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極星とメメント  作者: 湊波
序幕 私が蝶か、蝶が私か?
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第六話 いいね、ぜひそうしてくれたまえ

 死後の世界というものをシロは知らないが、彼が真っ先に感じたのは柔らかなぬくもりだった。


 夢うつつのまま、彼は指先を動かす。毛布とは違うが、ほのかな熱が心地よい。まるで昼下がりの露台でうたた寝をしている時のそれだ。幸せな気持ちのまま、シロは目を閉じて身動ぎする。


 匣庭はこにわが消えてしまった悲しみはどこか遠かった。これが天帝の定めためぐりにかえるということならば、存外悪くない。


 呑気のんきに思ったところで、彼の指先がさらりとしたなにかに触れる。極上の絹糸が束ねられているらしい。けれど、どうしてそんなものがあるのだろう。


 シロはぼんやりとまぶたを上げる。

 そして一瞬で凍りついた。


「……は?」


 朝の日差しが差し込む中、シロの指先からつややかな黒髪がこぼれる。たどっていった先に、美しい女の寝顔があった。


 すよすよと寝息を漏らす唇は朝露に濡れた牡丹ぼたん色、乱れた夜色の唐服からのぞくは新雪を思わせる白い肌。悩ましげな声をあげて彼女がシロの胸板に頬を寄せ、柔らかな太ももをシロの足に絡みつかせる。


 そこで彼女は、ふわりと目を開けた。目と鼻の先、二人の視線が絡む。朝の空気に場違いな小鳥のさえずりが一つ響いて。


 次の瞬間、シロは頬を思い切り殴られた。


っっ!?」

「女々《めめ》しく騒ぐな、馬鹿者」


 それから数分と経たずして、シロは硬い木の床に頭を抱えて正座をしていた。女――蓮安リアンは、乱れた黒髪を雑に整え、シロを追い出した布団の上で胡座あぐらをかいて冷ややかな目をする。


「まったく、いくら私の体が魅力的で好ましいものだとしても、礼節をわきまえないのはいかがなものかな。最低、変態、思春期の童貞め」

「っ、誰が童貞ですか。そもそも僕は、あなたに興味なんて、これっぽっちもないですし」

「おい待て、それは聞き捨てならんぞ?」怪我をしていないほうの手を床につき、顔をしかめた蓮安が身を乗り出した。「こんなにも可愛くて美しくて、そのうえ器量よしの女じゃあないか!」

「はぁ!? どの口がそれを、」

「わぁ、良かった。お兄さん、目が覚めたんだね」


 やけにおっとりとした声に、シロたちは同時に振り返った。板張りの小さな部屋の入り口に、少女とも少年ともつかぬ人の姿がある。肩で切りそろえられた藤色の髪を揺らし、その訪問者はあどけなさの残る笑みを浮かべた。


「ふふ、二人ともそっくりだよ」

「私をこのヘタレわんこと一緒にするな」

「誰がヘタレわんこですか」

「それより十無ツナシ」シロのつっこみを華麗に無視して、蓮安は藤色の髪の少年へ手を差し出した。「茶ァだ、茶。れたてのやつ」


 あまりにもぞんざいな態度にシロは呆れるが、十無と呼ばれた少年には馴染みのあるものらしい。「用意してるよ」とこともなげに言った彼は、蓮安とシロへそれぞれ茶杯を差し出した。


 ほどよいぬくもりの杯からは香ばしい烏龍ウーロンの香りがする。ささやかなそれにシロがほっとする間に、ぱたぱたと素足で床板を踏んだ十無は雨戸を開いて回った。


 小さいながら手入れの行き届いた庭があらわれ、その中心で桜の古木が若葉を揺らす。


「まぁ元気そうでなによりだよ、シロ君」


 涼しい風に頬にかかった黒髪を遊ばせて、蓮安が言う。シロは茶を一口飲み、息をついた。


「ぶたれたところは相変わらず痛いんですけどね」

「いつまでも、うじうじするなよ。みっともないぜ?」

「元凶のくせに、よく言う」シロはじろりと蓮安を見やった。「それで? ここは一体どこで、僕はどうなったんですか? 匣庭が壊れて、てっきり死んだと思ったんですけど」

「死ぬ? 何を大げさな」


 蓮安が吹き出した。


「お前は別に死んじゃあいない。へたれで優柔不断で童貞とはいえ、君は天帝にも次ぐ力を持つ龍だ。寿命は悠久、そんじょそこらの妖魔や人間がおいそれと害すことのできるような存在でもなかろう」

「いや、さりげない悪口」

「だから君の場合は、生きたまま匣庭を発生させたということになる。珍しい事例だが、ないわけでもないさ。生者が匣庭を発生させた場合は、肉体と魂が分離して、魂だけが匣庭に取り込まれるのが常だ。君も、まさに今この状態にある」

「……はぁ、それで」


 文句をいう気持ちも失せて、シロはため息をついた。


「つまりその、僕の体は別のところにあるって言いたいんですか? 今ここにいる僕は幽霊のようなものだと?」

「ふふん、理解が早くて助かるよ。そういうことだ。良かったな、生きているうちに匣庭から出ることができて」

「……そうは、思えないですけどね」


 シロは茶杯を握りしめ、蓮安から目をそらした。中庭の新緑を眺める。


 友人たちとも、こうやって茶を楽しみながら景色を眺めたことがあった。穏やかな笑い声とともに在りし日の記憶が蘇って、シロの胸がつきりと痛む。


 けれどそんな感傷も、蓮安はまるで気づかない様子で笑い飛ばした。


「過ぎたことを悔やむのはやめたまえ。生きてさえいれば、いつかのどこかで解決するさ」

「適当かよ」

「おうともさ。当然だろう? お前の人生なのだから」


 あっさりとした返事は実に蓮安らしく、けれど不思議と嫌な感じもしなかった。シロはやれやれと笑って、茶杯に口づける。


 風が吹いて、シロの蜂蜜はちみつ色の髪を揺らした。穏やかな時間はいつぶりだろうと目を細める彼の耳に、ここ数日でずいぶんと馴染みが良くなった蓮安の声が届く。


「まぁ、安心したまえ。今ここにいる君の魂だが、肉体に戻るのはもう少し先になろうさ。私の匣庭に、魂を縫い止めたからな」

「…………はい?」


 たっぷり数秒考えてから、シロは慌てて蓮安を見やった。危なっかしい手つきで茶杯をすすっていた蓮安が、おや、と言わんばかりに首を傾ける。シロは慎重に口を開いた。


「え、いや待ってください。蓮安様。今なんて言いました?」

「む? 童貞ヘタレわんこ?」

「いや、それは言ってないだろ。ってそうじゃなくて!」シロは何度か深呼吸した。「匣庭に縫い止めるってどういうことです? 匣庭は壊れたんでしょう?」

「お前の女々しい匣庭はな。でも、私のは残ってる」


 戸惑うシロに、蓮安はにやりと笑った。心得たように、十無が陶器の人形をシロに手渡す。つるりとした丸い表面には犬の愛くるしい顔が描かれていた。


 何事かとシロが問う前に、蓮安が顎を小さく動かす。


「開けてみろ」

「……また人形が出てきたんですけど」


 そろりと手を動かして人形を上下に割れば、中から一回り小さい人形が出てくる。その胴体にもつなぎ目があって、シロは眉をひそめた。


「というかこれも割れますよね……ええと……わ、たくさん出てきた……」

「そう。これが、深灰シンハイで発生している匣庭の構造さ」


 入れ子になっていた犬の人形の中でも、ひときわ小さな一つをつまみ、蓮安はゆらりと振ってみせた。


「君はこれだ。ちなみに私は、こっちの大きいほう」

「……意味が分からないんですが」

「普通、匣庭というのは一箇所に一つなんだけれどね」シロ達を楽しげに眺めていた十無が、おっとりと言う。「深灰の匣庭は特殊なんだ。大きな匣庭の中に、小さな匣庭がいくつも入ってる。お兄さんの匣庭は、蓮安先生の匣庭の中に発生したもの、ということだね」

「だからシロ君の匣庭が壊れても、君の魂は身体に戻らず、私の匣庭に存在し続けるというわけだな。いやーまったく、こんなことまで出来ちゃう私ってば本当に天才。れしちゃうぜ。はい。というわけで、この話はおしまい」

「どこがおしまいですか!」


 シロは蓮安に詰め寄った。彼女が不思議そうな顔をするが、その反応こそシロには理解できなかった。


「匣庭を壊すと言ったのはあなたでしょう? なのにどうして、あなた自身が匣庭を創ってるんです?」

「うん? やんごとなき事情で?」

「なんですか、その適当な回答は! 匣庭にしがみつく人間は嫌いだとか言っていたくせに!」

「それは真実だぞ。だから匣庭を壊したいのさ」

「っ、あぁもう、堂々巡りのはぐらかしばっかりだな! あなたは!」シロは一段声を大きくした。「というか、あなたも匣庭を創ってるなら、僕のことを責める権利なんてどこにもないでしょう!」

「シロ君、黙れ」

「なのにこっちの匣庭を壊して、なんだかよく分からない理由で僕を縛るとかひぐっ!?」


 不意に喉元を得体のしれない何かがせり上がった。出来損ないのしゃっくりのような音が飛び出て、目を丸くしたシロは口元をおおう。

 蓮安はシロを見上げて、にやにやと笑った。


「いいねぇ。実に良い間抜け面だよ、シロ君」

「な……にをしたんですか、今」

「おや、君にしては察しが悪いな。匣庭の主は、匣庭の中で自由に世界を作ることができると言っただろう? これはすなわち、世界の規律を捻じ曲げるということだ」蓮安はなぜか得意げに己の胸に手を当てた。「とはいえ、そこは万能で善人の私だ。君のように何でもかんでも変えたわけじゃあない。捻じ曲げた規律はたった一つ――負けた人間は勝った人間の言うことをなんでもきく、ということだけさ」

「ガキ大将かよ」

「あはは、シロ君。謝罪の意味を込めて、地に伏そうか?」


 蓮安の上機嫌な声を合図に両足から力が抜け、シロは文字通り地面に倒れ込む。信じられない。横暴にもほどがある。もろもろの文句を怒りに変えて、シロは意地だけで顔を上げた。


 その顎を、蓮安がほっそりとした指先で掴む。


「そう、カッカするなよ。匣庭を消滅させるために、君の力をちょっと貸してほしいのさ。そうすれば、君は晴れて匣庭から解放され、元の世界に戻れるというわけだ」

「お断り、します。誰があなたに手を貸すもんですか」

「へええ? 自分の願いも持てない弱々のくせに?」

「願いなら、今できました。あなたの匣庭を壊して、とっととあなたから解放されることです」


 シロはありったけの怒りをこめて蓮安を睨む。そうすれば、夜をまとった彼女は両眉を跳ね上げた後、実に華やかに笑った。


「いいね、ぜひそうしてくれたまえ」

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