九、八、
ひらりひらりと舞い落ちる桜が好きな子供でございました。
もちろん普段の吾子は大人しく可憐な子供ではございません。なにせ彼女ときたら、男子の背中へ蛙や蛇をいれては泣かせ、道に大穴を掘って馬を落としては荷馬車の主人を怒らせ……と、一時たりとも目の離せぬ子供です。だからこそ、主様はお目付け役として我らを創られた。
あなたは少ないたくわえ切り崩して上等な唐紙を買いつけ、そこに柔らかな筆先で我らの目と鼻を添えてくださいましたね。たいそう可愛らしく作っていただいたおかげで、吾子も四六時中、唐服の帯に我らを添え、ほうぼうへ連れ出してくださいました。そうそう、あの夜色の帯にございます。主様のお古で作った紐帯も、吾子はやっぱり気に入ってらっしゃいました。
彼女とともに眺めた景色を数え上げれば、きりがありません。深灰は東を見ても西を見ても、かわりばえのしない古びた民家ばかりが並んでおりますが、吾子は宝探しのように次々と美しい物を見つけていきました。
朝露に濡れる椿の花弁。露店に並ぶ、ほくほくと湯気のたつ饅頭。どんな宝石よりも眩い茜空。そして、雪華のごとく降り注ぐ桜の花びら。どれも吾子に教えていただいたものです。
何より吾子は、主様に憧れおりました。彼女と来たら、四六時中、「あさひらきのはなをしおりにして、ととさまにあげよう」「ととさまはからい《《まんとう》》がすきだから、じぶんもそれにする」「もうすぐととさまがかえってくるから、やねのうえにのぼって、おそらをながめていよう」と、それはもう、「ととさま」という言葉を聞かない時はないほどでしたから。
おや主様、口元を押さえられてどうなされましたか。え。めったなことをいうんじゃない、ですか? いえいえ、我らは主様が命じたとおりに述べたまでのことですよ。
まぁ! そうやって背中を向けてしまわれて。そう恥ずかしいことではないでしょうに。吾子もきっと喜んで、もっと主様を褒めそやすはずです。
だからどうか、胸を張って微笑んでやってください。吾子は主様のその顔が、いっとう大好きなのです。
そしてそんなお二人を守るためにこそ、我らは存在しているのです。
*****
極光が刹那のあいだ空を彩り消える。彼とも彼女ともつかぬ人影はそれを見届け、今しがた沈黙したばかりの紙片を見やった。
そこは、倒壊した木造の家屋と、崩れた石柱に囲まれた地であった。
かつては龍をたたえた廟を要し、一人の高僧の尽力あって周辺の街は栄え、次第に驕った僧侶たちが廟を腐敗させて終わりを迎えた。今やうらさびしく、野盗や貧しい人間が息をひそめて雨風をしのぐばかりの土地だ。
真夏の満月の夜である。手の中の紙片はずいぶんと薄汚れていて、あちこちが焦げていた。これもやはり、往時は上等な唐紙に違いなく、持ち主には大切にされたことだろう。けれどやっぱり、形あるものはいつか終わりを迎えるのである。
ぴり、と音を立てて紙片をちぎった。別れの挨拶でもするかのように、彼とも彼女ともつかぬ人影は両手をゆったりと振って紙片を散らす。
ひらりひらりと花弁のように散ったそれは、地面に落ちる前に儚く消えて後には何も残さない。
*****
彼女がついてきたのはこれが原因か、とシロは苦々しく思った。
西区の民家は、婚礼の日を迎えて大変な賑わいを見せている。古く小さな家は、今日ばかりは朱金の吹き流しや布飾りで彩られていた。門扉は開け放たれ、ひっきりなしに人が出入りしては、地に足つかぬ明るい表情で話に花を咲かせている。中央の卓に置かれた料理の大皿に飛びつくのは子供達だ。
そして、大人げないことに彼女も、である。
「いやー、シロくん! ここの饅頭は最高だぞ! なんでも花凛堂の料理を取り寄せたらしくてな? いやはや、娘の結婚式にこれ以上の贈り物はないだろうさ! この家の主人は本当に素晴らしい人間、あっ!? その焼売は私が楽しみに残しておいたやつなのに!?」
「なにが残しておいた、ですか」
シロは呆れ顔で、彼女――蓮安の小皿を取り上げた。絶望的な目をする夜色の女へため息をつく。
「蓮安先生。僕たちは依頼でここに来たんですよ」
「分かってるとも。もちろん」
「じゃあ、依頼の内容は?」
「花嫁の部屋から妙な音が聞こえる、だろう?」小皿から一時たりとも目を離さぬまま、蓮安が力強く頷いた。「で、今日は婚礼当日でお祭り騒ぎだ。したがって、祝いのために用意された食事は美味しく食さねばならない。うん」
「うん、じゃないでしょうが」
返事の代わりに、蓮安は喉をごくりと鳴らした。シロは思わず半眼になる。
試しに小皿を右に動かせば、彼女の視線もゆらりと右へ。
ならばと、小皿を左に動かせば、同じように視線は左へ。
ややあってシロはがっくりと肩を落とした。
「食いしん坊かよ……」
「私の……焼売……最後の……醬汁も用意したのに……」
「……あぁもう分かりました。分かりましたってば」
情けない声に根負けして、シロは小皿を卓に置いた。顔を輝かせた蓮安は焼売をそうっと醬汁に浸し、一口で頬張る。もごもごと動く頬に手を当てて、蕩けきった顔をした。格別に美味かったらしい。
妙に悔しくなって、シロも大皿から小海老の素揚げを箸でつまんだ。軽い歯ごたえに塩味が絶妙な一品だ。
「なぁシロくん、私もそれが食べたい」
「紙が擦れるようなカサカサとした音、ですよ」揚げ物の皿を蓮安のほうへ投げやりに押しやって、シロは依頼内容を繰り返した。「依頼人はこの家の主。婚姻を控えた娘の部屋から夜な夜な妙な音が聞こえる。気味が悪いから原因を調べて解決してほしい……と、こういうわけなんです」
「分かっていると言ってるだろう。君は心配性だなぁ。音の正体なんて、すぐに見つけられるさ。熟れた桃の皮を剥くみたいに、つるっと一発だとも」
「その適当な返事が不安なんですってば。あのですね、蓮安先生? たしかに墨水堂にくる依頼のほとんどは匣庭と無関係ですけど、本物の可能性だってあるんですよ? 少しは真面目に考えてもらわないと、」
「本物だよ、これは」
小海老の揚げ物をごくんと飲み込み、蓮安はこともなげに言う。シロは口を閉じて半信半疑の目を向けた。彼女は得意げに箸先を振る。
「ここは匣庭だ。でなきゃ、私が来るはずがないだろう?」
「根拠は」
「客人の中に死人と生者が混じってる。そこの子供と、主人は死人だ。子供の隣にいる若者は生者。今しがた入ってきた年頃の娘は匣庭の幻」
「……見た目には分からないですけど」
「だが、このやりとりに聞き覚えはある、だろう?」蓮安はにやにやと笑った。「懐かしいなぁ。君と初めて会ったときも、こういう情けない面をしていたんだった。まさに犬みたいな」
「どこかの誰かさんは今と変わらずの食いしん坊でしたけどね」
「ふふん。天真爛漫でいいだろう?」
「無礼千万の間違いでは?」
肘鉄が脇腹を直撃し、シロは身を折って呻いた。当の蓮安は何食わぬ顔で、「というわけで、だ」と腕を組む。
「状況は至極簡単さ。匣庭の主を探して、説得すれば万事解決というわけ」
「説得、って……」シロは驚きのあまり、痛みを忘れて顔を上げた。「え。消滅させるんじゃなくて、ですか?」
「お、シロくんもとうとう私に協力する気になったか?」
「そんなわけないでしょう……って、いいえ違います。今はそういう話をしてるんじゃなくて」
シロはまじまじと蓮安を見やった。
「何でも物騒な方法で解決しようとする先生から、そんな平和的な言葉が聞けるなんて……文明が追いついた感動とでも言うんでしょうか……」
「おい待て、シロくん。さては私のことを馬鹿にしてるな?」
蓮安が唇の端を引きつらせた時だった。
「やぁやぁ。やっと見つけたぞ、新婦」
嬉しげな声とともに、白髪の男が蓮安の腕を掴んだ。蓮安は胡乱な顔をし、シロも目を瞬かせる。
にこにこと笑う男はまさに、今日の依頼主だ。先ほど挨拶を済ませたばかりだし、なにより今日は彼の娘の婚儀の日で、娘と蓮安を間違えるはずもない――そう思ったところで、シロははたと、娘の姿を見ていないことに気づく。
ほんの少し嫌な予感がした。蓮安も目を細めて頷く。けれど、そんなシロ達の無言のやりとりに気づいた素振りもなく、依頼主の男は幸せそうな顔をしてシロと蓮安を見比べる。
「こうやって、未来の旦那と仲を深めていたというわけか。うんうん、実に良いことだ」
「未来の……?」
「旦那……?」
シロと蓮安はぎょっとして依頼人を見やった。そんな二人に挟まれて、初老の男は目元の涙を拭う。
「いいんだよ。わしも伝統を守れと厳しく言い過ぎてしまった。けれどもね、こうやって幸せそうなお前を見ていられるのなら、しきたりなんてどうでもいいんだ」
「ま、待て待てご主人」蓮安が慌てたように声を上げた。「なにか勘違いをしてるようだがね。私はあなたの娘ではないし、まして結婚なんて」
「そうだ! わしとしたことが気遣いが足りなかったな。若い二人だ。もっと静かな場所で仲を深めるべきだとも!」
「いや話を」
聞け、と蓮安が言い切る前に、ぱちんと周囲の空気が鳴って景色が変わった。楽しげに話す人が消え、朱金の派手な祝飾りが消え、山と盛られた食事が消え、代わりに現れたのは一組の立派な布団が敷かれた板間である。
シロと蓮安は言葉を失った。その時にはもう、依頼人の男の姿も消えていたが、お節介な声だけはよく聞こえる。
「人払いは念入りにしておこう。なに、父様を信じなさい。君たち二人が添い遂げるまで、この部屋には何人たりとも立ち入らせないさ」
*****
「どこの二次創作よ」
「二次……なんですって?」
不格好な黒蝶の紙片から話を聞き終えたイチルは、向かいの座席の少女を見やった。
夏の日差しが差し込む路面電車であった。百年前の深灰の大火を機に敷かれたという電車は、東区の人々の生活の足であり、旅人にとっての観光地でもある。
よく言えば味わい深い、悪く言えば長らく酷使された車体は、線路のつなぎ目を越えるたびに大いに軋み、座席の中敷きはこれ以上ないほど擦り切れ、手すりの塗装は剥がれて錆だらけだ。
この有様に、肩で切り揃えた黒髪を持つ少女――姫子はたいそう不機嫌になった。次いで、黒蝶の紙片がもたらした黄龍たちの状況である。
彼女は呆れの中に侮蔑を混ぜ、つま先を揺らした。
「定番ネタでしょ。性交しなきゃ出られない部屋じゃん。超ウケるんですけ、もご」
「ちょ、ちょっと……!?」イチルはさっと顔を赤くして、慌てて姫子の口元を手で覆った。「昼間からなんて事を言うんですの!? 破廉恥ですわ!?」
「……ヒメちゃんは質問に答えただけなんですけど。つーか」
イチルの手を無造作に引きはがして、姫子は不愉快そうに唇を尖らせた。
「なんでキシちゃんはへーぜんとしてられるわけ? これでもヒメちゃんは、キシちゃんをつけ狙ってた泣く子も黙る妖魔なんですけどお?」
「術士に負けた妖魔、でしょう?」イチルは冷静に返した。「あなたは、あの女に従わざるをえないと聞きましたわ。だから、わたくしには危害を加えられないし、こうやって手伝いもしてくれている。そうじゃなくて?」
姫子はぐっと眉をひそめ、イチルの手を乱暴に突き放した。両腕を組んで窓の外を見やる。
「つまんねー、つまんねー、つまんねー! 笑っちゃうくらい平和ぼけしてんじゃん。掌返し早くね? そーゆー人間ほど、ヒメちゃんは信用できないんだよねー」
「信用なんて、一朝一夕で身につくものじゃないでしょう」
「善人ヅラの説教はいらねーんだよ。十二年経っても信用とやらを得られなかったくせにさ」
イチルは返事に詰まったが、幸いにも姫子へ目を閉じてしまった。依頼先に着くまでは寝るということなのだろう。
ほっとしながら、イチルは肩掛け鞄から依頼書を取り出す。紙片の擦れるような、カサカサとした音が夜な夜な聞こえる。黄龍が引き受けたのと同じような噂は東区でも流れていて、その原因を探すのがイチル達の役目だ。
最寄りの駅名を確認し、飽きるほど読んだ依頼文を見るとはなしに眺める。
線路が東区の歓楽街に入り、車内がさっと夏影に染まった。開け放たれた窓から入り込む風に、少しばかり瓦斯っぽい臭いが混じる。
蓮安は姫子を降し、自分の妖魔として配下に置いたという。その真偽はさだかではないが、いつからか姫子はイチルが依頼を引き受けるたびに、ついてくるようになった。
仲が深まったというわけでは決してない。話すたびに姫子は不機嫌になり、イチルの心も沈んだ。それでも彼女はついてくるし、イチルも断れない。だからこうして、だらだらと不毛な関係が続いている。
ちりと胸が痛み、イチルは目を伏せた。不毛と、少しでも感じてしまった自分が嫌になる。
拒絶しきれないのは自分のほうだ。姫子は善人ではないが、イチルに興味を持ってくれた。それが、ほんの少し嬉しい。本当は。けれど同時に、彼女は自分の見たくないものばかり突きつけてくるから、怖い。
なにより姫子が自分を嫌っていることも分かっているから、やっぱり何か実を結ぶような関係にはならないとも思う。
がたんと車体が揺れ、路面電車が建物の入り組んだ地域を抜けた。差し込んだ夏の日差しの眩しさに惹かれて、イチルは依頼書から顔を上げる。
鉄塔の立ち並ぶ深灰の最東端は森を切り開いて造られた土地で、晴れ渡った空がよく見えた。
こんなふうにあっさりと浮かない気持ちが晴れればいいのに。思ったが、そんな弱音は依頼書と共に肩掛け鞄に押し込めた。
イチルは意を決して姫子を起こす。目的地はもうすぐそこだった。