薄明幻夢(下)
一月半ぶりの深灰西区は、腹がたつほど今までと変わらぬ景色だった。
自身の匣庭の力で創った勾欄の最上階で、蓮安はこつこつと煙管で卓の端を叩く。
優美な透かしの紋様がはめ込まれた窓の向こうでは、古びた街並みが季節外れの夏の夕日に照らされている。どこか穏やかで満たされた世界のようにも見えるあたり、さすがは全ての願いが叶う翡翠色の楽園ともいうべきか。
皮肉めいた気持ちで思いながら、蓮安は背もたれにだらりと体を預けた。
「おい、一蓮安!」
騒がしい声に戸口を見やった蓮安は顔をしかめた。茶杯を運んできた十無のかたわらに、おせっかいという言葉を顔いっぱいに貼りつけた社がいる。
「おい十無。そいつはここに入れるなって言っただろう」
「ふふ、ごめんね蓮安先生。どうしてもと駄々をこねて鬱陶しかったものだから」
「ええい、吾輩は子供ではないのであるよ」ずかずかと歩み寄った社は、両腕を組んで蓮安を見下ろす。「いったいどういうことなのだがね、一蓮安。この宣伝紙は」
卓に叩きつけられたのは上質な唐紙に、蓮安は肩をすくめた。
「白狼河北音書理断《長らく夫の頼りなく》、丹鳳城南秋夜長《一人寂しい夜を過ごしている》――市井で流行っている夜を誘う文句さ。なかなか洒落ているだろう」
「不特定多数に向けて配るようなものじゃないのだねェ。おかげで、妙な男が朝から店の前をうろうろしてるのだよ」
「うまく捌いてくれてるだろう、十無が。なぁ」
「勿論だよ、先生」十無はおっとりと頷きつつ、箪笥から新しい夜色の唐服を取り出した。「早速あなたにお目通り願いたいという猛者もいたけれどね」
「夜になったらな」
「ええい、待て待て待て!」社が再び口を挟んだ。「若い年頃の娘が、そう簡単に体を売っちゃあいけんのだよ!」
「百年前に死んでる人間に老いも若いもあるか。処女でもないぞ、私は」
「そういうことを言いたいんじゃあないのだがね! 一蓮安、君にはシロくんがいる、ぶほっ」
「なんであいつの名前が出てくるんだ」
蓮安は薄手の上着を社の顔に投げつけ、瀟洒なついたての向こうに移動した。夜着の帯をするりと抜いて衣を落とし、温かい湯をためた木桶から手ぬぐいを引き上げて古傷だらけの体を拭く。
だらだらと身支度を終えてから顔を出せば、社の姿はなかった。卓を片付けていた十無がおっとりと笑う。
「黒色眼鏡のおじさんなら、店のほうに行ったよ。文句をたっぷり言いながら」
「……文句があるなら出ていけばいいのにな」
「面倒見が良い、ということなのかもしれないね」
「お節介の間違いだろう」
蓮安はため息をついて椅子に腰掛けた。心得たように十無が髪に櫛をとおして、かんざしでまとめていく。
茜に染まる街並みを眺めながら、蓮安は足を組んだ。十無の苦笑が聞こえる。
「ここからの眺めが気に入らないんだね、蓮安先生」
「当然だ。翡翠色の楽園だなんて、薄っぺらい偽善で語られる土地だぞ、ここは。性にあわん」
「どんな願いでも叶う理想の土地でしょう?」
「皮肉だな。楽園で願いが叶った者の末路は知っているだろう」
「ある日突然、楽園の外に追い出され、叶えられたはずの願いが幻と消える。追放者は二度と楽園には戻れない」
「そうさ。それでも諦めきれないから、楽園の外はひどい有様だ。追放されたばかりの人間の身ぐるみをはごうとしたり、その一部を切り取って楽園に近づけば戻れるなんていう噂もあるらしい。害しか産まない迷惑な匣庭だよ、ここは」
「それでも先生は戻ってきた」
「シロくんは、必要な手駒だからな」
「先生の匣庭を終わらせるためにね」
「お前もだぞ、十無。あとは姫子もだがね」
「そして赤紫のお姉さんを動かすには、義足のお姉さんが必要……そう考えると、黒色眼鏡のおじさんの役目は本当にないんだねぇ」
「だから、社は出ていっていいんだ」
蓮安はつま先を揺らして、十無を見上げた。
「だが、お前は最後まで私に付き合ってもらう。申し訳ないが」
十無は一瞬きょとんとしたあと、「申し訳ないだなんて」と穏やかに笑んだ。藤色の髪の式神は、蓮安の足元にひざまずいて足の甲に額をつける。
「この身は、あなた様によって始まったもの。紙のひとかけらが灰になって消えるその時まで、どこまでもお仕えいたしますとも」
蓮安はゆっくりとまばたきしたあと、頷いて立ち上がった。十無を引き連れ、部屋を出る。
小料理屋と小劇場を兼ねている勾欄は、食事と香の匂いの混じった薄暗い空気に包まれていた。ぽつぽつと灯された灯籠の明かりのもと、階下では卓を挟んだ客たちが談笑にも灰色どころから真っ黒な取引にも花を咲かせている。
そして中央の小舞台に、演者の姿はない。
「――懐かしいなぁ、僕たちはここで出会ったんですよ」
蓮安は立ち止まった。擬宝珠と透かしに彩られた手すりに身を預けて、蜂蜜色の髪の男がひらひらと手を振っている。
「お久しぶりですね、蓮安」
「様か、先生をつけたまえ。黄龍」
そこで蓮安は、彼の背後に黒髪を一つくくりにした少年が控えているのに気がついた。冬夜の深緑を思わせる翡翠色の目は剣呑に細められていたが、今のところは動く気配がない。
蓮安は目を細める。
「まさかこんなに早く会えるとは思わなかったぜ。冬の龍ともども、訪ねてきてくれるなんてな」
「嫌だな。こんな宣伝紙を目にしたら、居てもたっても居られないでしょう?」
男の指先につままれた宣伝紙が、音もなく凍りついて砕けた。蓮安が眉をひそめるなか、男は穏やかに言葉を続ける。
「可愛らしい人だ。思い出の店を再現して、恋の歌を綴る。それほど寂しいなら、僕のところに帰ってくればいいのに。あぁ、決して責めているわけではありませんよ? それができない不器用さも含めて、実に人間らしい愛らしさなのですから。だからこそ、こうして僕は迎えにきた」
「そうか」
「そうですとも。だからさぁ、帰りましょう。あなたが生きることのできる世界へ」
男が手を差し出した。それをじっと見つめた後、蓮安は手を払う。
頬に龍鱗を浮かべた男が、おや、と意外そうな顔をした。それに少しばかり胸がすいて、蓮安は喉を鳴らして笑う。
「私が君を想っている? 寂しいから出会いの場所を再現した? っはは! 本気でそう思っているなら、君は存外、乙女で能天気で阿呆だな」
「違うんですか?」
「その質問も能無しだね、黄龍よ」蓮安は嫣然と一笑した。「自惚れるなよ。私がわざわざ勾欄を再現してやったのは当てつけだ。なにせ、君は愚かにもまた匣庭を創った。私を怒らせるには十分すぎる理由だ」
蓮安は後ろ手に指を鳴らした。あらかじめ仕込んであった呪墨が鎖のように黄龍の体に絡みつく。
「十無、行け」
「叔父上!」
蓮安の合図と、黄龍の後ろに控えていた黒髪の少年が前へ躍り出るのは同時だ。
少年は腰に佩いていた半月刀を抜き、十無に向かって切り上げる。藤色の髪が一房舞った。それでも十無は少年の唐服の裾をつかみ、欄干から一階へと身を躍らせる。
「残念だねえ、冬の龍のお兄さん」常と変わらぬ笑みを浮かべて、十無は顔を歪める少年――玄帝にささやく。「蓮安先生の狙いは、最初からあなただよ」
「戯言を。我ら龍が一介の術者に捕縛されることなど」
「その余裕がお前を殺すのさ」
蓮安は玄帝に向かって笑い、柏手を打った。
『――変転しろ』
呪墨を扱うための祝詞ではなく、匣庭の世界を変化させるための命令を口にする。
人々で賑わう勾欄の景色が大きく揺らぎ、黒ぐろとした大穴が現れた。その中には、粗末な身なりをした人影の姿がぽつぽつとある。
黄龍と玄帝の顔が強張った。「察しがいい」と蓮安は笑う。
「彼らの犯した罪の声が聞こえるか? 今日のために十無が厳選したのさ。人殺し、強盗、強姦。人には言えない罪を犯した追放者は、楽園の外にごまんといる。そして玄帝。お前も龍であるというなら、人を罰するという誓約からは逃れられまいよ」
せいぜい楽しんできてくれたまえ。蓮安のその言葉を合図に、十無と玄帝を飲み込んだ大穴が口を閉じて消えた。
人の気配の絶えた勾欄の景色が戻ってくる。ちり、と凍てつく冷気が肌をさし、蓮安は視線を向けた。
呪墨によって描かれた方円が、無数の水刃を防いでいる。その向こうで、拘束を引きちぎった黄龍が「おかしいな」と心底不思議そうな顔で尋ねた。
「罪人は僕の匣庭に入り込まないようにしたんですが。一体どういうからくりなんでしょう?」
「それもまた、驕りだな」蓮安は肩をすくめた。「深灰西区はたしかに君の匣庭の中だ。だが、この勾欄だけは私が創った」
「あぁ、なるほど。だから、規則を決める権限もあなたのほうにある、と。勉強になります。さすがは百年も匣庭を維持していただけのことはある」
「やけに落ち着いているじゃあないか」
「真武なら、なんとかしてくれるでしょう。彼は僕と違って正しく龍ですので。問題は僕たちの決着がそれよりも早く着くか、ということですが――”変転しろ”」
黄龍が穏やかに命じたと同時、ぱきりと硝子にひびの入るような音がした。
周囲の景色が一瞬揺らぎ形をなす。再びの世界は、正しく先と同じ勾欄だった。二階ではなく、がらんとした演劇の舞台の上に移動した事を除けば、見た目の変化はどこにもない。
だが、異質な匣庭の気配を感じ、蓮安は引きつった笑みを浮かべる。
「……喧嘩売ってるのか」
「嫌だな。今度は僕が、匣庭を上書きしただけですよ」頬にうっすらと鱗を浮かべた黄龍はにこりと微笑んだ。「規則を決める権限は匣庭を創った方にある。そうでしょう?」
「出来の良い生徒でなによりだよ」
「お褒めに預かり光栄です」
皮肉にも笑顔で返し、黄龍は宙空に手をかざして水槍を掴んだ。
「蓮安、せっかくですから勝負をしましょう。負けたほうが勝ったほうの言うことをなんでも一つ聞くということで」
「悠長だね」
「あなたも僕も、後悔なく選択できたほうがいいでしょう」
言葉こそ丁寧だが、押しつけがましい善意まみれの神気は出会った頃とまったく同じだ。
目の前の男は、正しく匣庭の主で、龍なのだった。自分と過ごした日々のことなど、彼の中では欠片も残っていないらしい。
蓮安は舌打ちした。
「本当に君は胸糞悪いな」呪墨を込めた竹筒を手に取りながら、彼女は龍を睨んだ。「まぁいいさ。いつもどおり、私が勝って君が負ける。それでこのくだらん戦いは終いだ」




