幻郷より堕つ
生まれつき右足が欠けているがゆえに、人々はイチルを畏れ敬い、天へと捧げた。貧しく寂れた村の、夏の盛りのことだった。
窮屈な駕籠の中で身を縮め、左足を抱えて息を吸う。荒い骨組みの隙間から蝉時雨と鬱屈とした空気が入り込んだ。残照は土まみれだ。ここに捨て置かれた翌日、ひどい嵐がやってきて駕籠を吹き倒した。それからずっと、イチルは破れた駕籠の編み目ごしに地面へ横たわっている。
村の人達はさぞ喜んだことだろう。日照り続きで捧げた供物だ。雨は龍の化身そのものだから、偉大なる天帝の慈悲へ感謝したにちがいなかった。特に今年は、生まれた子供の半分が流行り病で死に、働き盛りの若者は三人に一人が飢えて倒れ、老いた父母の多くが夜の山に消えて行方知れずとなった。
どうか救っておくれと大人たちは言った。だからイチルは、しきたりのとおりに天帝へ捧げられた。これですべてがうまくいくと、運び手の男たちは嬉し涙を流して寂れた祭壇から去っていった。
冗談じゃない。イチルは細く息を吐く。乾いた喉は今にもひびわれ、崩れ落ちそうだ。それでも彼女は無理矢理に息を吸う。息を吐く。
大人たちはイチルを畏れ敬った。それはけれど言い訳だ。片足がなく赤髪の子供など、どうして受け入れられようか。恐れるから遠ざけたのだ。気味が悪いから捨てられたのだ。それ以上でも、それ以下でもない。嫌いだ。大嫌いだ。あんな場所、二度と帰るものか。思い出すものか。消えてしまえ。あとかたもなく。
イチルは背を丸めて咳き込んだ。いつから握りしめているかも分からない手の甲に、血がべっとりとついている。喉が痛い。それでも飢えに負けて、残照色のそれを舐めた。最悪の味に鼻をすすった。乾ききった鼻の粘膜が切れて、また血がこぼれて情けなくなった。どうして。おとうさん、おかあさん、どうしてなの。どうしてむかえにきてくれないの。もういやだ。こんなところ。ただ、わたしは。ただただ、わたしは。
世界がかげる。夜が訪れたのかと思った。あるいは死にそうだとか。けれどそれにしては蝉の音がはっきりしていて、耳につく。
「あぁ」という男の嘆息が降ってきた。
「可哀想に。こんなことをせずとも、いくらでも願いは叶えてあげたのに」
男が膝をついた。蜂蜜色の髪の奥で、翡翠色の目を痛ましげに細めている。嫌いな目だと、イチルは思った。それでも抵抗なんてできないまま、彼女は男に抱え上げられてしまった。
「連れて行くのですか、叔父上。鵬雲院へ」
蝉時雨の音を割いて、駕籠の外から真冬のように冷たい少年の声がする。「連れて行くよ」と応じた男は、もう一度だけイチルを見やって優しく頷いた。
「心配しないで。僕が願いを叶えてあげよう」
あのときの彼が浮かべた微笑みを、イチルはずっと覚えている。安心させるような柔らかな笑みだった。醜さとは無縁の清廉な表情でもあった。だからこそ、その笑顔が嫌いだった。
もう、十二年も前の話だ。
ざりっと砂を噛んだような音がして、イチルは目を開けた。低い羽蟲の雑音が空気を震わせている。頭がぐらぐらと揺れるような気持ち悪さをこらえ、瓦礫の中から唐傘を杖にして立ち上がった。
ほんの少し湿った風がイチルの赤髪を揺らしていく。洋装風の丈の短い唐服はあちこち擦り切れているが、唐紅色の右足に損傷はない。そのことに少しだけ安堵したところで、耳元で再び羽蟲の音がする。
傘を持つ手を横薙ぎにふるった。音は遠ざかり、からからとした少女の笑い声が響く。
「やだやだ、きしちゃんったら! すっごく物騒なんだから!」
「……妖魔ごときが、わたくしの名前を気安く呼ばないでくださる?」
イチルはぐっと前方を睨みつけた。
建物一つ分の敷地には瓦礫の山と夜の闇が落ちている。されど奇妙なことに、周囲の建物には煌々と電飾が灯され、酔った男たちが着飾った女を相手に浮ついた話をしているのである。
ここは夜の華と謳われる深灰東区。どちらが異常なのかと問われれば、間違いなくイチルの目の前に広がる夜闇のほうだ。そしてその異常の原因たる少女は、瓦礫の山の先端に座っていた。
イチルより一つか二つばかり幼く見える彼女は、首筋で切りそろえられた黒髪を揺らして楽しげに手を叩く。
「あっはは。ヒメちゃんがせっかく手に入れた遊びの報酬なんだよ? 見せびらかしたくなっちゃうってものでしょ?」
「発想がお子様ね」
「きしちゃんったら、わっかりやっすーい負け惜しみ! と、いうわけでぇー、さっきの遊びの報酬時間と参りましょう!」
頭のなかを無遠慮に撫でられるぞわりとした感覚に、イチルは顔を強張らせた。また覗かれた。彼女が己の失態を呪う間にも、黒髪の少女はどこからともなく現れた一枚の紙切れを指先でつまみ、鼻歌でも歌いそうな陽気のままに覗き込む。
「ふむふむ、なになに……貴志イチルは匣庭に囚われた黄龍を助けるため、鴻鈞道人からの呪をたずさえて深灰を訪れた。けれど彼女は正しく理解している。自分が偽りの演者であることを」
癪にさわる。心のなかで吐き捨て、イチルは駆け出した。瓦礫の山のふもとまでたどり着くのに呼吸二つ分、そして踏み込みの寸前で呟く。
『転ぜよ、赤鹿』
西域の偏屈な学者が考案したという機械は、正しくイチルの望みに応じた。無数の歯車の噛み合う音とともに、流線型となった唐紅の義足で高く跳躍する。瞬き一つで、建物二階分の高さまで。紙切れから顔を上げた黒髪の少女と目があった。
『幻惑』
女王よろしく余裕めいた笑みを浮かべた少女が、腐る寸前の林檎色の唇を動かして歌う。周囲で羽蟲がざわめき赤紫の霞が立ち上った。迎撃。だからなんだというのか。地面に引かれるようにして落ちるまま、イチルは唐傘を腰元にかまえ、右手を添えて鋭く息を吐く。
『払暁一閃』
起動語、次いで手のひらに歯車の動く感覚。引き抜いたそれは銀の刃となり、羽蟲の群れごと少女を切り裂く。強烈な目眩と少女の笑い声がした。手応えは軽く、少女の姿が溶けて消える。イチルは舌打ちした。さりとて今度こそ仕留めきらんと追撃にかかる。
晩春の空気を雨が叩き始めた。夜を迎えた深灰の、片隅での出来事だった。