極星とメメント
「ふふん。一時はどうなることかと思ったが、意外となんとかなるものだな」
「いや、軽すぎるだろ」
あっけからんと笑う蓮安に、シロはがっくりと肩を落とした。
夜を迎えた墨水堂の縁側では、小さな燈籠がぽつんと灯されている。酒器と盃を一つずつのせた盆を床に置き、シロは蓮安の隣に腰をおろした。
待ってましたといわんばかりに奪われた盃へ酒を注ぎながら、シロはため息をつく。
「これでも色々と覚悟してたんですけど。別れとか、そういうの」
「いらんいらん、そういうのは。シロくんの愚痴なんか聞いてたら、せっかくの月見酒もまずくなるだろ」
「ちょっとくらい労いの言葉があってもいいと思うんですけどね?」
「わーすごいなー。シロくんは強くて頼りになるなー。えらいえらーい。あっ、酒はそれくらいで」
シロが半眼を向けるなか、蓮安は実に美味そうに酒をあおった。口元にこぼれた雫を指先でぬぐうさまは実に生き生きとしていて、日が落ちる前まで鴻鈞と戦っていたことが嘘のようだ。
夜葬の水月は人を滅ぼす黒槍で、切りつけた人間の命も、その人に関わる記録も記憶も世界から消してしまう。自分は確かにそれを振るったのだ。そのはずだ。たぶん、おそらく。妙な方向の自信のなさに複雑な面持ちをするシロの背中を、蓮安が上機嫌に叩いた。
「あんまり細かいことを気にするなよ。はげるぞ」
「余計なお世話です」
「イチルちゃんと社は?」
中庭のやわらかな夜闇を眺めながら、シロは肩をすくめた。
「イチルは鵬雲院に戻っているはずですよ。社さんは新しい符術がひらめいたとかで、藤色の紙を探しにいきました」
「こんな夜中に開いてる店なんざ無いだろう」
「なんでも鉄は熱いうちに打てだそうで。止めるのも面倒くさいでしょう。あの人の性格的に」
「元気なやつだなぁ。今日くらいは休んだっていいだろうに」
「それはまぁ、同感ですね。戦ってばかりでしたし」
「おまけに、間一髪な場面ばかりだった」
「先生がそれを言うんですか」
シロはじろりと蓮安を睨んだ。
「水で濡れているところに雷を落とすなんて、危ないからやめろって言いましたよね? 怪我する一歩手前だったんですが」
「なんだ、シロくん」ちびちびと酒を飲みながら、蓮安が両眉をひょいと上げる。「ちゃんと、機を狙ってやっただろう。君が無様にも妖魔にふっとばされてた時に」
「あのですね。援護っていうのは守るものであって、味方を危険にさらすものじゃないんですよ?」
「君に守りなんかいらんだろうさ」
「扱いが雑かよ」
酒器と盃を交換した。並々と注がれた酒にシロが口をつけるなか、蓮安がぶらりと足を揺らしながら夜空へ手を透かす。
「星が動いたな」
「暦のうえでは秋ですからね」
盃の中でゆらゆらと揺れる月を眺めながら、シロは深々と息をついた。
「終わりって、本当はこれくらい穏やかであるべきなんですよ。夜を一緒に見上げて、あんな事もあったねって笑いあって。戦い続きでお祭りさわぎみたいな終わりなんて、ちっとも情緒がない」
「なんだ、君らしい無難で陳腐な結末だな。だがね、シロくん。私はこれで良かったと思うよ。君がなんと言おうとね」
「先生らしいなぁ」
「君は違うのか?」
「まったく同じ気持ちですよ、もちろん」
「なら、なんの問題もない」
したり顔で頷いて、蓮安がシロの手から盃をさらった。あっという間に空になった杯を突き出され、シロはやれやれと笑いながら酒器を取り上げる。
再び酒を注ぐのを待つ間、蓮安は「これからどうするんだ」と尋ねた。
きっちり先と同じ分量だけ注いで、シロは「そうですね」と応じる。
「深灰を出て、旅してまわろうかと思うんですけど」
「あ、じゃあ海だな」
「海」
「そう。海だよ、海」
蓮安は酒をくいとあおったあと、すまし顔で言った。
「海はいいぞう、シロくん。寄せては返す波の音、やわらかく足元を包み込んでくれる白砂、美味い魚に焼麺をそろえて、漁師小屋からせしめた干物をつまむ……いやはや、酒が進むよなあ。清の爺に酒を見繕ってもらおうぜ。ほら、花火をした時に酒を選んだ店だよ」
「あのう、蓮安先生。随分と具体的な話ですけど、行ったことあるんですか?」
「いんや。全部想像」
「……道理で食べ物の妄想ばっかりなわけだ」
「む。なんだその、馬鹿にした目は」蓮安が唇を尖らせた。「じゃあ、君は海で何をするつもりなんだ」
シロは頬をかいた。書物で読んだだけの知識を引っ張り出しながら口を動かす。
「そりゃあ、ほら、蜜をかけた氷菓子を食べたりとか。浜辺で玉遊びというのも楽しそうですし、泳いでみるのもいいですよね」
「おいおい、塩の水なんだぞ? 肌がべたべたするからやめておきたまえ」
「蓮安先生は見てればいいじゃないですか。こっちは勝手に楽しんでますから」
「なんで君だけ楽しそうにしてるのを見てなきゃならん」
「えええ、我儘だなぁ」
「第一、君の妄想じゃあ日が沈んだ時にやることがなくなるだろ」
「散歩すればいいじゃないですか。月を眺めながら波の音を聞いて、どうでもいい話をするだけでも贅沢な時間ですよ」
「ははーん……さては、すきあらば告白しようという魂胆だな?」
「告……っ!?」
シロが思わず言葉に詰まれば、蓮安が空の盃を床に置いて、にやにやと笑った。
「なんだ、そういう話だろう? まったく、君もいい歳して青臭い子供なんだから」
「そういう話じゃないですってば! 風情の話をしてるんですよ、僕は!」
「どうだかなぁ。ふむ、しかしそれならそれで、心配だな。なんといっても君は、口づけ一つまともに出来ないんだから」
からかうような蓮安の言葉にむっとして、シロは盃を取り上げる。おやおや、という含み笑いを無視し、軽くなった酒器を傾けながらぶっきらぼうに返した。
「出来ますよ。失礼な」
「嘘だぁ。私からされてばっかりのくせに」
「されてばかりじゃないですし、一度きりですし、そもそも蓮安先生が突然なのが悪いんですし」
「シロくんったら、女々しい」
「蓮安先生が男心を分からなさすぎるんでしょうが。いいですか、何事にも心の準備というものが、」
「じゃあ、練習しとくか」
び、とシロは固まった。すっかり空になった酒器を奪った蓮安が、にんまりと笑いながら己の唇を人差し指で叩く。
「私はいつでもいいぞ。シロくんの好きな時にどうぞ」
いや、好きな時って――という言葉は、からかわれるのが分かりきっていたので、なんとか飲み込んだ。
シロは目をそらす。夜を迎えた中庭は静かだが、かえって落ち着かない気持ちになってしまう。
なんといっても、そういう気持ちに一欠片もなっていなかったのだから当然だ。
蓮安の容姿に問題があるというわけではない。自画自賛がすぎるが確かに見目は整っているし、そもそも自分は彼女の容姿に惹かれたわけでもないし、一緒にいれば楽しかった……というか、振り回されまくったうえに無理難題を押しつけられた記憶しかないわけだけれど。
待て待て。このままじゃあ、なんだか振り回されるのが好きと言ってるみたいじゃないか。いや、そんなわけないだろうと否定したところで、もう一度忍び笑いが聞こえて、考えるのが面倒になった。
たかが口づけ。
されど……いやされどじゃない。たかが、だ。たかが。
「蓮安先生、」
なかばやけくそに覚悟を決めて顔を上げたシロは、途中で言葉を切った。
縁側には空の酒器と杯がぽつんと置かれたまま、蓮安の姿はどこにもない。
シロはゆっくりと目を瞬かせた。つかの間の静寂の後、半開きの口でなんとか深く息を吐いて、「なんだそれ」と笑う。
「最後まで、突然じゃないですか」噛みしめるように、シロは言った。「本当、そういうところですよ。全然こっちの気持ちなんか分かってない。情緒がないんですよね。いくら顔がよくてもなぁ、やっぱり人を思いやる機微がないと。というか、蓮安先生はもうちょっと猫を被ったほうがいいんですよ。食いしん坊なところも、横暴なところも、たまには自制するくらいの心持ちのほうがよくて、痛っ」
ざっと夜風が吹いて、シロのすねに木の枝が当たった。
口を閉ざして、目を伏せる。そこでシロは、小さな紙切れが酒盃の下敷きになっていることに気がついた。
くしゃくしゃの紙を取り上げて皺を伸ばせば、『なんでもいうこと聞く券』という社のふざけた文字が見える。こんな宣伝紙もあったなぁ、と懐かしさと呆れ半分に思いながら、シロは何気なく紙を裏返した。
『一生私を忘れないこと』
細く流麗な蓮安の文字だった。
シロはもう一度笑おうとして、失敗する。
なんだそれ、ともう一度、今度は震える声で呟く。そんな言葉しか出てこない自分にほとほと呆れたが、そんな感想しか浮かばせない彼女の行動にだって原因はあるはずだ。
だって、一生忘れないこと、なんて。
「……忘れるわけないじゃないですか。蓮安先生みたいなひとは、どこにもいないんですから」
不格好に笑った拍子に落ちた涙が触れる前に、皺だらけの紙切れは淡い夜色の光となって指先からこぼれる。
その光を追いかけるように、シロはゆっくりと立ち上がった。
中庭も縁側も、主を失った匣庭がほどけて、一つずつ優しい光に還りはじめている。夜に散らした銀星の欠片のごとき灯火は、古木の周りを遊ぶように漂った。
夜明けを迎える頃には全てが夢と消えるだろう。優しい夢に。
けれど、遺るものだって確かにあるのだ。世界中の記録も、人々の記憶も、なくなってしまったとしても。
光に葉を揺らす木――かつて一緒に虹を埋めた古木に額をあて、シロは目を閉じた。
「僕は、旅をしますよ。シロという名前を持って。それこそが、あなたが生きた証なんですから」
だから、ありがとうございます。そっと呟けば、優しい夜風が光を一斉に空へとさらっていく。
それはいつしか淡紅色の桜となって、はらりはらりと舞い始めた。匣庭の見せる最後の春は、穏やかな花吹雪にてシロの行く先を祝福する。
あの日、あなたは名前をくれた。
それは呪いだ。春嵐のごとく駆け抜けていったあなたが遺した、唯一無二の。
それでも何よりもかけがえのない、たったひとつの。
<了>




