サヨリ様
「なら、なんで置いてこなんだ。」
老婆は、薄笑いをしながら青年をちらっと見た。
「はぐれ熊がいた。やつは、人間が餌場の川にきたことで怒っていた。こいつがどうなってもかまわないが、一度人を襲った熊は、また襲うようになる。先日、自分でいってただろが。」
ハナが一人で川遊びに来た時のことを言っているらしい。
「あばあさん、熱があるんでしょ。よかったら薬使ってください。」
そう胃って、ハナは解熱剤の入った箱を小さな肩掛けから取り出した。
「サヨリ様に失礼だぞ。」
クフトはハナの手を払った。その拍子にクスリの箱が落ちた。
「クフトも落ち着きなさい。ハナ、わしは薬は飲まない。そりゃ街の薬はよく効く。だが、人の体も弱らせる。次もまた街の薬が必要になる。山には色々な薬草がある。効き目は弱いが、それらは体を強くする。」
一度楽をしたら離れられなくなる。さきほどの、熊の話と同じだ。
サヨリ様と呼ばれた老婆は、シンダ・カムリの末裔だという。
「クフトは街の人よね。」
民族風の上着を羽織っているが、下はTシャツとジーンズにスニーカーだ。
「おれの専攻は民俗学だ。サヨリ様から伝承を聞くためと身の周りの世話をすることで出入りを許された。」
クフトは相変わらずふてくされている。
彼は大学の卒業論文で、ナンダ・カムリの伝承をまとめるうちに、この地に興味を持った。伝承には、人との戦いに敗れたカリム達の未来についても語られていた。
「こやつは、予言を確かめたいんじゃ。」
「日が暮れると危険だ。下まで送っていく。とにかく街の連中はろくな奴はいない。もう二度とここに来るな。」
クフトはそういって立ち上がった。
「そういうな。この鈴をやろう。代々伝わる熊よけの鈴でな。これをつけておれば、熊も猪も襲うってくることはない。」
老婆は壁にかかっていた鈴の一つをハナに渡した。
「サヨリ様は、こんな小娘のいったいどこが気に入ったんだか。おれなんて、出入りを許されるのに一年かかったんだぞ。」
クフトはよほど悔しかったらしい。帰り道の間、ずっとぶつぶつとつぶやいていた。




