一 蓮安
深灰は、燃えていた。炎にまかれて全てが灰になった。熱い風にあおられて全てが舞い散る様は、散り際の桜に他ならなかった。死の匂いが濃い。そんなところまで含めて。
息をしようとして、失敗する。咳き込む代わりに出てきたのは血の塊で、泥を塗り込めたように体は重い。痛いとは思わなかった。そんなものはとっくに通り越していて、今はただただ寒いだけだった。
けれど、それでよかったのだ。
名も知らぬ妖魔を討つため、禁術を使った。悲観なんてなかった。強がりでもなく、嘘でもなく、本心から自分に出来るのはそれだけだと思ったし、それが誇らしくもあったのだ。
妖魔はすぐには動きを止めず、抵抗するかのように自分の体を切り裂いた。禁術の反動で胃がむかついたから、遠慮なく吐けばそこには血が混じっていた。その間に体を地面に叩きつけられ、泥まみれの中で妖魔の爪が無遠慮に体をまさぐった。それでも、ざまあみろと思ったのだ。声だって出せなかったけれど、うっすらと笑ってやった。妖魔の体が保たないことは分かっていたし、自分は望んで禁術を使う選択をしたわけで、後悔なんてどこにもなかった。
心のままに、自分は望む生き方を貫いた。きっと師父ならば理解してくれると思った。それだけで自分の全てに価値があると思えた。
なのに今、自分を見下ろす師父は蒼白な顔をしている。
燃える深灰を背景に、妖魔が血まみれの師父を襟首から掴んでぶら下げている。四肢があるべき場所には何もなく、止めどなく血が噴き出していた。痛いはずだ。実際、顔は歪んでいた。けれどそれが自身の痛みゆえでないことは、すぐに分かった。
「あぁ……どうして、こんなことに……」
泣かないで、師父。私のために悲しまないで。
「可哀想に。裏切られて、傷つけられて」
違う、違うよ。裏切られたわけじゃない。私は自分で残る決断をしたんだ。傷だって覚悟の上だ。後悔なんてどこにもない。
「でも大丈夫だ。もう大丈夫。こんな不甲斐ない親だが、お前を生かすことくらいはできる」
やめてよ、師父。自分を貶めないで。あなたは不甲斐なくなんてなかった。あなたの生き方は、まさに私の生き方の指針そのものだった。誰かのために傷を負うこともいとわない、何を言われても前を向く、その生き方は憧れそのものだった。
なのに、ねぇ、何をしようとしているの。式たちはどこにいったの。まるで血で紋を描くように、妖魔があなたを運んでいるのは何故なの。それを阻もうとも、止めようともしないのは何故。どうして妖魔の話に耳を傾けているの。慈悲深き龍に願うこと、ここには死にかけの願いがたくさんある、ならばどの体で生かしたって問題はない。なんなの、一体何を話しているの。
ねぇ、師父。妖魔の話なんて聞かないで。そうじゃないでしょう、だって、あなたは言ったじゃないか。自分の望むように生きなさいって。私は後悔なんてない。そうでしょう? そのことはちゃんと分かるでしょう? 妖魔なんかより、私と師父のほうが、ずっと長く一緒に暮らしてきたんだから。血はつながっていないけれど、私はあなたの娘なんだから。あなたは私の自慢の父親なんだから。
だから、ねぇ、お願い。師父、ととさま。ねぇ。
「蓮安……蓮安、どうか生きて、当たり前の幸せな人生を送っておくれ」
やめて、とかすれた声で呟いた。けれど不意に真っ黒な何かが口の中に入り込んできて、その言葉は悲鳴に変わってしまった。
真っ黒な何かは冷たくて淀んでいて、むき出しの願いだった。たくさんの声が聞こえる。隣家の口うるさい老婆の声、こまっしゃくれた盧家の小僧の声、薬師のじいさんの声と、お産を控えた二軒先の若い娘の声。たくさんの声が入り混じって得体が知れない塊になって、泣き叫びながら叫んでいる。生きたいと、死にたくないと。怨嗟が渦巻き、それはたやすく思考を犯して、塗りつぶしていく。
生きたくなんてないのに生かされる。しびれた感覚が戻って、全身を引き裂くような痛みが戻って、不自然に心臓が脈打って、悲鳴を上げて、のたうち回った。ばらばらに砕けて壊れた体を、形が似ているからと乱暴に押しつけられて繋ぎ合わされる。見知らぬ生への渇望が、願いが、濡れた蛇のように体を這いずり回って、見つけた傷を適当に塞いで、生きたいという願いがまた入り込んで、生きたいと、生きねばと、生きることだと、無数の鳴り止まない声がべたべたと思考を撫でて、怖気がして、逃げようとして、はねのけようとして、足を取られてももがいて、やめてくれと懇願して、なのに幾つも何度も生きたいという言葉を浴びせられて、耐えられなかった。
もがくのをやめれば、底知れない闇に落ちていく。揺らぐ視界に星が見えた。辺り一面が炎の海なのに、夜天の頂きで輝く光は冴え冴えとしていて、泣きたくなった。
違う、違うんだ。師父。たしかに生きていられるならそうしたかったよ。でも、後悔だってないんだよ。だって、あなたの示してくれた生き方じゃないか、これは。私がそう在りたいと望んだ生き方だったんだ。これは。なのに。
どうしてと思う。それもやっぱり言葉にならなくて、極星を掴みそこねた指先が地面に落ちた。
どうしてだなんて、馬鹿げた話だ。自分の生き方を誰かに認めてもらうことは難しい。たったそれだけの簡単なことだったというのに。
*****
目覚めはすっきりとしていた。半壊の板間で身を起こした蓮安はぐるりと右肩を回す。明け方近いのだろう、うっすらと白み始めた空気のなかで目を凝らせば、傷はすでにふさがっている。
大した驚きもなく、まぁこんなものか、と手を何度か開け閉めしたところで、静かな声をかけられた。
「傷、大丈夫なんですか」
シロだった。掛布団の端に触れるか触れないかという場所に正座をした彼は、夜闇のなかでもすぐに分かるほど顔色が悪い。
ずいぶんとまぁ生真面目なことだ。相変わらず。呆れ笑いをしながら、蓮安はそばに置いてあった酒器に手を伸ばした。
「ないよ、傷なんて」
「……でも、あんなに血が出て、」
「匣庭の主の体なんて、所詮は幻さ。限りなく人間らしくあることも、人間らしからぬ速さで傷を塞ぐことも好きなようにできる。望むのなら、子供にだって」盃をあおって、蓮安はにやっと笑った。「無論、幼女の私はとっても可愛いぞう。シロくんの心を奪っちゃうかもしれんが、見てみるか?」
「……あの声は、なんなんですか」
中庭のどこかで鳥が羽ばたき、どこまでも平坦なシロの返事がある。
蓮安はため息をついた。
「つまらんなぁ。冗談の一つも上手に返せないなんて。なんだか私が滑ったみたいじゃないか」
「先生、真面目に答えてください」
「呪いだよ」
皮肉を込めて言いながら、蓮安は酒器を盃へ向かって傾けた。
「百年前、深灰は大火に襲われた。原因は一匹の妖魔だった。半人前の術士は禁術を使って妖魔に立ち向かったが返り討ちにあった。死んだ術士を、彼女の養父は放っておけなかった。だから火事にまかれて死にかけていた人間の願いすべてを娘に詰め込んで、彼女を生かした。ご丁寧にも彼は、夏になるたびに式神に深灰中の願いを集めさせて、おくりつけてくるのさ。そうやって目減りした分の願いを継ぎ足す。彼にとっての呪いをね」
酒器を振れば最後の一滴が盃に水面を産む。それを見送って、蓮安は小さく笑った。
「あれは随分とおぞましくてうるさかったろう? すまないな。君に願いの声が届かないように、普段はきちんと手綱を握っているんだがね。まぁ、安心したまえよ。もうあんなヘマはしないさ」
「ヘマ、なんて」
「それよりさぁ、お腹が空いたな。これを飲んだら十無たちを探しに行こうぜ。まだ食材が残ってるなら、なにか作ってくれるかもしれない」
「馬鹿言わないでください。そんなことやってる場合じゃないでしょう」
「どうして?」
視界の端で、シロがぎゅっと拳を握った。
「さっきまで子どもたちに襲われてたじゃないですか」
「追い払っただろう、それは」
「また現れるかもしれない」
「それはないな。師父の作った式神は全部で九つ、新しく作るのには時間がかかる。さっき相手したのでちょうど九つ目だ」
「でも、先生は病み上がりだ」
「傷はないと言ったろう? 当然、痛みだってありゃしないさ」
「あなたは良くても、僕たちがそんな気分になれない」
「構わんよ。とりあえず一人で飲んでいるから、気が向いた時にでも声をかけてくれればいい」
「……気が向いた時に、なんて」
脈絡なく繋がれていた否定の言葉がふつと途切れた。酒盃を傾けながら見やった先で、顔をうつむけたシロが絞り出すように呟く。
「どうして、そんなことを言うんですか。気なんて、向くわけないじゃないですか……」
「ほう?」
「酒なんて、飲めるわけがない。まして、あなたを殺すことだって……そんなの……」
「できるさ。人間を滅ぼす力とは、そういうものだろう? 対象者の人間を確実に殺す。そこにまつわる記録も記憶も全て消し去る。まさに匣庭を消すにはうってつけだ」
「そういうことを言いたいんじゃないんですよ、僕は!」
顔を上げたシロは今にも泣き出しそうだ。蓮安はゆっくりとまばたきをし、微笑んだ。
「女々しく泣き言を連ねるなよ。鬱陶しい」
シロの顔が凍りついた。夏の生ぬるい風に酒盃の水面が揺れる。それを一息で飲みきり、蓮安はことりと盃を置いて言った。
「全ての匣庭を消し去りたいと思っていること、その手伝いをしてほしいがために君を匣庭から助けてやったこと、私自身が匣庭の主であるということ。全て君には伝えてあったはずだ。そうだろう? それをまともに取り扱わなかったのは他ならぬ君自身じゃないか。だのに今さら、どうして、なんでと、私を責め立てられても困る。迷惑だ」
「そ、れは……」
「シロくん。君が、君の思うような形で私を助けることはできないよ。だってもう、私は死んでいるんだから」
お人好しの龍は、再び傷ついたように顔をうつむけた。沈黙は長く、蓮安はため息をついて立ち上がる。
やっぱり君との議論は平行線だな。いつものように文句を言いかけ、そういえば出会った頃にも似たような会話をしたなと思い出して、口を閉ざす。胸をひっかくような妙な郷愁がある。けれどそれを口に出す権利がない事もわかっている。
自分の思うままに生きることと、大切な誰かにそれを理解してもらうことは両立しない。だから一蓮安という女は前者を選んだ。信頼も情もいらない。求めようとも思わない。思ってはならない。
いつものとおりに蓮安は冷めた思考で考え、この場は無言を貫くべきと判断する。動かぬままのシロの前を通り過ぎ、朝の空気に湿った床板を踏んで縁側に足をかけた。
そこで、ぱきりと薄氷を踏んだような奇妙な音がした。
「っ……!?」
ぞっとするほどの冷気が背中を撫で、蓮安は勢いよく振り返る。
夜明けを迎えようとしている板間は、先と何一つ変わらなかった。自分が今しがたまで寝ていた乱れた布団、ぽつんと置かれた空の酒盃、部屋の奥に凝る夜の名残のような暗い空気。
取り残された世界で、シロが顔をうつむけたまま呟く。
「助ける方法があると言ったら、どうしますか」
「シロ、くん……?」
「さっき、真武に会ったんです」シロは蓮安のほうを見ずに言った。「黒龍に――あるいは、あなた達にとっては玄帝と称するべきなのかな。はは、まぁどうでもいいですよね。名前なんて。とにかく僕は真武と、彼の連れてきた鴻鈞という男に会った。ねぇ、二人はなんて言ったと思います? あなたを救う方法があるって、彼らは言ったんだ。あなたが死んでいたとしても……いいえ、死んで匣庭の主になったからこそ、救う方法がある、と」
嫌な予感に蓮安が後ずさったところで、シロが顔を上げた。
泣き笑いにも似た表情を浮かべた彼の頬は、黒ずんだ燐光を放つ鱗で覆われている。肌を刺す神気は龍のそれに他ならなかった。
それでも乞うように歪められた翡翠色の瞳は見知った彼のもので、蓮安の足を止めさせるには十分だった。
蓮安先生、と震える声音でシロは問う。
「どうか、僕に願ってくれませんか。あなたを救えと命じてください。だって僕は人間じゃない、願いを叶える龍なんですから。どんな幻でも現実にできる」
凍てついた神気がぐっと濃くなり、蓮安は奥歯をぎりと噛んだ。従えという無言の圧が空気を重くし、体が自然とひれ伏しそうになる。
それでも蓮安は首を振った。ひどく根気がいったが、蜂蜜色の髪の男を睨んで、はっきりと口を動かす。
「断る。それは私の願いではない、黄龍」
「――そう、ですか」ふつと表情を消し、シロは感情を灯さぬ翡翠色の目を細めた。「実に人間らしい思慮深い答えだな。でも、遠慮はいらないんですよ? だって人間、《《あなたからは幾つもの生きたいという願いの声が聞こえるじゃないですか》》」
凍てついた音を立て、シロを中心に次々と空気が凍り始めた。ただならぬ気配に蓮安は身を翻して駆け出す。
行く手を阻むように穢れた水の壁が立ち上がった。わずかな隙間をぬって飛び出せば、今度は水槍が幾本も注いでくる。蓮安は舌打ちし、竹筒を放って紋を喚ぶ。かろうじて全てを退けた。そう思ったところで、シロの温度のない声が響く。
『驟雨の砕刃』
『っ、荒天を喚べ、檜扇紋!』
周囲に無数の鏡刃が現れると同時、蓮安に喚ばれた突風がすべてを吹き飛ばす。
事なきを得た。けれどばしゃりと、再び新たな水が形を成す音が蓮安の鼓膜を打つ。
このままでは限界が来るのは明らかだった。さりとて、どうすべきか。顔を歪めて考えたところで、蓮安の体は赤い一つ目の巨体にすくい上げられた。社の式神だった。
社と十無が、蓮安を一ツ目の肩へ引っ張り上げる。
「っ、一体なんだのだがねェ、これは!?」
「事情を聞くのは後だよ、黒色眼鏡のおじさん!」十無は蓮安を覗き込んで口早に言った。「大変なところに悪い知らせを追加するけれど、先代の気配がする。先生を探しているみたいだ」
「分かってる。シロくんも鴻鈞と言っていた。まったく龍をも抱き込むとは、周到なことだよ。我らが師父は」
苛々と吐き捨て、蓮安は社に向かって怒鳴った。
「北へ逃げろ! 龍に捕まったら終わるぞ!」
「だ、だがイチルくんと姫子くんが、」
「子供じゃないんだ、なんとかするだろう!」
社はなおも言い募ろうとしたようだったが、一ツ目の手首の先が穢れた水槍に貫かれたのを見て腹を決めたようだった。
巨体に似合わぬ速さで一ツ目が中庭を乗り越え、深灰の西区を走り出す。道中いくつかの家屋が吹っ飛んだが、実際それはなんの問題にもならなかったはずだ。
蓮安達を追いかける穢れた水の濁流と翡翠色の燐光。それらが、触れるたびに世界が揺らめき、壊れた家屋が元に戻る。蓮安達の騒ぎに家を飛び出してきた人間も、次の瞬間には興味を失ったかのように不思議そうな顔をして家の中へ戻っていく。
世界の改変、認知の歪曲、物理法則の無効化。それらが示す事象の名前がなんであるのか、蓮安は痛いほどに理解している。
「――また匣庭を作るつもりか、君は」
破壊と再生が目まぐるしく入れ替わる世界を見つめ、蓮安は一ツ目の肩の上で拳を震わせて呟いた。
真夏の盛りの深灰に、龍の唸り声のごとき音が響いた。それは恐ろしくも悲しく、深灰中の人々が怯えたという。しかして、その日を境に、市井にはまことしやかな噂が囁かれるようになる。
いわく、深灰西区には翡翠色の楽園があり、生死聖邪問わず、あらゆる願いが叶えられる、と。




