暁天飛翔(上)
夜光花の灯る中庭で、あなたが穏やかな笑みとともに佇んでいる。静かな夜をあなたと共に過ごすのが好きで、それはきっと、あなたにこそ冬の炉端のような暖かさがあるからで。
それを取り戻すためならば、なにをすることも厭わぬと思ったのだ。
*****
真武の振るった半月刀は、水槍で防がれた。
黄龍と視線が交錯する。水槍から削り取られた水が宙に舞う。そして二匹の龍は同時に命じた。
『驟雨の砕刃』
雫が音を立てて凍りついた。主導権を奪ったのは真武のほうだ。無数の氷の刃が黄龍を襲い、彼は顔を歪めて飛びすさる。
真武はすかさず間合いを詰めた。唐服の裾を風になびかせて、一合、二合とさらに打ちあう。その度に、黄龍の扱う水槍が削れ、真武の神気に触れて氷となった。
鵬雲院の中庭は、すでに冬を迎えている。差し込む陽射しだけは真夏のそれだ。けれど、庭を流れる川は凍りつき、草木の表面はびっしりと霜に覆われていた。二人の吐く息は白い。凍える寒さは真武にとっては心地が良いが、黄龍にとっては苦痛でしかないだろう。
「愚かなことだ」じりじりと後退する黄龍に向かって、真武は声をかけた。「水の奪いあいで、叔父上が俺に勝てるはずがない。人の幸せを願う龍と、人を罰する龍。どちらが攻め手に適しているかなど、考えるまでもなく明らかでしょう」
「はは。体格的には僕のほうが有利のはずなんだけれどね」
「心根の違いですよ。叔父上は他者に甘すぎる」
「さぁ、どうかな。真武、君は僕のことを買いかぶりすぎているのかもしれないよ。これでも演技は得意なほうだからね」
「面白くもない冗談です」
真武が振り下ろした半月刀の刃を、黄龍は槍の柄で滑らせるようにして退けた。勢いを殺さず回される槍を横目に見ながら、真武は手のひらを宙にかざして呟く。
『氷鏡の雪』
磨き抜かれた氷の盾が槍を受け止める。黄龍はなおも槍を押し込もうとしたが、不意に痛みをこらえるように顔を歪めた。動きが止まる。その一瞬をついて、真武は水槍の柄を無造作に掴む。
『凍月の息吹』
短く命じて後退する。間をおかずして、凍りついた槍が内側から爆ぜた。
あちこちから血を流しながら、黄龍が地面に倒れ込む。喉元へ半月刀を突きつけた真武は、刃を濡らす水滴が黒ずんでいるのに気づいて眉をひそめた。
「穢れている」
「すまないね」ややあって、黄龍は額に脂汗を浮かべながら返した。「僕の水が汚してしまったようだ。せっかくの美しい剣なのに……あぁ、でも、よかった。君の神気に触れれば、もとに戻るんだね」
剣から落ちた雫が純白の雪華になって散る。その様子をほっとしたように眺めている黄龍は実に呑気で、真武は無性に腹が立った。
切っ先が顎に触れる。口を閉じた黄龍へ、真武は低い声で言った。
「他人事のように言わないで下さい、叔父上。人間の穢れた願いが、あなたを蝕んでいるんだ。苦しみも痛みもあるでしょう。早く諦めて、体を休めるべきです」
「それは出来ない相談だ。蓮安先生を助けにいかなくてはならないからね」
「殺すつもりなのに、なにが助けるですか。叔父上、何度も言うようですが、俺達はあの女を生かそうとしているのですよ。あなたがここで待ってさえいれば、すべては滞りなく幸いのうちに終わるのです」
「でもそこには、あの人の幸せはないだろう? ならば僕が止まる理由にはならない」
黄龍が笑った。その手のひらが地面に触れ、頬の黒ずんだ龍鱗が淡く輝く。
『白夜の灰雨』
真武は目を見開いた。
風もないのに周囲の草木がざわりと音を立てて揺れ、次いで純白の灰となって枯れ落ちる。草木から引き抜かれたらしい水が一斉に雫となって宙に浮かぶ。水はやはり黒ずんでいた。穢れたそれはしかし、黄龍の支配下にあることの証でもある。
命を殺して水を得たのだ。あの優しさの塊でしかない黄龍がそれをやった。信じられない思いが先だったせいで、真武の判断は少しだけ遅れた。
黄龍の合図とともに、雨滴が放たれた矢のように一斉に降り注ぐ。
我に返った真武は、眼前に手をかざして氷の盾を喚ぶ。雨滴が氷を削った。がつんという鈍い音ともに水槍が振り下ろされたのはその直後だ。
雨で脆くなった氷が砕ける。真武は舌打ちとともに半月刀を突き出し、穢れた水槍を受け止めた。
草木が命を散らして産まれた灰と、春知らぬ凍える雪華が混じりあって吹き荒れる。
激しく刃を交わすといえば聞こえは良いが、真武が優位なのは変わらない。黄龍の動きは鈍く、ほとんどが守ってばかりだ。たまに攻め手に転じたとしても続かない。頬を覆う龍鱗は穢れで黒ずみ、扱う水は少しずつ雪華に変わって数を減らし、ここまでで負ったのであろう傷からはとめどなく血がこぼれている。
それなのに、黄龍は動きを止めないのだった。若草を映した翡翠色の目に宿る光の強さも変わらない。たかがそんなもので勝てるはずがないというのに。
「……っ、いい加減にしてください」真武は半月刀を振るう手を止めぬまま、耐えきれなくなって叫んだ。「叔父上、あなたでは俺に勝てない! どうせ結末は変わらぬのです!」
「どうかな、真武! そんなの、やってみないと分からないだろう!?」
「やらずとも、明らかではないですか!」
槍で払われた勢いを利用して、真武は黄龍の脇腹を蹴りつけた。態勢がくずれた男に向かって刃を下ろす。警告の一撃だ。眼前で止めれば傷にもならない。少なくとも真武はそのつもりだった。なのに黄龍は、左手の甲で刃を受け止めた。
鮮血が散る。肉を断つ嫌な感覚がある。元より血を流していた場所だ。黄龍は痛みに耐えるかのように体を震わせた。それでもやっぱり、後ろには引かなかった。
真武は刃を引くことも出来ぬまま、唇を震わせる。
「……どうして、ですか」
どうして、そこまで己を犠牲にしようとするのだ。
どうして、たかが人間の願いを叶えようとする。
そこにあなたの幸せはない。心優しいあなたはきっと後悔をするに違いない。そうやってまた一人で傷つくなんて、あんまりだ。
「もう、いいではないですか。お願いです、叔父上。これ以上はやめてください。あの女を生かして、あなたが幸せになる選択肢は存在するのです。そう願うことを恐れるというのならば、俺が願ってさしあげます。あのときのように。だから」
「それじゃあ、駄目なんだよ」
黄龍が絞り出すような声で答えて、刃を掴んだ。翡翠色の瞳と目があう。
そこに灯る光は記憶と違わず優しく、けれど真武の知らない強い光を宿していて、だからこそ冬の龍は目を奪われる。
「真武、君が僕の幸いを望んで願ってくれているように、僕はあの人の幸せのために願いを叶えたいんだ。黄龍としてじゃない、あの人が名前をくれたシロとして」
「……身勝手な願いじゃないですか」
「願いとは身勝手なものだよ。あの人だけじゃない。君の願いも、僕の願いもね」黄龍は穏やかに言った。「真武。本当はね、誰の願いも間違ってはいないんだ。でも、全ての願いが両立することも決してない。だから僕たちは自分の手で選択しなきゃいけない。叶ったからこそ産まれた喜びも、叶わなかったからこそ感じた後悔も全部背負って。それが願いとともに生きるということなんだ」
黄龍がそっと刃を押した。真武と彼の間に半歩にも満たない距離が出来る。
その先で、黄龍は微笑んだ。それは夜光花の灯る中庭で向けてくれた笑顔と、全く同じだった。
「だから、君の手はいらない。ありがとう。そして、すまない、真武。でももう、僕の願いと君の願いは分かたれたんだ」
真白の灰と、穢れた水と、鮮血と。すべてを背負って、黄龍は詠う。
『水華の茨』
*****
ハイネは、胸元でぱきんと硝子が割れるような音を聞く。空に浮かぶ赤黒い鳥籠に狙いを定め、イチルと赤紫の少女が旅立ったのを見送った後のことだ。
真夏の陽射しが降り注ぐ深灰の大通りは、いまや妖魔であふれていた。十無が真白の子供を祓うところまでは良かったのだ。けれど彼らが身につけていた珠が砕けて、そこからいくつも妖魔が姿を現した。
「あぁもうキリがないのだねェ! 一ツ目クン、もっとこう、ばばっと! ざくっと! そう、そうだ!」
社の大雑把な指示を受けて、甲冑姿の一ツ目が牛頭の蜘蛛を太刀で斬り伏せた。粘ついた紫色の血飛沫をもろにかぶって社が呻くなか、ハイネは彼の後ろで水花の飾りを取り出す。
黄龍から受け取った胸飾りは、割れた音がしたわりに傷一つない。だが、その表面には墨を一滴落としたように、黒い揺らぎが浮かんでいる。
もっとよく見ようと、ハイネが顔を近づけた時だった。ばしゃんと音を立てて花の飾りが水に戻る。それは地面に落ちるのを待たず身の丈ほどもある水泡となって、ハイネを包んだ。
「っ……!?」
彼女は息を呑んだ。文字通りだ。中は水で満たされていて息などできようはずもない。水泡の向こうで社が驚いたような顔をして叫んでいるが、それもくぐもっている。
ハイネはなんとか逃れようと泡を内側から押して爪を立てるが、柔らかな膜はびくともしない。そのうち息が続かなくなって、彼女の口からあぶくがこぼれた。
一体何故と、彼女は息苦しさの狭間で思う。これを君に、と言った時の黄龍の穏やかな顔を思い出した。けれど、その先を考える前に限界が来る。
息ができない。耳鳴りがして視界が暗くなる。その狭間で、冬の龍の背中を見た。人を罰する龍。長く続く冬のように、他者にも己にも厳しい人。それでも人々を寒さから遠ざける炉端のように、そっと寄り添う優しさを持っている彼。
「っ、真武……!」
最後の息をこぼして、ハイネは大切な龍の名前を呼ぶ。
水が凍りつき、涼やかな音を響かせて割れた。急に入り込んできた空気に、ハイネは咳き込む。体がぐらりとかしいだが、たくましい腕に抱きとめられた。
顔を上げたハイネは、真武と目があってほっと微笑んだ。
「ありがとう。来てくださったのね」
「……叔父上の術だ」
「真武?」
真武はぐっと唇を引き結んだ。相変わらず冷たい声のまま、なのにどこか寄る辺ない子供のように泣きそうな顔でぽつぽつと言う。
「俺を引き離すためだけに、叔父上がお前を狙った。お前が俺の名を呼べば、俺は行かざるをえないから」
「……黄龍は私を罠にはめたのね」
「っ、叔父上はそんな卑怯な真似をする方ではない」
反論は予想通りだったが、ひどく弱々しい。ハイネはそっと龍を抱きしめた。
「分かっているわ、真武。あの方は優しいもの」
「だが、お前の命を危険にさらした」
「秤にかけたのでしょう。私たちと、あの方が見つけた大切な人と。それで選択なされたのね」
「怒っていないのか」
「ふふ。そうねえ、文句の一つでも言おうかしらね。次に会った時に」
「……次に」ぽつぽつと続いていた真武の言葉が少しの間だけ途切れた。「次なんて、あるのか。叔父上は俺達のことを嫌いになったんじゃないのか。だから、こんな」
真武の言葉はしりすぼみに消え、きゅっとハイネの背中に回れた手に力がこもる。
あぁまったくこの龍は、人よりもよほど長く生きているのに、ちっとも別れに慣れていないのだ。ハイネはほんの少しだけ呆れて、けれどその優しさがやっぱり愛おしいと思って、彼の背中をそっと叩く。
「大丈夫よ。あの人が笑ってしまうくらいお人好しなのは、あなたもよく知るところでしょう?」
それが証拠に、真武の体には怪我らしい一つないのだから。
真武はおずおずと頷いて、ハイネの体をぎゅっと抱きしめた。まるで大きな子供ね、とハイネが苦笑したところで、「ぬあっ、ちょっと待つのだがねェ!」という騒がしい叫び声が一つ。
二人のすぐ近くに、切り落とされた妖魔の頭が吹っ飛んできた。ハイネはすんでのところで真武の体に囲われるが、びしゃりと降りかかる赤黒い血までは避けきれない。
頭から血をかぶった真武が、極寒の声で呻いた。
「……お前……どういうつもりだ……」
「い、いやいやいや!?」社と一ツ目がそろって、ぶんぶんと首を横に振った。「吾輩たちに落ち度はないのだがねェ!? これでもお二人さんの邪魔をしないように、健気に真摯に真心こめてがんばぐえ、」
額に特大の氷塊が直撃し、社はもんどり打って倒れた。一ツ目が慌てて介抱にまわるなか、真武が鼻を鳴らす。
ハイネはさすがに気の毒になって、真武の袖を引いた。
「ねえ、あまり乱暴はしないでください。社さんは私を助けてくださったのよ」
「あんなやつに守られずとも、俺がいるから十分だろう」
「そういう意味ではないのだけれど」
「そこの男と一緒に下がっていろ。目ざりな妖魔を殺す」
「真武」
名前を呼べば、冬の龍は立ち止まって振り返った。その顔はすっかりいつもの仏頂面を取り戻していて、ハイネはほっとしながら微笑む。
「どうか、怪我はなさらないでね」
「心配されるまでもない」真武は獰猛に笑って、妖魔のほうを向く。「灰音、俺はお前の龍だ。ならばお前が恥じるような戦いはすまいよ」
鈴を鳴らすような音がして、周囲の空気が一気に凍る。家々を銀の霜が覆い尽くす。そうして雪華舞う中、冬を従えた真武は半月刀を抜き放った。




