第六話 これは、あなたの人生でしょ
人払いの術が消えるころには、蓮安はすっかり調子を取り戻していた。
「せっかくだから、役に立つものをもっていかなくちゃ!」と意気込んだ彼女は、細い月明かりを頼りに部屋に散らばった書物を漁っている。
動き回る小さな体を眺めながら、シロは縁側でため息をついた。
「まぁなんというか、たくましいというか」
「む。ほしいもんはぜんぶうばう、でしょ」
「いや、発想が野蛮、痛っ」
ぱたぱたと動く蓮安に足の小指を踏み抜かれ、シロはうずくまった。それを気にするでもなく、蓮安は数冊の書物を前に腕を組む。
「それにしても、どうして、黒色眼鏡のおじさんはしーふーの術をつかえたのかしら」
「呪墨のこと、ですか」
「そうよ。あれはわたしとしーふーだけの術なんだから」
「蓮安先生のは周りに迷惑しかかけてませんけどね」
「むむむ! わたしだって準備する時間があれば、じゅもんくらい正しく言えるもん!」
「じーつにナンセンスな会話が聞こえるな!」
やけに鼻のかかった男の声に、シロ達は顔を上げた。
酒に酔った様子の社が、どこで見つけてきたのか取り巻きの女を数人引き連れて入り口に立っている。蓮安がぐっと眉根を寄せた。
「だれ。その頭のわるそうな女」
「なーはっはっ!! 嫉妬、よきかなよきかな! だがあいにくと、幼女は専門外でねェ! 売り込みは、こちらの麗しいお嬢さんほどに成長してからにしてもらおうか!」
きざったらしく外した黒色眼鏡を取り巻きへ放りなげて社が笑えば、女の一人は慣れた様子で甘い声を上げた。
「んもう、社さまったら! お世辞が得意なんだから!」
「おいおいハニィ、つれないことを言うんじゃないぜえ? これはモチのロン、吾輩の誠意からの言葉ってやつで、」
「ストップ、お客さん? お触りは追加料金よ。はい」
社の不埒な手を容赦なく掴んだ女は、笑顔で電卓を突きつける。彼は一瞬だけぎょっとしたものの、女の美しい目配せ一つで、拳をたかだかと突き上げた。
「むーろん払うに決まっているだろうがねェ!」
取り巻きの女達が歓声を上げる。東区の華街でよく見かけた光景をシロは白けた視線で見届け、蓮安はうるさそうに顔をしかめた。
「しーふー、なにこれ」
「茶番です」
「ちゃばん」
「またの名をいい鴨とも」
「とりあたまってこと?」
「さすが蓮安先生。素晴らしい発想ですね」
「シャァァァラァァァァァップ!」
大げさなほど声を上げた社は、かけてもいない黒色眼鏡を何度も押し上げた。
「まったく聞き捨てならんね! ろくに術も使えんくせに!」
「しっけいな!」蓮安がびっと社へ指を突きつけた。「おじさんこそ、にせもののじ術を使ってるでしょ! あれは、わたしとしーふーだけのものなんですからね!」
「はっ、とんだ言いがかりだがねェ! あれは吾輩が丹朱に願って与えられた力なのだから、本物なのだよ! それにひきかえ、なんだね君たちは! コソドロ同然に家へ忍び込むとは、まったくもって卑怯というものじゃあないか!」
「ひきょうなんかじゃありませ、きゃっ」
「ちょっと待ってください」
飛び出しそうになった蓮安の首元を、シロは強引に掴んで引き戻した。
馬鹿にしたように笑う男を、シロはまじまじと見やる。
「丹朱に願って与えられたと、今言いましたか?」
「あぁそうだとも。なんだね、若者よ。もう耳が遠くなりでもしたか?」
「それは、具体的にはどういった方法で?」
「ああん?」
「どうやって手に入れたかと、聞いているんです。本当に願って与えられたんですか?」
シロが強い口調で問いを重ねれば、社は不愉快そうに顔を歪めた。さりとてそこに否定の色はない。それだけでシロにとっては十分だった。
願って力が与えられるなどありえない。それは願いを叶える龍たる自分にしか出来ない力だ。されど。
例えばここがすでに、誰かの匣庭の中であるならば。
「――あぁやはり、酒精は判断力を鈍らせますな」
柔らかな声とともに社の隣で空気がばちりと爆ぜ、僧服を揺らした丹朱が降り立った。取り巻きの女達が目を丸くするなか、丹朱はにこりとシロへ微笑む。
「どうにも帰りが遅いと心配しておりましたが、まさかこんなところにいらっしゃるとは」
「……十無さんを迎えに行ったんじゃないんですか」
「もちろん。ですが再び雲龍寺に黒の巨人が現れまして、彼の姿を見失ってしもうたのです。えぇもう本当に、某の力不足が悔やまれるところですが」丹朱はそこで言葉を切り、冷ややかに社を見つめた。「いやはや、それにしても社殿。手の内をあっさりと明らかにするのは、びじねすとやらにおいて致命傷なのではありますまいか」
蛇に睨まれた蛙のごとく、びくりと社の体がこわばった。顔が色を失い、額に汗が浮かぶ。
空気が一気に淀む。社の手が不自然に跳ね上がる。嫌な予感に、シロは蓮安を抱えて中庭へ飛び出す。
『厄災をすすげ、流水紋』
社の硬い声とともに、柏手が打たれた。宙を切って、雨あられと濁った黒色の矢が降り注ぐ。そらんじた言葉こそ同じだ。けれど方円は描かれず、そもそも蓮安の使っていた術とも根本的に違う。
「っ、しーふー! やっぱりこの術、へんだよっ!」
「黙っててください、蓮安先生! 舌噛みますよ!」
狭い庭は圧倒的に不利だ。ならばまずは外へと、シロの片足が開いたままの裏口にかかったところで、地面に真白の円が描かれる。
しまった、と思ったときには遅かった。体ごと宙に放り出される浮遊感とともに、シロ達は崩れきった雲龍寺の上空に放り出される。とっさに蓮安を己の腕の中にいれたところで、シロは背中から廃屋の屋根に突っ込んだ。
「っ……」
「しーふー……! 血……!」
「昼の、傷が開いただけです。気にしないで」
「でも」
「それよりも、丹朱の正体が分かりました」
心配そうな顔をする蓮安を片手で制しながら、シロはふらりと立ち上がった。
夜の空気は濁っていて、混沌とした願いが渦巻いている。鈍く痛み始めた頭に顔をしかめながら、シロは言葉を続けた。
「いいですか、蓮安先生。丹朱は妖魔ではない。匣庭の主です。これで全ての謎に答えが出せる」
「どういう、こと」
「蓮安先生と同じように、丹朱も広範囲に匣庭を展開しているんですよ。匣庭は主の全ての願いを叶えるのだから、社に術を与えることも、自在に匣庭の中を移動することも、彼には造作もないことのはずです」
廃屋の屋根が音を立ててなぎ払われた。ひらけた視界の向こうで、社と黒い巨人を引き連れた丹朱が軽やかに手を叩く。
「まこと、ご明察。さすがは龍ともいうべきか。実に頭も冴えていらっしゃる」
「……蓮安先生ほどでは、ありません」
「ふむ。龍ともあろう方が、一介の匣庭の主を評価するとは……あぁですが、そこの小娘。某の匣庭に取り込んだにもかかわらず、弱くなるばかりで黒い巨人にはならなかったのでしたな。そういう意味では、なにがしかの見込みがあるということでしょうか」
黒の巨人は、匣庭の主としての権限を奪われたものの末路なのか。まるで願いを踏みにじるかのような行為に、シロは奥歯を噛んだ。
「なんてことをしてるんですか、丹朱さん。願いは誰かのためであるべきだと言ったのは、他ならぬあなたでしょう。なのに」
「無論、その言葉は真実ですとも。だから某は、そこの術士の願いを叶えて力を与え、寂れた街の人々の願いを叶えて栄えさせてやった。あなたがたにも、ちゃあんと帰るべき家を与えて差し上げたでしょう?」丹朱は満足げに言って両手をあわせた。「ですからねぇ、今度はすべての人が私のために願い、糧となるべきだ。こうやって恩が巡っていくのが、正しき世界の在り方ではありませんか?」
緩慢な動作で黒の巨影が動いた。シロは再び蓮安を抱えて逃げようとする。なれど、あろうことか彼女は地に足を踏ん張り、シロを睨んだ。
「わたしは、にげないよ」
「逃げないって、馬鹿なことを言わないでください! 蓮安先生、あなたじゃ戦えないでしょう!」
「そうよ。でも、しーふーはわたしを手助けしてくれるんでしょ。だったら戦える」
真摯な眼差しにシロは虚をつかれた。そうだ、自分は彼女を助けると言った。その言葉に嘘偽りはない。だが。
「できませんよ」と、シロの迷いを見抜いたかのように丹朱がせせら笑う。
「えぇえぇ、お優しい龍殿には出来ませんとも。あなたは匣庭の成り損ないの巨人ですら殺しそこねた。すべての願いを肯定せざるをえない存在。それこそが、あなたでしょう」
ぎくりとシロの体が強張った。丹朱が目を細める。
「ねぇ、ですから黄龍よ。どうか、某が作った最後の居場所を壊さないでください。これが某の願いなのです」
うなじの龍鱗が逆だった。乞われた願いがシロの体を止めさせる。その手が蓮安から離れる。彼女が物言いたげな顔をした。その瞬間に、社が喚んだ黒色の激流が小さな体を直撃した。
悲鳴もなく、蓮安の体が吹っ飛んで地に落ちる。シロは顔を青ざめさせたが、やはり体は少しも動かない。
社にさらなる追撃を命じ、丹朱はしみじみと言った。
「哀れなものですな、龍というものも。すべての願いはあなたを捕らえる鎖ともなるのですから」
「……や、めてください」シロはなんとか掠れた声を上げた。「彼女はまだ、子供でしょう」
「御冗談を。あれは匣庭を壊したいと意気込んでおるでしょう? ならば某にとっての敵に違いありますまい。それにしても願いを叶える龍が、某に願うとは! 実に滑稽ですな!」
嘲笑に、シロはぐっと拳を握ろうとする。けれどそれさえも、砂に染み込む水のように力が抜けて叶わない。そんな己が情けなくて、信じられなかった。けれどそれが正しいのだと、鱗が肯定するように冷たく疼く。
願いをすべて受け入れ、考えなければいい。自分の意思など関係ない。そうだとも、丹朱の言うとおり。龍が願う、なんて。
「……おかしくなんて、ないでしょ」
小さな声が再び響き、シロは顔を上げた。社に腕を掴まれ、無理矢理に立たされた蓮安はしかし、額から血を流しながらシロを見やる。
「ねがいは自由で平等だって、しーふーが言ったんじゃない。だったら、ねぇ……どのねがいを叶えるか決める自由だって、あるよ。これは、あなたの人生でしょ……」
シロは目を見開いた。動かなかったはずの足を、彼は我知らず蓮安に向けて踏み出す。
蓮安が笑う。社が術を練り上げた左手を上げる。嫌な予感がした。それでもシロは諦めたくないと思った。その時だった。
掲げられた社の手が、暗がりから伸びてきた巨大な黒手に掴まれる。悲鳴をあげる男を持ち上げ、黒の巨人が姿を現した。ご丁寧に蓮安を社から引き離し、シロへと放り投げたそれには、よく見れば赤の一つ目が額についている。
その肩から見覚えのある藤色の髪の少年が顔をのぞかせた。蓮安を抱きとめたシロは思わず声を上げる。
「十無さん……!?」
「ふふ。感動の再会はあとでね」
常のように穏やかに笑った十無は、器用に巨人の腕を伝って暴れる社の左手に触れた。
『壱ノ解錠、吹きて消えよ』
十無の声を合図に、社の手の先に渦巻いていた術が霧散する。
そこで背後から咆哮が響き、シロは飛びすさった。のっぺらぼうの巨人の拳が地面をえぐる。シロは肝を冷やすが、蓮安は何故か声を立てて笑った。
「んふふ! やっぱり、しーふーに運んでもらうのが一番ね!」
「笑ってる場合ですか! あぁもう、本当に呑気だな……!」
「だって、しーふーがわたしを助けてくれるもの」
シロを見上げて、蓮安がにやっと笑う。大人の頃の彼女と何一つ変わらない仕草に、けれど今度はシロも目をそらさなかった。
「えぇえぇ、そうですよ。自由なんでしょう、僕は」
「よろしい!」
尊大に頷いた蓮安は、シロへ竹筒を手渡しながら伸び上がった。内緒話でもするかのように耳元でささやかれた作戦に、シロは半信半疑の目を向ける。
「それって、うまくいきます?」
「ん! りあんさまの言うことなんだから、こんぶにのったつもりで、どーんとまかせなさい!」
「昆布じゃなくて小舟ですし、折角乗るなら大船がいいんですけどね!」
シロは蓮安を腕に抱えたまま地面を蹴った。逃げるのではなく、まっすぐにのっぺらぼうの一体に向かう。
「ちゃんと捕まっててくださいよ、蓮安先生!」
「おうともよ!」
蓮安の威勢のいい返事を合図に、シロは振るわれた巨人の腕に飛び乗り、そのまま駆け上った。周囲の黒の巨人が、同胞の犠牲もいとわずに腕を振るう。その全てを彼は避け、ひしゃげた腕の痛みに呻く巨人の頭を蹴って高く宙に飛んだ。
「壱、参、伍!」
蓮安が叫ぶと同時、シロは竹筒を放った。北を壱として十二に分けた方位――そのうちの三方位に、墨色の糸をなびかせて竹筒が飛ぶ。
『きょくやにうつ、ししょくをそめる! やくさいをすすげ、りゅうすいのもん!』
蓮安の柏手とともに、竹筒によって描かれた紋が輝いた。地面がまたたく間に墨色の奔流となり、黒の巨人数体をまとめて沈める。
丹朱が唾を飛ばして怒鳴った。
「小賢しい! たかが術士の分際で、身の程をわきまえろ!」
「蓮安先生、次が来ますよ!」
重力に引かれて落ちる中、短く警告したシロは身をよじって巨人の一撃目をかわし、二体目の腕を蹴って体勢を立て直した。
『弐、肆、玖、拾――たからかにうちならせ、らいこうのもん!』
シロの放った竹筒が紋を描き、蓮安の合図で稲妻が産まれる。三体ののっぺらぼうの姿が消えた。されど丹朱が指示を出せば、夜闇の奥から失われた数と同じだけの巨人の姿が現れる。
きりがないのは火を見るより明らかだ。匣庭が存在し続ける限り、丹朱の願いは叶えられる。ならばどうすべきかなど分かりきっていて、シロは覚悟を決めた。
地面へ足がつくと同時、蓮安を十無のほうへ放り投げる。
「わ、しーふー!?」
「あとは僕がやります」
蓮安の返事も待たずに、シロは前方へ飛び出した。
巨人の大振りな攻撃に乗じて、再びその腕に飛び乗る。そのまま飛び上がろうとすれば、黒い靄がシロの足首に絡みついた。
丹朱が怒声を上げる。
「龍を捕らえよ!」
巨人の腕が崩れ、黒が八つ手に分かれて立ち上がった。冷たい願いの声が大きくなり、ずきりと頭が痛む。なれどシロは身をかがめ、宙空に手をかざして夜気に漂うわずかな水の気配を捕らえて呟く。
『驟雨の砕刃』
水が細かな刃となって黒を切り裂いた。飛び出したシロはよろめく巨人の肩を蹴って丹朱のもとに降り立つ。
匣庭の主はじりと後ずさった。
「某を討つというのですか。願いを叶える龍が、願いを否定すると」
「えぇ」
「何故ですか!?」丹朱は声を上げてシロを睨んだ。「某はずっと人々の頼みを聞いてきたのですよ! だのに、誰も顧みなかった! 一つだって願いは叶わなかった! なれば少しくらい報われてもいいはずじゃありませんか!?」
「分かっています」シロはそっと息を吐いて再び手のひらを空にかざした。「分かって、いるんですよ」
周囲に響き渡る願いの声も、丹朱が匣庭にかけた願いも、平等だ。痛いほどに分かっていた。分からないはずがなかった。到底叶いそうもない願いを聞き届けてこその龍だ。そう在りたいと、シロ自身が望んだのだ。
それでもと、シロは思う。
「僕は願いを選びます。丹朱さん、あなたの願いを叶えることはできない。誰かを犠牲にする願いを、僕は否定します」
目を見開く丹朱を見据え、シロは呟く。
『夜葬の水月』
澄んだ音を立てて、一振りの槍が手に収まった。白地の柄を黒の紋様が彩るそれは、翡翠色の燐光をまとってほのかに輝く。ずっと拒否し続けてきた人を滅ぼす力だ。けれどそれは、おそろしいほどにシロの手によく馴染む。
その事実を受け止め、それがゆえの痛みも飲みこみ、シロは緩やかに槍を振り上げる。
どこか呆けたような丹朱の胸元へ、槍の切っ先が突き立った。吹き出る血もなく、苦悶の声もなく、ぐらりと揺れた丹朱の体は地につく前に消え失せる。




