第一話 りあんでしょ! しーふー!
夜闇を踏み、息を潜めたシロは進む。
深灰の西区――旧市街に存在する邸宅である。古びているが手入れの行き届いた床板は、特定の箇所を避ければ軋むことはない。ここ最近の経験を総動員して、シロは目的の部屋の木戸を引いた。
中庭から響く虫の音に混じって、安らかな寝息が聞こえる。書物の山に囲まれ一人の女が丸くなっていた。かたわらには蹴飛ばされた毛布が一枚と、その衝撃で崩れたのであろう書物の山が一つ。
ううんと女が呻き、シロはぴたりと立ち止まった。気配を極力まで殺して耳を澄ませ、寝返りをうった彼女が起き出してこないことを確認するまで十数える。
それから彼は右手の木の棒をそっと握り、足を一歩踏み出した。と、指先に糸が触れ、りんと澄んだ鈴の音が響く。
「しまっ……」
思わず声を上げたシロは、慌てて己の口元を押さえた。が、すでに時遅し。
眠りこけていたはずの女が、ばちりと目を開けシロを見る。夜闇にぼうっと浮かび上がる黒瑪瑙色の目はやけに感情がなく、シロは思わず後ずさった。
その足首をしかし、女の白い手ががっしりと掴む。
「いや、怖!?」
「シーローくーん……?」
眠りを妨げられた蓮安の、地を這うような不機嫌な声が響く。氷点下の殺気に、シロは悲鳴をなんとか飲み込んだ。
そしてそれが、この夜に彼のできた唯一の抵抗だった。
*****
「四十三戦四十二敗一引き分け。なかなかの勝率だねえ」
「それ……わざと言ってますよね、十無さん……」
「うん? 単なる事実確認のつもりだったのだけれど」
翌朝、蓮安邸の中庭で濡れた洗濯物の皺をのばしていた十無は、藤色の髪を揺らして小首をかしげる。まったく悪意のないそれに呻いて、シロは桶の中に雑巾を突っ込んだ。
拭き終えたばかりの廊下は、日差しを浴びて気持ちよさそうに輝いている。なにせ朝から家中の廊下を掃除していたので満足感はあるが、そもそもの元凶は蓮安の無茶な命令にあるのだから、素直に喜べるはずもない。
「詰めが甘いんだよなぁ、君は」
中庭に面した板間の部屋で、蓮安がのんびりと言った。シロがむっとして睨めば、胡座に片肘をついた女は手元の書物から目を上げてにやっと笑う。
「ふふん、いいね。いかにも負け犬らしい顔で」
「負けてないですし、犬でもありません」
「強がり。私の寝込みを襲うのに失敗したから、雑巾がけする羽目になってるくせに」
「……あなたが大人しく死んでくれれば話は早いんですが?」
「愚かだなあ! 匣庭の主なのだから、私はすでに死んでいるに決まっているだろう!」
己の胸に手を当てた蓮安が自身満々に言い、十無が無邪気に拍手を送る。蓮安邸ではありふれた光景に、シロはため息をついた。
匣庭という現象が、この世には存在する。
それは死せる人間の未練により生まれ、現実と混じって願いを具現化する蜃気楼。すべての境界が曖昧となり、生死聖邪問わずあらゆる存在が集う場所。あるいは匣庭の主が消えれば儚く滅びる泡沫の夢ともされる。
何を隠そう、目の前の蓮安は匣庭の主であった。そして、ご多分に漏れず死んでいる。
告げられた当初はシロもどきりとしたものの、なにせ蓮安は始終今のような調子で生き生きとしていて、同居人の十無もこれを気にする様子がない。そうなれば、シロ一人が深刻に考えるのも馬鹿馬鹿しいというものなのだった。
こっちは早く匣庭から出たいというのに、蓮安達はのんきなことだ。シロは胸中でぼやきながら、「それで」と淡々と声をかける。
「蓮安先生は家事もしないで何をしてらっしゃるんですか」
「そりゃあ、こんなに天気のいい日だぜ。やることは一つ、暇つぶしに決まってるだろう」
「わー、すごく殴りたくなるお言葉ですねー」
「あはは、シロくん、伏せ」
にっこりと微笑んだ蓮安の命令に、シロは地面に倒れ込んだ。負けた人間は勝った人間のいうことをなんでもきく――匣庭の主人たる蓮安が作った唯一無二にして乱暴極まりない規律に、シロは歯噛みする。
「それよりもさぁ、シロくん」すぐ近くにしゃがみこんだ蓮安は、大げさにため息をついてみせた。「なんだね、その蓮安先生というのは。前は蓮安様、蓮安様と崇め奉ってくれていたというのに、ずいぶんと可愛げのない」
「崇め奉ってはないだろ」
シロは起き上がろうとするのを諦め、ぶっきらぼうに言った。
「いいじゃないですか。十無さんだって、あなたのことを蓮安先生と呼んでいるわけですし」
「君は私の弟子じゃない」
「そのとおり。弟子になる気は毛頭ありませんし、先生というのも呼びやすいから呼んでいるだけなので」
「生意気だなぁ」
「最高の褒め言葉をどうも。というわけで、早く僕を匣庭から解放してくれませんか?」
「かっ、まぁたその話か」
茶を準備するよと言って立ち去った十無へ片手をひらりと振り、蓮安は膝に頬杖をついた。
「嫌に決まってるだろう。君にはしてもらわなければならないことがあるんだから」
「掃除なら充分してさしあげたでしょう」
「あのねぇ、シロくん。私はそんな陳気なことではなくて、君に匣庭を消してほしいのさ」
「いやです。匣庭ならあなたの呪墨で壊せるでしょう。僕のときみたいにむぐっ」
ほっそりとした指先がシロの唇を無遠慮に塞ぐ。彼が眉をひそめれば、夜色の唐服を揺らした蓮安がぐっと顔を近づけた。
「話をきちんと聞け。私は匣庭を消してほしいんだ。壊すんじゃなくてね。君ならできるはずだろう。玄帝に乞われて、人間を滅ぼすに足る力を手にしてしまった君なら」
シロは顔をこわばらせた。蓮安が喉奥を鳴らして笑う。
「なぜ私がそんなことを知っているのか、という顔だな。そりゃあ君、東の国でいうところの、壁に耳あり障子に目ありというやつだ。どこかで何かがおきれば、川が下っていくように噂も流れてくるというもの」
「待ってください。それじゃあ、最初からそれが狙いだったんですか?」
「当然だろう。でなけりゃ、君のよわっちい匣庭なんか、君ごと粉砕、私は枕を高くしてすっきり眠れるって手はずだったわけだ……おっと」
シロはおもむろに蓮安の手首を掴んで引き倒した。仰向けになった彼女の頭を挟むように見下ろせば、彼女は悪びれなく目を瞬かせる。
「おやおや。私の規律もたやすく破ってしまうとは、情熱的だな」
「茶化さないでください」シロは蓮安をにらんだ。「元より期待はしていませんでしたが、最低じゃないですか。僕の力が目当てだなんて」
「なんだ、じゃあ君が目当てだったんだよ、とでも騙ってやればよかったか?」
「それは……」
「筋違いの怒りはやめろ。お前だって、そんな言葉を望んでいたわけじゃないだろう」
あっさりと論破され、シロは押し黙った。蓮安の言葉は事実だ。さりとて、事実が正解とも限らないと思う。ならば自分はどうしてほしかったのか。
それが分かれば、こんなことにはなっていない。五番目の龍には願いを叶える力は与えられど、願う力は与えられなかったのだから。堂々巡りの言い訳と、己にかけられた人を滅ぼせという願いを思い出して、シロは顔を曇らせる。
「……あなたがどこまで僕の力を把握しているのかは知りませんが」シロは蓮安から身を離しながら、ぼそぼそと呟いた。「僕の力は匣庭を消すようなものではありません」
「いいや、シロ君なら消せるはずだ。君という例外を除けば、匣庭はすべからく人間が起点となる。ならば人を滅ぼしてしまえば、匣庭も消える」
「仮にその理屈が正しかったとしても、力を使う気は毛頭ない」
軽やかに起き上がった蓮安は、呆れ顔をシロに向けた。
「あのなぁ、シロくん。起こってしまったことをうじうじと悩むのはやめようぜ? 仕方ないと割り切って、次にどうすべきか考えるのが重要なんじゃないか」
「僕はあなたみたいに能天気には生きられませんよ」
「私はいつだって真面目だがね」
蓮安が欠伸混じりに返したところで、十無が戻ってきた。蓮安に新聞と茶を手渡した彼は、シロを見ておっとりと笑う。
「その顔、四十四戦四十三敗一引き分け、ってところかな」
「楽しまないでくださいよ」
「ごめんね。でも、悩んでいる人を見るのは、なかなかに得難い経験なんだよ。私にとってはね」
「……結構なご趣味なことで」
シロは低く呻いて、木桶片手に中庭へ降りた。細い道をたどって蓮安邸の裏口から外に出て、すぐ近くの井戸へ向かう。
ぎいと軋んだ音を立てながら、水を引き上げた。初夏の日差しを弾いて輝く水面は眩しいが、シロを情けない気持ちにもさせる。
なんというか、このまま一生、蓮安にこきつかわれるのではないか。そも、龍は永久の時間を生きるのだから、一生などということはありえない――が、蓮安ならば「死んでいる私が、寿命などという概念にとらわれるはずなかろう!」と得意げに高笑いしそうでもある。
やるせない気持ちで、シロは汲みあげた水を桶に注ぐ。そこで、がらんという奇妙な音がした。冷水に手を突っ込んで引き上げれば、音の正体は一枚の木片である。
きらめく雫をつけた木片はあちこち黒ずみ欠けていて、ずぶんと古い時代のもののようだ。シロはうなじの鱗を手のひらでさすった。ひどく稚拙で、ほとんど消えかかってもいるが、なにかの術の気配がする。
「……虹のねもとはきみの中、わたしの中、すべての過ごした時間の中に」
かすれた文字を拾って読みあげたところで、ぼふん、という間抜けな音が蓮安邸から響いた。
木片を握りしめ、シロは驚いて振り返る。苔むした屋根瓦に、彩色がすっかり剥がれ落ちてしまった柱。おんぼろの蓮安邸の様子はいつもとまるで変わらない。
けれど、安堵できたのはつかの間だった。十無の慌てたような声が飛んでくる。
「わ、ちょっと待って! 蓮安先生! その格好じゃ駄目だよ!」
「十無さん、一体何があったん、どわっ!?」
下腹に勢いよく何かがぶつかり、シロはよろめいた。今度はいったい何なんだと見下ろした彼は目を丸くする。
見慣れた夜色の唐服がある。その布はしかし、やけに長く、地面を引きずったせいで泥だらけだ。そして、布を引きずっている張本人は、艷やかな黒髪に真っ白な肌の。
「……幼女?」
「ようじょじゃない! りあんでしょ! しーふー!」
黒瑪瑙色の目をきらきらと光らせた蓮安そっくりの幼子は、腰に手を当てて頬を膨らませた。