第五話 ちゃんと自分の願いに気づいているじゃないか
背中に焼けるような痛みを感じながら、蓮安は前方へ転がった。
「――避けないでください。余計な痛みを与えてしまうでしょう」
温度のない声に、彼女は右肩を押さえながら顔を上げる。
とんっと軽やかな音をたてて、シロが槍の柄で地面を叩いた。表面の揺らめく得物は水で出来ている。舞台の灯火を弾いて淡く輝くが、無色透明であるはずのそれはところどころ黒ずんでもいた。
蜂蜜色の髪も翡翠色の目も、出会ったころと変わらない。上背ばかりが立派で、頼り無さが先立つ彼のことを蓮安は密かに大型犬と呼んでいた。それが今やどうだ。顔のなかばほどを鱗で覆われた男には人間めいた表情がなく、シロという名前がちっとも似合わない。
蓮安は痛みをこらえ、無理矢理に笑った。
「不細工だな、シロ君」
「そうですか」
「つまらん返事だ」
「蓮安様、あなたは驚かないんですね」
「君が匣庭の主であるということか? それとも君の正体が五番目の龍であることにか?」蓮安は鼻を鳴らした。「そんなもの、最初から気づいているに決まっているだろう」
「説明を頂いても?」
「悠長だね」
シロの表情は揺らがない。それでいて、彼の周囲の穢れた気は反論を許さぬ威圧感をたたえている。いかにも人ならざるものらしい横暴さに顔をしかめながら、「簡単なことだよ」と蓮安は口を開いた。
「匣庭の中では、あらゆる認識が匣庭の主にとって都合の良いように歪む。裏を返せば、おかしな言動をしているやつが犯人なのさ。なぁ君、気づかなかったのか? 君の友人が、君のことをシロと呼ぶはずがないんだよ。それは私が君に昨晩与えたばかりの名前で、君の真名ではないのだから」
「あぁなるほど、そこですか。では次の参考にさせていただきましょう」
「はっ、次とはな。まだ匣庭などという陳腐なおままごとにしがみつくつもりか?」
「当然でしょう」
槍をゆるりと回しながら、シロが足を踏み出した。
「ここでは全ての願いが叶えられ、誰もが幸福を手にすることができる。これほど素晴らしい世界がありますか?」
「錯覚だ。ここにいる人間が手にできるのは、お前の押しつけた幸福のみさ。空っぽで、なんの意味もない」
「そんなはずはない。彼らが僕に願ったんです。ならば幸せで、意味がある」血で濡れた床を踏み、シロは無表情に蓮安を見下ろした。「疑うのなら、あなたも僕に願えばいい。今すぐにだって叶えてあげますよ」
「っは! 施しなどいらんと、私は警告したぞ!」
蓮安は右肩に押し当てていた手を横薙ぎにふるった。赤黒い血がシロの頬に降りかかると同時、蓮安は怒鳴る。
『封じろ!』
ぎ、と空気が鳴った。シロの体がわずかに強ばる。彼は不愉快そうに眉をひそめたが、その先の結果を見ることなく蓮安は身を翻して駆け出した。
呪われた血はそれ自体が術の触媒になる。なれど紋が描けぬ以上、さしたる効果は期待できない。彼女の読みのとおり、男はあっさりと封じの術を破った。周囲から水のざわめく音がする。
『恢網の水嵐』
温度のないシロの声を合図に、広間中に張り巡らされた水路から槍の形を模した水が幾本も立ち上がった。
濁った水のしたたる槍先が蓮安に向けられ、間断なく降り注ぐ。彼女は舌打ちしながら、すんでのところでそれを躱していった。時に身をよじり、時に竹筒を打って槍の軌道を逸らす。一歩進むたびに肩がもげそうなほどの痛みが走り、口汚く罵る。
蓮安は灯火の揺れる小舞台を駆け上がった。何個目か分からぬ竹筒を掲げ、シロが突き出した槍の先を受ける。穢れた水の跳ねる先、息一つ切らしていないシロの頬の鱗が無機質な光を帯びている。
蓮安は目を細めた。
「勘違いするなよ。万人のための匣庭なぞ存在しない。匣庭はあくまでも君の願いを叶えるための空間だ」
「僕の願いは、全ての他者の願いを叶えることです」
「綺麗事だ」
「あなたに僕の何が、」
「綺麗事だよ、シロ君」蓮安は強い口調で遮った。「君が本当に誰かの願いを叶えたいならば、匣庭なぞ発生するはずがないんだ。それが元々、君が君たるゆえんなんだから。なぁ、希龍――いいや、黄龍」
槍が乱雑に振るわれた。竹筒が飛ばされ呪墨が舞台を濡らす。一歩後ずさった蓮安は、シロの眼差しに苛立ちが滲んでいるのを見てとり笑った。
「やはり真名を嫌っているな、お前は。まぁ幻影にシロと呼ばせているあたり、そんなことだろうと思ったがね」
「……黙れ」
「黙るものか。いいか? 君は誰の願いも叶えたくないんだ。だから誰も彼もが幸せになれるなどという、ふざけた匣庭が発生した。苦しみがなければ願いなぞ生まれないからな」
「そんな身勝手、あるはずがない。僕は皆のためを思って作ったんだ」
シロは声音に怒りを滲ませた。
「たかが数十年で生を終えるあなたには分からないでしょう、蓮安様。何百、何千と時を重ねても、外の世界の苦しみは絶えない。いくら願いを叶えても救われない。子供を願ったのと同じ口で、赤子を殺せと乞われる。こんなにも矛盾に満ちた願いがあふれているのは、外の世界がおかしいからだ。だから僕は、帰るべき場所を作ったんです。ここには苦しみもない。誰もが平等に幸せを手にできる」
「なら、君の作った匣庭に一度でも友人が訪ねてきてくれたか? え?」
シロの目が見開かれる。揺れる槍先を無造作につかみ、蓮安は一歩前へ踏み出した。
「誰もお前のもとには来なかっただろう。シロ君、それこそが答えだよ。君だって気づいているはずだ。気づいていながら、受け入れられなかった。だから君は友人の幻影を作った。匣庭を訪れる人間の願いを深く考えもせずに具現化してやった。だがね、いくら幸せを押しつけたところで、何も解決はしないぞ。これは全て幻だ。ここに籠もっている限り、お前の本当の望みは永遠に叶わない」
ばた、と槍先から蓮安の血がこぼれて床を濡らし、広間いっぱいに描かれた方円の最後の一画が完成する。夜闇色の淡い燐光が周囲からのぼる中、シロが怯えたような顔をして身動ぎした。
「何を、するんですか」
「知れたことを。匣庭を壊すのが私の目的だ」
「やめてください。あなたにはなんの害もないでしょう」
「そうだとも。私にはなんの害もない。こんな弱々しい匣庭なんてな」
「なら、」
「だが、残念。言ったろう? 生者の足を止めさせるだけの匣庭が、私はいっとう嫌いなんだ」
痛みをこらえ、蓮安はシロの胸元を掴んで背伸びをした。やめろと言いかけた彼の唇を、己のそれで塞いで黙らせる。
翡翠色の目を丸くして、シロがぽかんと口を開けた。間抜け面だ。だがまぁそっちのほうがよほど犬らしくて良い。蓮安はにやりと笑って、槍を突き放す。
『極夜に打つ、四色を染める 春嵐にて匣を開け、桜花紋』
軽やかに柏手を打つ。燐光がふいに淡い薄紅色に染まり、風にのって舞い上がる。シロがすがるように空へ手を伸ばしたが、その姿さえも春嵐はかき消していった。
*****
光に染まって消えていく匣庭を掴みそこねた。そうしてシロに残されたのは建物一つ、人一人存在しない無限に続く浅瀬だった。
寄せては返す夜色の水が、シロの足を洗う。夢で見続けた馴染みのある光景に、彼はなすすべなく座り込む。匣庭が終わってしまった。一片の欠片も残さず、ただの一つの慈悲もないままに。
望んだ世界は、もうどこにもない。ひどく苦しい気持ちのまま、彼は足元へ目を落とす。
水面には、朱塗りの柱と漆喰の壁に囲まれた部屋が映る。柔らかな敷物と贅を尽くして造られた調度品が空虚な灯火に照らされていた。そうして、優美な金細工の施された椅子に座るのはシロ自身だ。
蜂蜜色の髪から垣間見える翡翠色の目は冷え切っているが、それでも誰かの願いを叶えるために耳を傾けているのだろう。それが幸いをもたらすか否か、考えることもしないままに。
かすかに動いたシロの指先が、現実を映す水面を揺らす。あぁと呻いた彼はうずくまった。
お前は願いを叶えたくないのだろうと、蓮安は言い当てた。それは真実そのとおりだった。
いくら願いを叶えても、世界は一向に平和にならない。ある人が誰かの死を願えば、死んだ誰かの血縁は報復を望んで相手の不幸を願った。その繰り返しに厭いて、扱う水が穢れてしまったのはいつの頃からだったか。
けれどならば、自分はどうすればいいのか。
救いを乞うた龍に与えられたのは、願いを叶える力だけだ。自分がどうしたいかなんて、願う権利は与えられなかった。願いを叶えたくないと、役割を放り出すことだって出来なかった。そんなシロの葛藤を一番最初に見抜いたのが真武で、ならばいっそ人を滅ぼしてしまえと、彼はシロに願った。
できるはずがないと、シロは思ったのだ。なのにあっけなく、かの黒龍の願いは叶えられ、シロは人を滅ぼすに足る力を手に入れてしまった。
そんな己が、シロはひどく恐ろしい。
「……だから、匣庭を作ったんですよ」
シロはぽつりと言って、両手で顔を覆う。手のひらに、ざらりとした忌まわしい龍の鱗を感じて身震いする。いくつもの声が聞こえた。見知らぬ人間が願いを望む無数の声に混じって、幸せとはほど遠い友人たちの声が聞こえる。
人の願いは穢れているのだから、叶える価値もないと真武が怒りもあらわに吐き捨てた。
私は結局、あの人にとっての有象無象でしかないのとイチルが涙をこらえて声を震わせた。
こんな生まれでなければ、もっと幸せな世界があったでしょうとハイネが寂しげに呟いた。
そんな彼らにしかし、結局シロは何もしてやれなかった。
何もかもがひどく苦しくて悲しく、シロは息苦しさにまかせて頬に爪を立てた。匣庭が壊された以上、何を思っても無意味だ。そうと分かっていても、後悔は消えない。
どうやったら、自分は皆を幸せにしてやれただろう。
誰かを不幸にするというのなら、自分はもう誰の願いも叶えたくない。
本当に欲しかったのは、誰かを傷つけるような力でもない。
自分は。
「――なんだ。ちゃんと自分の願いに気づいているじゃないか」
陽気な蓮安の声に、シロは顔を跳ね上げる。
さざなみの満たす世界に彼女の姿はない。救いの光が差し込むことだってない。彼女の声は幻聴だった。その事に気づいて、シロは思わず笑った。ずいぶんと湿っぽい笑いだった。
「……なんで、最後の最後で、あなたなんだ」
傍若無人で、こっちの事情なんかお構いなしで、何かを思いやることだってしてくれないくせに。文句はいくつも浮かんだ。それでも少しだけ、息苦しさが楽になった。
シロはゆっくりと目を閉じる。寄せては返す水のさざなみは次第に遠ざかり、なにもかもが曖昧になっていく。
これで終わりだと、シロは思う。そして意識が途切れる寸前、彼は穢れていたはずの水面が、澄んだ夜色に変わっていたことをふと思い出す。