第七話 だからこそ、すべての選択が愛しいものなのさ
丹朱の匣庭は主を失ったことで消滅し、あっけなく日常が戻ってきた。
数えて三日の経った蓮安邸は、きたる夏を予感させるような陽気だ。物干し竿で揺れる洗濯物を眺めながら、シロは縁側に拭き終えた昼餉の皿を置いた。そろそろ夏物の衣を準備すべきなんだろうか。すっかり所帯じみてしまった感想を抱いたところで、ずいぶんと賑やかな話し声が届く。
「いやはやまったく、ちーっともビジネスのいろはが分かっておらんのだな! びっくりしすぎて、さすがの吾輩も言葉がでんわ」
「ふふ。そのわりにはずいぶんと喋っているけどねぇ」
廊下の奥から社と十無が姿を現した。シロと目が合えば、十無はにこりと微笑んで膝を折る。
「ありがとう、龍のお兄さん。片付けはやっておくよ」
「いいんですか?」
「もちろんさ。幸い人手は余っているもの」
「ストーップ! ストップだがねェ!」
やたらと人を苛立たせる否定の声を上げたのは社である。今日も今日とて、絶妙に胡散臭くシャツを着崩し、その胸ポケットに一ツ目の人型をのぞかせた男は、黒色眼鏡を押し上げて十無の肩に手をおく。
「慈善事業は聞こえがいいだけなのだよ、十無くん。どんな些細な案件であれ、継続したビジネスに仕立て上げねばねェ!」
「居候のくせに」
シロが顔をしかめてぼそりと呟けば、社の指先が眼鏡から滑った。
「い、居候というのはやめたまえよ。ちょっとした可哀想な宿無しじゃあないか。若造くん、人情も世渡りには大切な要素だぞ」
「どんな些細なことでも仕事にしろって言ったのは、あなたでは?」
「まぁまぁ、龍のお兄さん。そう目くじらをたてないで。蓮安先生の許可もでているわけだし」十無は皿を重ねながら、のんびりと言った。「いくら社さんが華街で泥酔したうえに借金まみれになってしまった最低クソ野郎だとしても、働いて人生をやりなおす機会は与えるべきだよ」
「待て待て、十無くん!? さらっと笑顔で悪口じゃないか、それは!?」
「やだなぁ、悪口じゃなくて事実だねえ」
ショックを受けたような社に皿を手渡し、十無は立ち上がった。シロが手渡した布巾を手早くたたみながら「そうそう」と付け足す。
「花凛堂で買ったラムネを冷やしてあるから、気が向いたら土間においでよ」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
にっこりと笑ってありきたりな返事をした十無は、社の背中を押して歩き始めた。
賑やかな二人の姿を見送ったシロは、中途半端に振っていた手を下ろした。十無と社なんて、三日経っても見慣れない組み合わせだ。されども、これが戻ってきた日常でもある。
シロは丹朱の匣庭を消滅させた。『夜葬の水月』は黒龍がシロに願ったがゆえに生じた力で、人を滅ぼす否定の力だ。それは文字どおり人の命を奪い、その人に関する記憶のすべても消滅させる。
だからこそ、シロ以外に丹朱の匣庭を覚えているものはいない。ここ数日の記憶は上手く改ざんされているようだ。雲龍寺崩落跡で発生した妖魔の群れを蓮安が退治し、その時に十無が行き倒れていた社を発見した。事情を知っているシロからすれば無茶苦茶な筋書きだが、それでもそういうものとして十無達は納得している。さすがに酒に酔った社が使い込んだ金まではなかったことにならず、無一文の男は蓮安邸に身を寄せることになったのだが。
それでもやっぱり、誰も、何も覚えていないのだ。何一つ残らない徹底ぶりは、さすがは黒龍の望みとも言うべきなのか。シロは苦笑いしようとして、失敗した。
ため息をついて、縁側で仰向けになる。晴天が眩しい分、ひさしがつくる影が濃い。また一日、夏に近づいたのだな、と彼は他人事のように思った。そこで視界がかげった。
「辛気臭い顔だなあ」
さかさに映った蓮安は、ラムネ瓶片手に馬鹿にしたように笑い、すぐにシロの視界から消えた。縁側には十分な広さがあるのに、なぜか彼女はシロを押しのけるようにして座ろうとする。シロは仕方なく体を起こし、のろのろと体をずらした。
「まったく、誰のおかげで元の姿に戻れたと思ってるんですか」
「おいおい、訳の分からん言いがかりはやめようぜ、シロくん」大人の姿に戻った蓮安は、うろんな顔でシロを見やった。「もとの姿もなにも、私はずっとこのままだろう」
「はいはい、そうですね」
シロの適当な返事が気に食わなかったのか、鼻を鳴らした蓮安はラムネ瓶のビー玉を底に落とした。軽やかな音を響かせて実に美味そうにラムネを飲んだ彼女は、「それで」と足をぶらつかせながら問う。
「今度はなにを悩んでるんだ、きみは」
「悩んでません」
「こんなに湿っぽい空気をまとわせておいてよく言う」
「真面目に考えてるんですよ」
「考えるって何を」
「選ぶのは、痛みを伴うものだなと」
からんと、蓮安は瓶の中のビー玉を鳴らした。ちらとシロが隣を見やれば、彼女は呆れたような顔をしている。
「思春期のポエム?」
「いや、言い方」
シロが顔をひきつらせれば、蓮安はやれやれと息をついた。
「なんだ。至極真面目な顔をしていたから、よっぽど重要なことで思い悩んでいると思ったのに。よもやそんな低次元なこととは」
「あのですね、蓮安先生? 僕はこれでも真面目に話をしてるんですけど。というか、なんならちょっと傷心気味なんですけど」
「自分で言ってしまうあたり、シロくんは本当に情けないな」
「あなたが少しだって気づかないからでしょうが」
「あーやだやだ、これだから湿っぽい男は!」
「ちょっと蓮安先せ、むっ」
ラムネ瓶を口元に押しつけられ、シロはじろりと蓮安を見上げた。中庭に降りた彼女は、日差しに夜色の唐服をひらめかせてシロをまっすぐに見やる。
「選択とは痛みを伴うものだよ。だからこそ、すべての選択が愛しいものなのさ」
「……お言葉はありがたく頂戴しますが」シロはじっと蓮安を見やった。「この瓶は?」
「それは君に片付けておいてほしいという私の選択。お代は最後の一口」
にやっと笑った蓮安は、シロが文句を言う前にさっさと裏口のほうへ行ってしまった。結局雑用かよ、と呻いたシロの言葉を、瓶の中のビー玉が再び軽やかに鳴って肯定する。
仕方なく口づけた最後の一口は、予想に違わず甘かった。
*****
気づけば匣庭の数が一つ減っていて、しかもそこに関する記憶も記録もどこにもない。それだけで蓮安にとっては何かを察するに十分で、シロが難しい顔をしていたのを見て確信した。
人を滅ぼす力が振るわれたのだ。それならば全ての違和感に説明がつく。龍の力は天帝の意思に等しく、生死聖邪問わずあまねく生命に影響を及ぼす。人の術では及びもつかぬ事象を引き起こすなど、実に容易いことのはずだ。
シロがどういう経緯で忌避していた力を使ったのかは分からなかったし、蓮安は聞こうとも思わなかった。彼はあれこれと考えていた。それでも、後悔はしていないようだった。そういう目だ、あれは。そして、それだけで蓮安にとっては十分だった。
彼は痛みを知っている。人を滅ぼすことの意味も理解している。痛みを抱えて、それでも前に進もうとしている。
もったいないくらいの男だ。まったくもって、女々しいのが玉に瑕だけれど。顔をしかめるシロがたやすく想像できて、蓮安は苦笑する。そこで彼女は、家の裏手にある井戸にたどり着いた。
さて、と気持ちを切り替えて、蓮安は懐から古びた木片を取り出した。
はるか昔に井戸へ沈めた木片がどうして自分の手元にあるのか、蓮安には分からなかった。あるいはシロに聞けばわかるのかもしれないが、やっぱり聞こうとは思わない。聞こうが聞くまいが、やることは何一つ変わらないのだから。
「すまないな、師父。あなたの感傷に浸っている暇は、もうないのさ」
幼い頃にかけた保存のための術が、ぱきりと音を立てて壊れる。そのあっけなさに少しだけ笑ってから、蓮安は崩れ始めた木片をばらりと井戸の中に落として身を翻した。
虹のねもとはきみの中、わたしの中、すべての過ごした時間の中に。幼い頃に無邪気に信じた願いの言葉が蘇ったが、それはもはや、彼女の足を止めさせることはない。




