃあね」
言い、一方的に電話を切り、意識も絶つ。
彼女の目の前には、ドルティオークの拠点で過ごすティーンの姿が映し出されていた。
「あの剣……もしかして……」
ティーンが手にした短剣を見つめながら、ガーネットはぽつりと呟き、かぶりを振る。
「……まさかね。プロトタイプ(あたしたち)じゃあるまいし……」
目を覚ますと、カーテン越しに薄い光が入ってきていた。
ティーンは、起き上がり、カーテンを開ける。カイアスズリアの影響も、ようやく消えてきたらしい。まだ少々痛みは走るが、動くのに支障はなかった。ベッドから下りると、室内用のスリッパに足を入れ、床に敷き詰められた絨毯の上を歩き、クロゼットの前へ行く。中には、ドレスばかりが入っていた。どうやら、ドルティオークは、彼女にこれ以外のものを着せるつもりはないらしい。肩の出るものが一着もないところを見ると、あの一件については反省しているのかもしれないが。
ドレスには、それぞれ揃いの装身具や靴も用意されていた。無論、彼女はこんなもので着飾るつもりは毛頭なかったが……まさか寝衣でうろつく訳にもいくまい。仕方なく、ドレスの中から最も地味な物を選び、ドレスと靴のみを身につける。装身具は無視である。それから、鏡台の前へ行き、髪をとく。髪飾りも用意されていたが、無論これも無視である。
着替えを終え、一息ついて部屋を見渡す。この部屋だけは、この拠点の中で全く違う様相を呈しているようだった。どこの令嬢の部屋かと思うほどである。壁は剥き出しの岩壁ではなく、その上に壁下地が塗られ、白く塗装されていた。床には絨毯が敷き詰められ、天井のシャンデリアには幾つもの呪法の光が固定されていた。広さも尋常でない。そもそも、天蓋付きのベッドが全く違和感なく見える広さなのだから。家具は、クロゼット、箪笥、鏡台、ソファ、ベッド、テーブル、椅子、飾り棚などが一式揃っており、書棚は二つあった。一つは本がびっしりと並んでおり、もう一つは空である。書庫から好きな本を選んで持ち込めとのことだった。彼女の本好きを、しっかりと覚えていたらしい。
部屋には、一つの壁に集中して存在する二つの扉と、一つの大きめの扉とがあった。二つの扉は、浴室と化粧室、一つの扉は、言うまでもなくこの部屋の唯一の出入り口である。
ティーンは、椅子に座ると、テーブルの上に置いてあったブラック・オニキスの短剣を手に取った。不思議な印象を受ける剣である。前から知っているような気がしてならない。――それに。この剣は、思い起こさせるのだ。一族の村で過ごした十三年間や、仇討ちを目標に動いていた日々を。たった一人の親友のことが気にかかる。ウォルトはまだ、あの呪法院で苦労しているのだろうか。
と、ノックの音が響く。続いて――
「リーゼ。起きたか?」
声と共に、扉が開く。無論、ドルティオークだった。トレイを手にしている。
「朝食の時間だ」
無視していると、ドルティオークはこちらの方へ歩み寄り、テーブルの上に朝食を置き、自分はそのままソファに腰を下ろした。
「……俺を殺すのか?」
抜き放った短剣を見つめて動かないティーンにそう問いかけると、彼女は鋭い眼差しを彼に向け、 「この剣でお前を殺せば、お前を許したことになりかねない」
それだけ言い、短剣を鞘に収める。
「命を差し出しても許す気はない、か……。
……それでもいい。とにかく俺の側にいてくれ」
「断る」
間髪入れずにそう言うと、目の前に置かれた食事に手をつける。奴が用意した物を食べるのも癪だったが、体力をつけないことには行動出来ない。
彼女が食事を終えると、トレイを下げるためか、ドルティオークはテーブルの側までやって来た。そこへ――
「……一つ、訊きたいことがある」
珍しく、ティーンの方から声をかける。
「何だ? リーゼ」
言いながら髪に触れてくるドルティオークの手を払いのけながら、彼女は言葉を続ける。
「巫女頭のことだ」
「……巫女頭?」
「四年半前、お前たちが私たちの村に攻め込んだ時――どうやって巫女頭を倒した? あの方は、お前と比べても遜色ないほどの力を持たれていたと思うが……」
「心当たりがないな。村にいたのは、殆ど無力に近い村人だけだった」
「おられた筈だ。祭祀殿に、巫女たちと共に……。
巫女一人にしても、今の私と互角以上の力があったはずだ」
ティーンの言葉に、ドルティオークは暫し黙考し、
「……祭祀殿というのは、祭壇ばかりが並んだ建物のことか?」
「……そうだ」
「なら、なおのこと心当たりがないな。そこには誰もいなかった。逃げ込んだらしい男が一人、居ただけだ。……殺したが。
それに、繰り返すようだが、今のお前以上の使い手など、村には一人もいなかった。いたのは、何の力も持たない村人だけだ」
「…………
……馬鹿な……」
ドルティオークの答えに、ティーンは呆然と呟くしかなかった。
ティーンは自室の扉を開き、外に出た。翌日のこと、今日は白いドレス姿である。廊下は相変わらずの岩壁だった。
昨日の巫女頭の話のことは気にはなるが、考えてどうなるものでもない。それより今は、ここから脱出する手段を考えなくてはならない。
まず、彼女の部屋の真向かいの部屋。これはドルティオークの部屋である。非常用の脱出ルートはあるのかもしれないが、入るのは愚の骨頂としか思えなかった。現に今も、彼の気配はそこにある。
気配と言えば気になることが一つあるが……彼女はそれを後回しにすることにした。今気にするよりも、分かりやすい結果になると思ったからだ。
この拠点の構造は、昨日大体把握した。五つの書庫と、一つの資料室が、彼女の部屋とドルティオークの部屋以外に存在する。昨日大雑把に見たところでは、書庫はただの書庫で、資料室にはドルティオークが裏の世界で活動した際の文書の類いが置かれていた。裏ではかなり大きな顔をしていると噂される男である。実際にそうであるか、それ以上なのだろう。
残るは階段である。これを使えば、屋上へ行けるが――昨日の経験では、ここを昇ると、何故かドルティオークが屋上で待っていた。その直前まで、彼の気配は彼の部屋にあったというのにである。ここを通って脱出するのはまず不可能だろう。
脱出するなら、ドルティオークの部屋と屋上以外の場所に脱出ルートがあることを祈るしかない。仮令あったとしても、発見した途端にドルティオークがあらわれるという可能性も充分に考えられるが……それを恐れていては何もできない。
彼女はまず、廊下を調べることにした。特に、階段から降りてきて突き当たりになる壁である。ドアも何もない、ただの壁だ。あからさまに怪しいが、あまりにあからさまなので、まず何もないと思えてならない。一応、手で叩くなり、呪法で密度を調べるなりしてみたが、結局徒労に終わった。残りの廊下の壁も同様に調べたが、同じことだった。
次に、書庫に入り、中を調べる。四つの書庫を調べ終えた時点では何も発見できず、五つ目の書庫にさしかかる。この書庫だけは他の書庫では起きないことが起こると分かっていたが、ためらわず扉を開ける。
途端――
「ぐあぁつ!」
苦悶の叫び声が響いた。
ティーンが張っていた結界に、大男が正面からぶつかって来たのである。
「何の用だ? かなり長い間そこに潜んでいたようだが」
冷静に、彼女は問う。この大男の気配は、彼がここへやって来た時から捉えていた。
「き、決まってるだろ! てめぇを殺しに来たんだよ!」
結界から二、三歩後ずさると、息を荒げ、結界に真正面からぶつかった左の拳を押さえながら言う。
どうやら、結界に拳をぶつけただけで、かなりのダメージになったようである。ティーンにしてみれば、大した結界でもないのだが。
「見たところ、実力は二級戦技士並だな。それでどうやって私を殺すと?
それに、何故私を殺したがる?」
「てめぇが来てから隊長はすっかり腑抜けちまった! あの予言者は殺さねぇって言うし、当分殺しはしねぇとも言いやがった!」
大男の言葉に、彼女は視線を冷たくし、
「……なるほど。『禁忌』のメンバーか。様子からして三下だな。
殺すことしか頭にないのか?」
「殺しがしたくて入ったんだ!
てめぇさえ殺せば、隊長は元に戻るに決まってる!」
言いながら、先程のことを忘れたのか、また左手で殴り掛かってくる。だが、ティーンの方は単調な対応はしない。結界を粘性のものに変質させ、大男の腕を取り込ませる。
「ドルティオークも分からないな。何故こんな単細胞の役立たずを部下にしたんだ?」
言いながらティーンは、腕を結界に取り込まれてもがいている大男の真横に回り込む。
極力冷徹な声を出し、
「さて……どうする?
このままお前を殴り殺すことも、呪法で存在した痕跡すら消し去ることも可能だが?」
言いながら、掌の上に放つ寸前の呪法を待機させる。男の顔に、初めて恐怖の色が浮かんだ。
その時――
「失せろ」
声と共に呪法が発動し、断末魔を上げる間すらなく、男の体が一瞬で灰となる。
「…………な……」
一瞬唖然とし、視線を灰の山から声の主に移す。
声の主――たった今、呪法で自らの部下を葬り去った、ドルティオークに。彼の顔には、何の感情も浮かんでいなかった。
「どういうことだ? お前の部下だろう!」
「ああ。部下だった」
問いただすティーンの声にも顔色一つ変えず、ドルティオークは続ける。
「そして俺はセイズ以外の部下に、二つの命令を出した。ここへは来るなということと、リーゼ、お前に手を出すなということをな。
そいつはその両方を無視した」
言うと、ドルティオークは、もう一度呪法を使い、灰を消し去り、部屋に戻って行った。
ティーンが張った、粘性の結界に空いた穴だけが、男が存在した痕跡を残していた。
また早朝に呼び出され、彼は急ぎ、外に出た。服装はいつもの通り、少々ヨレたシャツにズボンである。シャツもズボンも何枚か持っているのだが、全て似たような物のためにバリエーションに乏しくなっている。
外に出てみると、彼を呼び出した相手は既にそこで待っていた。いや、ここに着いてから魔力で話しかけてきたという方が自然か。
「スペサルタイトに戻ってもらって調べてもらったんだけど」
彼女――ガーネットは、挨拶もなしにそう切り出した。
「あなたからの定期報告は、きちんとイリアのところに送られてるっていうの。つまりあなたは、自覚が無いにもかかわらず、正常に稼働してるってことね」
「まぁた『ブラック・オニキス』か? だからそれは何なんだよ?
それより、ティーンはどうなってんだ?」
ウォルトの言葉に、ガーネットは僅かに首を傾げて見せ、
「……まぁ、ブラック・オニキスの件は置いとくとして……ティーンに会いたい?」
「会えるのか?」
「ええ。会いたいなら、スペサルタイトに乗って。あたしは自分で飛んで行くから」
昼前になるまで飛び続けて、到着したのは切り立った岩山の上だった。岩山の一部が水平に切り取られており、飛行船が止められている。
「この下にティーンがいるのか?」
飛行艇に驚きながらいうウォルト。
「正確に言えば……」
ガーネットは飛行の呪法で、屋上から少し離れた岩山の上に行く。スペサルタイトも彼女に続き、岩山の上すれすれの所で止まった。
「ここの真下の部屋ね。……あ、生体探査は無駄よ。『禁忌』が、この拠点の中と外とを隔てる結界を張ってるから」
「……で、どうやって入るんだ? まさか、あの階段使う気じゃないだろうな」
ウォルトの言葉に、ガーネットは意地の悪い笑みを浮かべ、
「そんな回りくどいことはしないわよ。
ついでだから、見せてあげる。あなたがセミ-プレシャスだって証拠を」
言うと、ウォルトをスペサルタイトの上から突き落とす。
「……う……」
悲鳴を上げる暇すらなく、ウォルトは岩山に激突――せずに、岩山を素通りして落ちて行った。
「うわああぁあぁッつ!!」
「……ウォルト!?」
突然の悲鳴に振り向けば、見知った顔が一人、天井から降って来たところだった。
「無事か!? 何があった!?」
床に激突したウォルトを助け起こす。
「何が何だかオレにもさっぱり……」
ティーンに起こされながら呟いていたウォルトは、彼女の姿を見て言葉を止める。
「……どうした?」
「お前……ティーンか?」
問われて初めて、彼女は自分がドレス姿だということに気づいた。
「ああ。ティーンだ」
「女だなんて聞いてねぇぞ……」
「言わなかったからな。悪かった。
それより、どうやってここを突き止めた?」
問われ、ウォルトは床に激突したときに打った場所をさすりながら、
「ガーネットだよ。あいつが、お前に会いたいなら来いってんで、ついて来てみたら……」
「ガーネットが……?」
「そう。あたしたちが連れて来たの」
唐突に、声は天井からした。見上げていると、スペサルタイトに乗ったガーネットが、天井を素通りして現れた。
「ガーネット。ここは危険だ。ウォルトを連れてすぐ、出て行ってくれ」
「え~。せっかく来たのに~」
ティーンの硬い声に、半分ふざけているような声で応えるガーネット。
「ティーンだって、あたしに訊きたいことがあるでしょー。ウォルトとも久しぶりだしー」
「そんなことを言っている場合じゃない。殺されるぞ」
「殺されるって……この滅茶な気配の持ち主にか?」
「ああ。『禁忌』――ドルティオークだ。奴は二日前にも、命令に背いたからと言って自分の部下を殺している。奴が来る前に逃げろ」
「逃げろって……お前も一緒に逃げたらどうだ? あの天井、擦り抜けられるんだろ?」
「あ~、それボツ」
ウォルトの提案を、どこか面倒臭そうにガーネットが却下する。
「言ったでしょ。『セミ-プレシャスだって証拠を見せる』って。
これは普通の……って言うか、呪法でかなり強化されてるから普通じゃないけど……とにかく普通の天井。抜け穴なんか一切なし。セミ-プレシャスに物体透過能力があるから出来たことよ。
セミ-プレシャスでもプレシャスでもないティーンには無理なの。分かった? ブラック・オニキス」
「またブラック・オニキスか? 一体何なんだよ? それは。セミ-プレシャスだのプレシャスだの……分かりやすく説明……」
「話は後だ! 逃げろ!」
ウォルトの言葉を遮り、ティーンが叫ぶ。向かいの部屋にいるドルティオークの気配が動き始めたのだ。
「大丈夫よ。あいつがそのつもりでも、あいつはあたしたちを殺せない。その時は返り討ちよ」
ガーネットが自信たっぷりに言う中、ノックの音が響き、扉が開く。
「ドルティオーク!」
瞳を金色に染めたティーンが、ブラック・オニキスの短剣を構え、ドルティオークの前に立ち塞がる。
「私の友人だ! 殺すな!」
一方、ドルティオークは、侵入者をガーネット、スペサルタイト、ウォルトの順に見渡して、
「リーゼの友人か。なら、ゆっくりとしていくがいい。
リーゼを連れ出すなら声をかけろ。同伴する」
それだけ言うと、扉を閉め、去って行った。
安堵の溜め息を洩らし、ブラック・オニキスの短剣を収めるティーン。彼女が部屋の中を振り返ると、何故かガーネットが頭を抱えていた。
「……どうした? ガーネット」
「………………
……あーもー、頭痛い……」
ティーンの声に、小さな呟きを返し、彼女は、
「ちょっとその剣貸して」
ティーンからブラック・オニキスの短剣を受け取り、刀身に触れる。
「……やっぱり……」
絶望的な声で呟くと、
「何考えてんのよ!? あんたはっ!」
やおら、短剣の柄でウォルトに殴り掛かる。
「な、何だ!? いきなり」
ぎりぎりのところで躱し、ウォルトが叫ぶが、ガーネットがそれに応じる気配はない。
「無駄よ。ガーネット」
もう一度殴り掛かろうとするガーネットを止めたのは、ティーンでなく、人間の姿になったスペサルタイトだった。
「彼に言っても分からないでしょ? 抜け殻なんだから」
「それはそうだけど……」
渋々、ウォルトへの襲撃を諦めるガーネット。
「抜け殻でも殴っとかないと気が済まないと思わない?
あたしたちプロトタイプならまだしも……こいつは完成形の筈よ」
「……多分、イリアが欠陥に気づかなかったんじゃないかしら」
「……あー、頭痛い。
ティーン、この剣、元の場所に戻すけど、いい?」
「あ、ああ」
呆然と事の成り行きを眺めていたティーンの許可を取ると、
「封じよ」
呪法でウォルトの動きを封じ、その胸に深々と短剣を突き立てる。
「……な……
ウォルト!!」
慌てて駆け寄ろうとしたティーンだが、すぐに異変に気づき、足を止める。
刺されたウォルトに苦しんでいる様子はなく、刺さった短剣は、砂が崩れ落ちるようにして消滅していっている。
「……一体……?」
「まぁ、在るべき処に還るってことで」
ティーンの隣に来たガーネットが気楽に呟く。スペサルタイトは、既に鳥の姿に戻っていた。何を考えてかは知らないが、呑気に絨毯を啄んでいたりする。
短剣が完全消滅した後、唖然と自分の胸に突き立った剣を眺めていたウォルトは、ゆっくりと頽れていった。ティーンが安否を確かめたが、ただ眠っているだけだった。
「どういうことか説明してくれ」
「それよりも……訊きたいことが別にあるでしょ」
ウォルトをベッドに寝かせ、ティーンが言った言葉に、ガーネットは茶目っ気のある声で応える。
「教えてあげるわ。イリアとあたしの関係。話の中でウォルトのことも出て来るし」
「まず最初に言っとくけど……イリアは生きてるわ。他の巫女たちもね」
ティーンと向かい合ってソファに座り、口を開くガーネット。
「イリアはあたしたちの生みの親よ。正確に言えば、創造主ってとこかしら。
イリアは、自らの手足として、あたしたちセミ-プレシャスやプレシャスを創造したの。あたしは、その中でも一番の古株。最初の成功例。それでも、プロトタイプだけどね。次の成功例が、スペサルタイト。あたしのサポートを主な目的として創造されたわ。
あたしの正式名称は、セミ-プレシャス プロトタイプ 〇一三 コードネーム《ガーネット》。スペサルタイトは、セミ-プレシャス プロトタイプ 〇三八 コードネーム《スペサルタイト・ガーネット》」
「〇一三に〇三八……?」
それまで黙って聞いていたティーンは、ぽつりとそう呟き、
「お前たちか? カイアスズリアの解毒剤を調達したのは」
「ま、そーゆーこと。
カイナちゃんのところで、あなたがカイアスズリアを仕込んだ指輪つけてるのを見てね……慌てて解毒剤準備したの。
あたしとスペサルタイトは、あなたを監視・誘導する目的で派遣されて来たわ。勝手に死なれちゃ困るのよ。
ま、それはそれとして……ウォルトも人間じゃないわ。さっきので分かったと思うけど。正式名称セミ-プレシャス 二四一 コードネーム《ブラック・オニキス》。あたしたちと違って、完成形のセミ-プレシャス……の筈だったんだけど……ねぇ」
ちらりと、眠っているウォルトを見やり、嘆息する。
「どこかのシステムにでも異常があったんでしょうね。独断で自分の存在の核と言える部分を抽出・具現化してたのよ。さっき戻しといたから、何十年かすれば正常に戻ると思うけど」
「あの短剣か?」
「そういうこと。
とにかく、ブラック・オニキスは今まで……まぁ、これから暫くもだけど……中途半端な状態で稼働してたわ。友人としてあなたに接触し、行動を定期的にイリアに報告する――その目的で本物のウォルトと入れ替わって……結果から言えば、ブラック・オニキスとしての自我を失っちゃったのよ。完全に『ウォルト』になっちゃったわけ。……もっとも、あなたの行動をイリアに報告するっていう任務の方は、無意識にこなしてたみたいだけど。
……何か訊きたいこと、ある?」
「本物のウォルトと入れ替わったと言うが……なら、本物はどこで何をしているんだ?」
「死んだわよ。
彼が、王立アカデミーに入る直前、重い病気で入院したのは知ってるでしょ? その時に、本物は病死したわ」
「なら、ウォルトは、私と出会った時は既にブラック・オニキスだったというわけか」
「そーゆーこと。本物はイリアが供養してるわ。ブラック・オニキスが成り済ましてるせいで、親も供養してないから。
……どうしたの?」
ガーネットが、俯いたティーンの顔を覗き込む。
「……私は……いつから巫女頭の監視下にあったんだ?」
「最初っからよ」
絞り出すようなティーンの声に、ガーネットは、事もなげに答える。
「セミ-プレシャスが派遣されたのはブラック・オニキスの時からだけど……イリアは、千里眼も持ってるから。ついでに予知能力もね。
……ところで……訊かないのね」
「何をだ?」
「イリアの居場所」
一瞬、場の空気が重くなる。
「……お会いするつもりはない」
呟くように、ティーンは答えた。
「理由は……ずっと監視していたのなら知っている筈だ」
「あたしとスペサルタイトは、あなたをイリアの所へ連れてくように言われてるんだけど」
ガーネットが不満げに言った言葉に、ウォルトのうめき声が重なる。――どうやら、意識が戻ったらしい。
「ま、今はそれはいいわ。
あたしたちは、ドルティオークに話があるから」
言って、席を立つガーネット。鳥の姿をしたスペサルタイトがその側に来る。
「それから、ウォルトにはブラック・オニキスの自我は全く無いわよ。今まで通りに接してね」
小声でそう言うと、扉を素通りして出て行った。
「つまり……セイズの言ってた『お姫様』は、お前だったのか?」
「ああ」
意識の戻ったウォルトに、ティーンは自分の過去を説明した。こうして話すことにいちいち反応を見せるところを見ると、ガーネットの言う通り、ブラック・オニキスとしての自我はないのだろう。
「……でもなぁ……お前、十七だろ?」
先程ガーネットに刺されたことも覚えていないらしいウォルトは、少し首を傾げながら言葉を続ける。
「あいつ一体、年いくつだ?」
「訊いていないから知らないが……三十代後半なのは間違いないだろう」
「二十も離れてるじゃねぇか……。ロリコンか? あの男」
「そんなことはどうでもいい。私にとって重要なのは、あの男が一族の仇だということ、それだけだ」
一瞬だけ、瞳を金色に染めてティーンが言った言葉に、ウォルトは神妙な顔つきになった。
「……なぁ、ティーン。
一緒にここから出ねぇか? ガーネットが妙な力使うみてぇだし、それを利用すれば……」
「駄目だ」
ウォルトの言葉を遮って言い、ティーンは続ける。
「お前たちが殺される。
奴がおとなしいのは、私がここに居るからだ。私の逃走に手を貸そうとしたと知れば、奴はためらいもなくお前を殺すだろう。
幸い、命の危険はない。私は、自力でここから出る道を探すことにする」
「でもなぁ、命が無事だからって言って、何もされないとは限らねぇだろ」
「貞操のことか?」
あっさりと言った言葉に、ウォルトが間を置いて頷く。
「それなら心配する必要はない。……と言うより、手遅れだ。私は、十三の頃にとっくに身体を奪われている。
奴は、私の目の前で家族を殺し、私を連れ去り――その日の内に、私を侵した。半年ほど奴に連れ回されたが……その間に何度も身体を奪われた。
今は手を出してくる様子はないが……今更どうということもない」
ティーンが言い終わる頃には、ウォルトの顔は、義憤に赤く染まっていた。黙って立ち上がり、部屋の扉に向かおうとする。
「止せ!」
「黙ってろ! オレがぶっ殺してきてやる!」
「無理だ! それに……」
声のトーンを一つ落とし、
「私のことで奴に関わるな」
「……?」
ウォルトが足を止めた隙に、ティーンは言葉を続ける。
「奴は私に、異様なまでの執着を見せている」
と、ティーンは後ろを向き、背中のファスナーを下ろし始める。
「お、おい、何を……」
「見ろ」
慌てるウォルトとは対照的に、冷静にティーンは右肩を外に晒す。彼女の右の肩甲骨の辺りに、焼き印があった。
ドルティオーク。そのスペル。
ファスナーを閉じ、ウォルトの方を振り返る。
「これで分かっただろう。奴の執着ぶりが。
私に構うな。これは私の問題だ」
「んなこと言われて……」
ウォルトがなおも言おうとした時、また扉を開かずにガーネットが戻って来た。
「ウォルト。帰るわよ」
言い、スペサルタイトに乗り、有無を言わさずウォルトの腕を掴む。
「ちょっと待て! まだ話が……」
「じゃ、元気でね。ティーン」
必死にガーネットの手を振りほどこうとしているウォルトを下げて、ガーネットは去って行った。
一人残ったティーンは、無言のまま、その場に頽れた。
お読みくださりありがとうございます(o^―^o)ニコ
この章は監禁以外はあまり特筆すべきところないですが……(ウォルトは?)
やっと出てきた禁忌を倒す武器。使うか否か、使うならどこで?は後々。
お付き合いいただければ幸いです(⋈◍>◡<◍)。✧♡
2022/03/05 副島王姫