二、
「どうしてここに……」
「どうして? 叔父上はおかしなことを仰る」
呆然とするシロの目の前で立ち止まり、真武は困ったように微笑んだ。
「もちろん、迎えに来たのです。人の世はあなたにとって毒でしかないのですから。あぁそれにしても、こんなにやつれてしまわれて、おいたわしい。本当はもう少し早く迎えに来れれば良かったのですが、小娘の呪いを探り当てるのに時間を要してしまいました」
「……呪い」
「貴志殿の、ですよ。黄龍」
真武が来たのと同じ方角から、足を引きずるようにして老いた男が現れる。武術衣の袖から突き出た両手も、襟元からのぞく首元も、黄ばんだ包帯で覆われていた。
シロの不審の眼差しに気づいたのか、老爺は十歩ほど距離を置いて立ち止まり、頭を下げる。
「お初にお目にかかります。黄龍殿。私の名前は鴻鈞。あなたを救うため、玄帝に招かれた……そうですな、術士の端くれとでもいいましょうか」
「今、呪いと言いましたよね」シロは険しい声音で問いかけた。「もしかして、イチルの、ですか。彼女の命と引き換えに、僕を鵬雲院へ帰す――あんな無茶苦茶な呪いをかけたのがあなたである、と」
「その問いには是と答えるほかありません」
鴻鈞は白い眉を下げて息をついた。
「申し訳ございません。所詮この身は三流の術士であり、人命を引き換えに発動するような術しか扱えませぬゆえ……ですが、ご安心を。解呪は正しく成され、貴志殿には残滓のひとかけらも残っておりませぬ。ただ我らは、呪いが消滅した場所こそあなたのいる場所であろうと、当たりをつけて探しに参った。それが全てです」
「俺はあなたを救いに来たのです」真武は真剣な表情でもう一度繰り返して、シロの腕にそっと手をかけた。「叔父上、色々と言いたいことはおありでしょう。構いません、どのような叱責でも甘んじて受け入れます。ですが、全ては鵬雲院に戻ってこそだ。さぁ、帰りましょう。あなたのいるべき場所は、ここではない」
腕を引かれたが、シロは動けなかった。
「僕は……帰れない」
ややあって呟けば、真武の視線が厳しくなる。シロは思わず目をそらした。それでも動く気にはなれなかった。
「君にもハイネにも、心配をかけているのは本当に申し訳ないと思ってる。でも、僕が帰ろうとすることで犠牲になる人がいる。それはできないし、したくないんだ」
「蓮安という名前の女ですか」
「知ってるんだ。あぁいや当然か」
今の星のめぐりは玄帝のものだ。世をあまねく見渡す権能をもつ彼ならば、一つの事象について何かを知り得たとしてもおかしくはない。
シロのぎこちない苦笑いを、真武はしばしじっと見つめていた。それからやがて、息をつく。
「叔父上は、時々ご自分が龍であることを忘れてしまわれる」
「そんなことは、ないつもりだけど」
「いいえ、そうですよ。あなたはまるで、ご自身が人間であるかのように振る舞ってらっしゃる。それがために己を責めるのでしょう。ですが、どうか思い出してください。叔父上、あなたは願いを叶える龍なのですよ」
うなじにひやりと冷たいものがはしって、シロは顔を強張らせた。真夏の夜だというのにひどく寒い。それはけれど、覚えのある温度でもあった。
「俺があなたのために願いましょう」
思い出す。深灰に来る直前、鵬雲院を発つ寸前、真武は冬夜の湖面をきりとった翡翠色の目でシロを見上げて、今と同じようにそう切り出したのだ。
「あなたの力は、あなたのためには振るわれない。人間の私欲に満ちた願いはあなたを病ませる。なればこそ」
穢れに侵された黄龍を案じて、それでも願いを叶えなければと焦る黄龍を憐れんで、言った。
「龍たる俺が、叔父上のために願う。これで、全て元通りになるはずです。あなたを苦しませるものは全て消えてなくなる。だから、」
だから、黄龍。
どうか。
「蓮安という名の女を、永久にあなたのそばに、」
「やめろ!」
ほとんど悲鳴にも近いシロの声に、真武は驚いたように口をつぐんだ。
夏の夜の暑さと虫の音が戻ってくる。シロは真武の手を振り払い、嫌な汗でじとりと湿った手のひらを握りしめた。
「……やめてくれ。願うな……頼むから……」
「どうしてですか」真武は悲しげに顔を曇らせた。「叔父上、俺はあなたの苦しむ顔を見たくないだけだ」
「……分かっているよ。君の気持ちは……それは本当にありがたいことだと思ってる……でも……」
「でも、ではありません。このままではあなたは一蓮安という人間を失う。それでもいいのですか」
「蓮安先生は、もう死んでいるんだ」
シロは絞り出すように言った。口の中に苦いものが絡まって、それ以上は言葉にできなかった。
そのせいで沈黙が出来た。惨めな沈黙だった。それを破ったのは、鴻鈞だ。
「御安心を、黄龍。彼女は幸いにも匣庭の主です。手立てはある」
シロは震える息を吐いて顔を上げた。鴻鈞は両手をあわせ、穏やかに微笑む。
「なるほど、死者を蘇らせようとすれば、天帝はたちまち我らを裁くことでしょう。ですが、あなたもよく御存知でしょう? 匣庭は生者と死者が混在する。そして事実として、天帝は匣庭が存在することを許していらっしゃる。なれば、あとは匣を開くだけでいい」
「……開、く」
「そうですとも。匣庭と現実。元々曖昧な二つの境界を取り払い、完全に混ぜればいい。匣庭という幻を現実にしてしまうのです。さすれば、あらゆる死者が生者と同じようにこの土地へとどまる――あなたは望みのとおりに、彼女を生かすことができるのですよ」
鴻鈞の静かな言葉は、砂礫におちた一滴の水のようにシロの鼓膜をじわりと侵す。できるはずがないとシロは思った。思って、そこで、血の気が引いた。
人を滅ぼせと願われたときも、できるはずがないと思ったじゃないか。
夜闇に低い爆発音が響いた。現実に引き戻されたシロは、蓮安邸を見やって息をのむ。真白の閃光が見えた。ありえない高さを、まるで鳥のように真白の子供が飛んでいる。
「……助けにいかないと」
三日前の式神の姿が蘇り、シロは真武を押しのけて走り出した。
苔むした石壁に挟まれた裏口から中庭へ飛び込む。卓は吹き飛び、当たり一面に陶器の欠片が散らばっていた。古びた縁側の一部が大きくひしゃげ、瓦礫の山が中庭を寸断している。倒れた灯籠からは火の手があがり、蓮安邸の柱の一部を燃やしていた。姫子に支えられてぐったりと壁に背を預けているのはイチルか。
禍々しい赤の世界に急かされるように、シロは中空へ手をかざして水の気配を捉える。
言葉はいらなかった。びりとうなじの龍鱗がうずくと同時、滝のような雨が降り注ぐ。炎は呆気なく消えた。ずぶ濡れになりながらシロが近づけば、顔を上げたイチルがはっとしたように唇を震わせる。
「黄龍……あなた、水が穢れて……」
「蓮安先生はどこに!?」
「瓦礫の向こうなのだがねェ!」
雨煙の向こうから駆け寄ってきた社に頷き、シロは示された方向に飛び出す。行く先で、ほぼ同時に真白の閃光が二度瞬いた。一度は空中、二度目は地上。敵は二人いるのか。冷たく張りつく嫌な予感を振り払うように、シロは呟く。
『恢網の水嵐』
現れた一振りの水槍を掴んで、瓦礫の山を飛び越えた。再び、地上で真白の光が閃く。雨けぶる世界で蓮安が竹筒を放ち、水墨滴る方円で真白の子供の攻撃を跳ね返した。けれどその時には、子供は追撃を放とうとしている。
シロは咄嗟に槍を子供に向かって投げた。真っ先に気づいた蓮安が、さらに竹筒を子供へ向かって放ち、陣を喚ぶ。
『万象高らかに打ち鳴らせ、稲光紋!』
水槍が子供の周囲に張られた不可視の壁に突き立つと同時、方円から生まれた雷撃が槍を撃つ。澄んだ音とともに守りの術が破れ、目を見開いた子供がびくりと体を痙攣させて姿を消した。
雨に濡れる地面を踏んで駆け寄れば、にっと笑った蓮安が得意げに指を二本立てる。こんな時でも彼女はいつもどおりで、シロは少なからずほっとした。
彼女の背後で、新たな真白の子供がゆらりと姿を現したのは、その時だった。
「っ、蓮安先生……!」
シロが声を上げ、蓮安の顔が強ばる。
真白の子供が光点を灯らせた指先を掲げる。駄目だ、間に合わない。断片的にシロは思った。間抜けなことに、それだけしかできなかった。けれど彼女はもちろん、シロのように間抜けではなかった。
蓮安がシロの体を両手で突き飛ばし、真白の閃光が彼女の右肩を貫く。
シロは目を見開いた。蓮安の体から赤黒い血が噴き出す。地面に倒れ込んだシロに覆いかぶさるように、彼女の体が落ちてくる。それをなんとか抱きとめようと、手をのばす。
華奢な体に指が触れた。その瞬間だった。
龍鱗が鋭く痛み、濁流のような悲鳴が一気に世界を塗りつぶす。
それは声だった。
男の、女の、しわがれた老婆の、酒に喉をからした老爺の、赤子を身ごもった女の、無垢な幼子の、これからが盛りのはずの青年の、声、声、声だった。生きたいという願いだった。こんな場所で死にたくない。子供をどうか助けて。炎が熱い、喉が痛い、死にたくない。嫌だ、どうして、体が柱に挟まれて動かない、炎が、熱い。水を。生きたい、嫌だ、死にたくない。あの人はどこに。生きたいの、生きて伝えなくちゃ。なのに、燃えて、顔が、これじゃあ誰か分かってもらえない、嫌だ、生きたい、死にたくない、置いていかないで、助けて。どうしてこんなことに、術士はなにをしているんだ、見逃してくれ、あぁ痛い、痛い、痛い、死にたくない、死にたくない、生きたい、生きて、生きていたい、生き、
「――黙れ」
ぞっとするほど低い蓮安の声が響き、肉を無理やり抉るような音がした。
生を望む怨嗟の声がぶつと途切れる。呆然とするシロの頬に、艷やかな黒髪と赤黒い血が降りかかった。夜色の女は銀の簪を止めどなく血をこぼす右肩に突き立て、だというのに不器用に笑っている。
「っ、はは……すまんな、シロくん。今のは、忘れて……く、れ……」
大きく息を吐き出して、蓮安がシロの胸元に倒れ込む。
シロは悲鳴を上げた。その時になって、ようやくだった。