たとえ双飛を許さずとも
「吉にございます。これより星の巡りが一つ終わるまで、貴方様の契約者として一生尽くさせていただきます」
指先を揃え、吉は寝所の木牀で頭を垂れた。
新雪のように柔らかな寝具。藍地に可憐な雪華の刺繍がいくつもほどこされた唐服。漆黒の組木の装飾は、天井から窓に至るまで美しく部屋を彩っている。
天に住まう龍にふさわしく豪奢な部屋だったが、吉の心は沈んでいた。寝具は不安定で落ち着かない。唐服は薄い。火鉢で十分に温められているはずの部屋も寒い。冷たい月光は窓に降り積もる雪の影を落とすばかりで、燈籠の明かりも届かぬ部屋の隅には影が凝っている。
「小娘」
静かに呼ばれ、吉はのろのろと顔を上げた。
黒髪を一つくくりにした少年がこちらを見下ろしている。吉が鵬雲院に召し上げられて十日、初めて目にした己の契約者は思いのほか端正な面立ちだった。
黒龍、冬を司る者、人を罰する四龍の一柱、あるいは人ならざるもの。そう、それだ。ぼんやりと幾つか言葉を並べていた吉は、最後の一つで合点する。目の前の男は人ではない。鵬雲院で初めて自分を迎えてくれた、薄っぺらい笑みを張りつけた黄龍と同じように。
痛くなければいい。遠く思いながら、彼女はかすかに膨らむ下腹を無意識にさする。一方で、それが絶対に叶わないことだとも分かっている。男女の交わりとはそういうものだ。吉はそれを十四の冬に知った。相手は父親だった。
母親に言えるはずもなかった。妹達を父から守りたくて、だから妹たちをいびって父親の歓心を買った。父は行商人で、冬にしか村に戻ってこないことも幸いした。貧しい家族だったが、表面を取り繕うのは上手かった。だから、どこよりも幸せな夫婦と子供に恵まれた家庭に見えたはずだ。冬の夜が来るたび父親は吉を傷つけ、痛みは絶え間なく、泣き叫ばないように噛み締めた唇はぼろぼろで、吉は冬を呪った。それでもあれでよかったのだ。
なのに吉は身ごもって、それがきっかけで家族は壊れた。
父は吉を置いて逃げ、母と妹は吉を糾弾し、村中の人間が吉へ侮蔑の眼差しを向けた。それでも赤子に罪はないのだから、産んで幸せにしてやるべきだと、同じ口で村人達は言った。薪になる枝を拾う道中で大雪に見舞われたのは、それから半月ほど経ってからのことだ。
吉は冬夜の森をさまよって、もう嫌だと思った。そして次に目覚めた時、彼女は鵬雲院にいたのだ。秋を司る赤龍は好々爺で、薄のように白い髭を撫でながら「おめでとう、天は君を黒龍の契約者と定めた」と吉を祝福した。
そう、これは祝い事だ。吉はすっかりくたびれてしまった心で思う。祝い事だから、めでたくて、痛みがあっても我慢しなければならない。子供が出来るのだって良いことだ。新しい命なのだから、憎らしいはずがない。
大丈夫。子供を産みたいと、きちんと願えているはずだ。だって、黄龍も穏やかな笑顔で言っていたではないか。龍の契約者が下界の子を産むのは異例だけれど、望むならば好きなように子供を育てていいんだよ、と。だから、自分が我慢すれば全てうまくいく。間違いない。痛いのはいやだ。けれどそれも仕方のないことだ。
「おい、お前」
ぶっきらぼうな冬の声が降ってきた。膨らんだ腹に指を沈めたまま、吉は顔を上げる。いつの間にか顔を伏せていた非礼を詫びようとすれば、黒龍は翡翠色の目をすがめて言った。
「なぜ俺の寝所にいる」
「え」吉はぱちぱちと目を瞬かせた。「男女の仲とはそういうものでございましょう?」
「お前は俺の契約者だろう。男女の仲などというものではない」
「でも」
「どけ」
厳しい声は己を叱る父親そのもので、吉は首をすくめて寝台を飛び出した。冷たい石床に座って頭を垂れる。
「ごめんなさい。良い子にしてますから」
叫びだしたいのをこらえて、ぎゅっと手を握った。声は震えたが、なんとかうまく言えたように思う。ぶたれなくてすむだろうかと吉は肝を冷やした。そんな彼女の耳に届いたのは寝台の軋む音と、呆れたため息だった。
「なんだ、それは」
「そ、れ……?」
「良い子とは何かと聞いている」
面倒くさそうに言葉を足され、吉は額を床にこすりつけて必死に考えた。
「あ、の……声を出さないことです。痛いって言わないこと。このことを誰にも言わないこと。ちゃんと我慢して、それから」
「何故」
「なぜ?」
「何故そんなことをする」
訳のわからない問いを投げかけられて、吉は体を震わせた。すぐに答えなければ痛いことが待っている。なのに目の前の不機嫌な龍の問いかけは、吉の知らないものばかりで、少しだって答えが浮かばない。
吉は下腹をさすった。痛いことをされる。怖い。いやだ。大丈夫。我慢しなくちゃ。
「俺は人間が嫌いだ」
静かな黒龍の声がした。吉は唇を引き結んで、小さく頷く。
「存じております。貴方様は私を罰する存在だから」
「驕るな。お前ではなく、人間を、だ」
吉は曖昧に頷いた。これは痛いことなのだから罰なのだ。そう思ったけれど、言わなかった。男女の交わりは喜ばしいことと決まっているからだ。
風が窓を叩く。「顔をあげよ」と言われたので従えば、胡座をかいた黒龍が淡々と尋ねる。
「宿しているのは望まぬ子供か。実の父親との間の」
吉は凍りついた。そんな彼女をつまらなさそうに眺め、黒龍は立ち上がる。
「気が変わった。俺は行く」
どこへと問う前に、黒龍は部屋から出ていってしまった。部屋の片隅で、火鉢の炎が爆ぜる音を聞く。取り残された吉は、「あぁ」と呻いて地面に伏した。
汚い女だと思われてしまったのだ。嫌われてしまった。きっと鵬雲院を追い出されてしまう。下界の寒さを思い出して、吉は身震いした。痛いのは嫌だと言っていたのに、寒いのも嫌なのだ、自分は。なんという我儘だろう。
詫びなくては、と思った。さりとて、勝手に部屋を出ていけば怒りを買うにちがいない。たかが十数年の経験を総動員して、吉は石床に座ったまま待つことにした。少なくとも、父親はそれで多少なりとも怒りを収めてくれたからだった。
しんしんと降り続いた雪はすっかり窓を覆い尽くしてしまい、日が登っているのか、月が登っているのかもすぐに曖昧になった。火鉢の火は消え、厳冬の寒さが吉の体をさいなむ。体が震えていたのは最初だけで、じきに震えることもなくなった。吉は安心した。震えるのはみっともないと父が叱るからだ。ぼんやりとした眠気に視界がかすみ、そのたびに手のひらへ爪を立ててこらえた。がさがさの皮膚に血が滲めば、部屋も唐服も汚さぬようにと吉は手を舐めて血を拭った。
それでもやっぱり眠気はおさまらなかったのだ。かたんと、戸口から物音がして、吉は飛び起きた。
立ち上がろうとした途端に体から力が抜けて、べしゃりと倒れ伏す。足音とともに影が差し、驚いたような黒龍の声が降ってくる。
「ずっと待っていたのか」
「は、い」
からからの喉を動かして顔を上げた吉は固まった。黒龍の美しい顔立ちも、唐服も、あちこちが血で濡れている。
「あ、の……怪我、を?」
「馬鹿を言うな。龍が人間に遅れを取るはずがあるまい」黒龍は鼻を鳴らして笑い、寝台へどさりと腰掛けた。「人間を罰した。それだけのことだ」
「人間、を」
「お前の父親を殺した。子に無体を強いるなど、天理に反するだろう」
吉の呼吸が止まる。そんな彼女へ、黒龍は小袋を投げてよこした。
「霊薬だ。子を堕ろしたいなら使えばいい」
「そ、んな……」指先に触れる小袋を見つめ、吉はやっとの思いで首を横に振った。「駄目……駄目です、それは」
「なぜ」
「だ、だって、子供はめでたい、ものって、みんな言ってて」
「……」
「女の子は母になって、子を幸せにするのが、義務で。私は、卑しい娘、だから。せめて、母親にだけは、ちゃんと、ならなくちゃ、駄目で、だから」
「小娘」
黒龍の厳しい声に、吉は下腹を押さえつけていた己に気づいた。きゅっと唇を噛む。そんな彼女の耳に、再びため息が聞こえる。
「嫌ならば使わなくてもいい。選択するのはお前だ。だが、」黒龍は翡翠色の目を細めた。「なぜ駄目と思うのか。そこはしっかりと考えろ。お前の意思で駄目と思うなら許す。だが、誰かの意思でというなら、それは許さん」
「……ど、して、ですか」
「お前は俺の契約者だぞ。己の選択に誇りを持て。みっともないのは御免だ」
吉はのろのろと小袋を見やった。
こんなものは投げ捨てるべきだと彼女は思う。だって、子供は授かりもので、めでたいものだ。これは幸せで祝福されるべきものだ。自分が我慢して子供を産めば、全部全部解決する。それだけのことだ。幾つも幾つも言葉が浮かび、降り積もった雪のように吉の体を重くする。
それなのに、震える右手が小袋を引き寄せた。
「……嫌わないで、いてくださいますか」冷たい左手を下腹にぐっと沈め、吉は声を震わせた。「身勝手で子供を殺す私を、見限りませんか。父に体を許すことしかできなかった私を、汚いと思わないでいてくださいますか」
たどたどしく言葉を紡いで、吉は小袋をぎゅっと握った。みっともなく涙がこぼれた。嗚咽をあげないように歯をぐっと噛み締めて息を吐き出した。それは忌まわしい父との夜に身につけた、たった一つの生きる術だった。
衣擦れの音がする。吉が涙で濡れた顔をあげれば、胡座に片肘をついた龍は呆れ顔で言った。
「驕るなよ、人間め。お前たちは生まれからして罪深い。俺にとっては最初から最も嫌悪すべき存在なのだから、これ以上嫌いになどなれるはずがあるまい」
気遣いの欠片もない言葉だった。冬の初めの日、一段と寒い夜に落ちる雪華のようだ。冷たくて、厳しい。清冽で、美しい。
だからこそ、優しい暖かさを思い出させてくれる。
吉は小袋を握ったまま、涙の張りついた顔で弱々しく笑う。黒龍が両眉を上げた。
「馬鹿にしているのか」
「して、ません……うれしいだけ、です」
「嬉しい? 何故」
「さぁ……わかり、ません……なんとなく……?」
「自分の行動も満足に説明できないのか。愚かな」黒龍は顔をしかめ、寝台から降りた。「火をつけるぞ。寒くてかなわん。まったく、このような些事も、本来ならば気を利かせてお前がやるべきことだ」
「す、みません」
「謝罪は要らぬ。二度と同じ過ちを繰り返すなよ」
「はい。でも、あの」
吉は下腹から手を離し、目の前を横切る唐服を掴んだ。心底迷惑そうな黒龍を見上げたまま、彼女は言う。
「ご迷惑でなければ、部屋が暖まるまでは、吉をぬくもりがわりにしてくださいませ。寒い、のは、お体に障る、でしょう。温まれば捨て置いて頂いて、かまわない、ので」
誠心誠意の感謝の気持ちを込めての提案に、黒龍は舌打ちした。唐服をすげなく振り払った彼は大股で火鉢に近づき火をおこす。
恩返しは難しい、と吉は己の不甲斐なさに落胆する。丁度そのとき、戻ってきた黒龍が吉の体をひょいと抱えあげて寝台へと落とした。吉が目を瞬かせるなか、黒龍は吉へ手早く毛布を巻きつけながら不機嫌そうにぼやく。
「俺を誰だと思っている。龍だぞ。お前のような小娘を運ぶことなど造作もない」
「あ、え、と……」
「なんだ。提案したのはお前だろう」
吉としてはそういう理由を聞きたかったわけではないのだが、さりとてなんと指摘すればいいのかも思いつかなかった。結局迷った挙げ句、「あの」ともう一度代わり映えのしない言葉で話を始める。
「ありがと、ございます」
「人間の礼など要らん。それよりお前、名前は」
「吉灰音と申します……あの、貴方様のお名前を伺ってもよろしいですか」
「何故言わねばならん」
「それは……ええと、契約者、ですので……?」
「……都合のいいときばかり、正論に気づきおって」
黒龍は再び舌打ちした。それでも背中から吉を抱きしめながら、ぶっきらぼうに真武と答える。
その名を繰り返し呟いて、吉は心に刻みつけた。生涯を彼に尽くそうと思ったのはその時からだ。背中のぬくもりにまどろんだ幼い夜から、二百年近い年月を重ねて老婆となった今まで、それは少しも変わっていない。
冬の龍の名前を呼ぶ。たったそれだけで、自分は前を向いて生きていける。そのことを確かめて、吉はゆっくりと瞼を開けた。
*****
真武と過ごした部屋は消え、夏の夕暮れに沈む東屋の卓が見える。冷えた茶杯と皺だらけの己の手を順に眺めたのち、吉は前を向いた。
鵬雲院の食客、手足のほとんどを包帯で覆った老爺――鴻鈞道人が意外そうな顔をする。
「おや、意外だ。術が破られるとは。これでも深灰一の術士であった身なのですが」
「隠しもしない正直さは、嫌いではありませんよ。幸せな過去を見せてくださる術なのね。これをイチルにかけたの?」
穏やかに問いかけながら、吉は冷静に思い返す。
深灰へと送り出したイチルの行方が分からなくなった。黄龍を取り戻さんと焦る玄帝を、鴻鈞がしきりになだめていたのは昼下がりの話だ。苛立ちを隠しもせずに龍は部屋に引き上げた。吉は茶器を片付けようとして、そこからぶつりと記憶が途切れている。
何かをされたとすれば、その時だろうと彼女は結論づけた。黒龍の契約者はイチルであると、鴻鈞には偽りを伝えている。けれど彼が、真実に勘付いていたとしても何ら不思議ではない。
吉は背筋を伸ばして鴻鈞の返事を待つ。老爺はゆっくりと茶杯を飲み、肩をすくめた。
「それも、呪の一つですな」
「遠回しな言い方ね」
「貴志殿が深灰へ行かれた際に贈った呪とは別ということですよ」鴻鈞は悪びれもせずに言った。「それにしても、幸せな過去とは。今回の呪は悔恨を呼ぶものであったのですが。さすが、龍の契約者ともあろう方は幸福な人生を歩んでこられたようだ」
「あら。高く買って頂けて光栄ですけれど、後悔だらけよ。あなた達が勝手にイチルを巻き込む前に止められなかったことも、穢れを負っていた黄龍を止められなかったことも、玄帝がありのままでいられた日常が壊れてしまったこともね」
「それにしては落ち着いてらっしゃる」
「私は、私を支えてくれる《《おまじない》》をもっていますから」
一瞬だけ、探るような沈黙があった。されど結局、鴻鈞は好翁らしい笑みとともに立ち上がる。
「なるほど、なるほど。鵬雲院の中では、あなたが一番厄介なのかもしれませんな」
「もう行かれるの?」
「吉殿を捨て置いても、支障はありませぬ」
「やっぱり、あなたは黄龍を探す以外の目的をお持ちなのね」あえて強くいい切って、吉は目を細めた。「なにが目的なのかしら、鴻鈞道人」
東屋の出口に向かっていた鴻鈞が振り返った。
「死んだ娘を生かすこと、ですかな」
「……妙なことを仰るのね」
「そうでしょうかな。血の繋がりのいかんに関わらず、我が子には生きていてほしいと願うのが親というものでございましょう? 玄帝の契約者殿」
当てこするような言い方に、吉は白眉をわずかにひそめた。鴻鈞は両手を穏やかに組み合わせる。
「なに、案ずることはない。黄龍を取り戻すこと。鵬雲院の日常を再生すること。玄帝にとっても良き生活となること。これらの願いと私の目的は一切矛盾いたしません。焦らずとも、必ずや皆にとっての幸せを得ることができましょう」
では、と頭を下げて鴻鈞がその場を辞す。吉は張り詰めていた息を深く吐いて、椅子に腰掛けた。
このことを玄帝に伝えるべきか。一瞬だけ考え、吉はすぐに否定した。玄帝は鴻鈞の目的をすでに知っているか、知ったとしても気にも止めないだろう。だからこその、鴻鈞のあの余裕だ。
冬の龍は厳格で、人を罰するという天帝との誓約を忠実に守る。彼にとって、本質的に人間は取るに足りないものだ。けれど、その心が凍てついた氷のように硬い部分ばかりかと言われれば、決してそうではない。
無くしてから痛みを知るのだ、かの龍は。例えば黄龍を。例えば日常を。そしてきっとイチルのことも。失ってやっと、天は誓約から龍を解放する。
龍は、孤独だ。こんな生まれでなければと、何度思ったことだろう。
吉は己をじっと見つめた。肌は皺だらけに、黒髪は燃え殻同然の白髪に。変わらず美しいままの玄帝とは随分つりあわない見た目になってしまった。それでも、己の寿命が尽きる最後の瞬間まで、彼を支えたいと思う気持ちは変わらない。
「……真武」
そっと、まじないを呟いた。その優しい響きとぬくもりを抱きしめて、彼女は決意を新たにする。
機会を、見誤らないことだ。鴻鈞の指摘のとおり、非力な自分は眺めていることしかできない。けれどこの先、状況が変われば何かできることもあるはずだ。なれば、それまで耐えればいい。
幸いにも、吉は耐えるのは得意だった。
その先の暖かさを、美しき冬の龍が吉に教えてくれたからだ。