72.剣と蘇る想い
※ 文章の終わりにイメージイラストがあります。
ルイスを見つけられないまま月日はさらに流れ、紅葉を迎えた頃。秋晴れの空の下、リックを伴って神殿の森を散策していたリオンは、拾った紅葉をクルクルと弄びながら、何気なく言った。
「リック。私、屯所に行ってみたいんだけど、案内お願いしちゃダメかな?」
「え、また?」
思わずと言った様子で返す騎士に対し、赤茶色のドレスを風に揺らしながら、彼女は首を傾げた。
「またって……。私、屯所に行ったことないよね?」
彼女の言葉に、僅かに碧眼がハッと見開かれる。だが、その目に焦りの色が滲んだのは、ほんの僅かだ。彼は苦笑いを浮かべながら言った。
「いや『また』無茶なお願いだなって……」
「あ、リックってば酷い」
彼の言葉に彼女は不機嫌そうに目を細め、じとっと見つめる。口を尖らせた彼女に、リックは両手を上げ、へらっと笑って言った。
「ごめんごめん。でも、何でまた?」
「見学してみたいなと思ったのと、リックの部屋がどんなところか気になって」
「……別段、面白いもの何もないんだけど、それでも?」
顔をひきつらせながら問いかける彼に、リオンは頬を掻いて言った。
「私が月巫女の力を失うまで、もう一年残ってないし。来月からは儀式続きであまり余裕ないまま、私の誕生日迎える感じになりそうじゃない? ここを出たあとだと、さすがにおいそれとは行けないと思うから、今のうちにって思ったんだけど、ダメ?」
両手を合わせ、上目遣いで『お願い』とばかりに見上げてくる主に、リックは唸りながら思案した後、小さなため息と共に、了承の意を示したのだった。
そうして、二人は約三年前と同様に、屯所を順に見て回る。前回と異なったのは、グレンの目が光っていたこともあり、騎士たちの暴走に遭わないまま、リックの部屋に辿り着いたことくらいだ。
「へぇ、ここがリックの部屋なんだ」
以前とあまり様変わりしていない簡素な部屋を、リオンは興味深そうにぐるりと見渡す。三年前とほぼ同じ反応を見せる彼女の様子に、リックが密かにホッと息をつく。そんな中、彼女はある一点を見て彼の名を呼んだ。
「リック……」
「うん、言いたいことはものすごーく想像つくから、そこから先は言わなくていいよ」
リオンの視線の先にあるのは、雑然とした様子で書類が大量に積み上げられた机だ。今にも雪崩そうなそれに苦笑しながら、彼女は言った。
「反対側はものすごく綺麗だけど、リック一人で使ってるの?」
「……いや、二人だよ」
ほんの一瞬、リックは言葉に詰まったものの、普段と変わらぬ調子で返す。リックの机の惨状とは対象的で、埃も被らず綺麗な机とベッドを見つめる碧眼に宿るのは寂寥だ。
そんな彼の眼差しを追いながら、彼女はやや気まずげにそっと問いかけた。
「その、もう一人の方は?」
「長い遠征に行ってるんだ」
「そうなんだ。せっかくだから挨拶したか……」
言葉途中で彼女の瞳に映ったのは、壁にかけられた一振の細身のロングソードだ。柄尻に嵌め込まれた球体状の翠緑玉が、差し込む陽の光を受けてキラキラと輝く。
それを目にした瑠璃色の瞳が、徐々に大きく見開かれる。剣を凝視して微動だにしない彼女に、リックは訝しげな顔で口を開いた。
「リオン……?」
「……ルイ、ス……」
紡がれた単語に、青碧玉が大きく見開かれる中、リオンの身体が後ろにふらりと傾ぐ。寸でのところで支えたリックが慌てた様子で名を呼ぶ中、彼女は微睡む意識を手放した。
それからリオンが意識を取り戻したのは、翌朝のことだ。鳥の囀りにふと目を覚ました彼女の目に映るのは、見慣れない白い天井。ツンとしたアルコールの香りと額に乗せられた濡れタオルに首を傾げ、ボンヤリと天井を見つめる彼女に、横から声がかかる。
「気がついた?」
呼びかけに振り返れば、そこには眉尻を下げ、不安げに見つめるリックの姿があった。
「私、どうしたの?」
「オレの部屋で倒れたんだよ。熱も出してたから、エマに着替えを頼んでパチル様にも診てもらったんだ」
「……リックの、部屋……」
記憶を辿るような素振りを見せた彼女の顔が、微かに硬直する。そんな彼女の額のタオルを外し、手を当てながら彼は問いかけた。
「熱は引いたようだけど、具合はどう?」
「え? あ、特に何ともないから、平気だよ」
「それならよかった。エマもミリー様も心配して遅くまで付き添ってたから、きっと安心すると思うよ」
「そう、だったんだ。エマはともかく、ミリ―も新体制下での神官長のお務めで忙しいはずなのに、申し訳ないなぁ……」
眉尻を下げて微苦笑を浮かべた彼女の言葉のあと、シンと室内が静まり返る。そこはかとなく重い空気が二人の間を漂う。
そんな中、口を開いたのはリックだった。
「リオン。あのさ、オレに言いたいこととかない、かな?」
恐る恐るといった調子で問いかけた彼の目は、不安げに揺れている。珍しく弱気な彼の様子に、リオンは目を瞬かせて問いかけた。
「突然どうしたの?」
「いや、リオンの不調にも気付けない体たらくだしさ。文句の一つもあるかなって」
頭を掻きながらそう告げる彼の顔は笑顔だが、それでもなお目の陰りは消えない。そんな彼の言葉と表情に、彼女はふっと微苦笑を浮かべて言った。
「何もないよ。むしろ、いつも助かってるし」
「そう?」
「そうだよ。頼りにしてるんだから、私がここを出るまでよろしくね、私の護衛騎士さん」
そう言って彼女が綺麗に微笑めば、小さく息をついてリックもまたぎこちない笑みを浮かべたのだった。
その夜、自室に戻り、一人きりになったリオンは、机の引き出しからある物を取り出した。それは、金のすかし細工でできたブックマーカーだ。ランプの灯りに煌めく瑠璃の飾りに、ポツリポツリと透明な雫が降り注ぎ、弾け散る。
「指切り、したのに……。どうしていないの、ルイス……」
そう呟くと、彼との思い出の品をそっと胸に抱え、彼女は声をあげることなく、ただただ静かに涙を流したのだった。
***
それから半年と少し経った頃のこと。月白色の祭事用のドレスに身を包んだリオンは、活気づいている神殿の空気を余所に、夕顔の塔へやってきていた。
「長い間お世話になりました」
泣きそうな声で感謝の言葉を紡ぎ、彼女は深々と頭を下げる。そんな彼女の前には、ベッドに横たわるクリフ=モルガンの姿。力なく微笑む彼に見送られ、彼女は最上階の部屋を後にした。
扉の外に待機していた礼装姿のリックと合流した彼女は、二人で階段を降りていく。口数少なく地上へ向かう途中、二人が鉢合わせたのは階下から登ってきたセレーナだ。二人に気付いた彼女は、紅玉の瞳を瞬かせて口を開いた。
「リオン……?」
「サラ、こんにちは」
そう言ってリオンは彼女の元まで降りていく。傍に降りて来た彼女に微笑み、セレーナは言った。
「誕生日おめでとう。というか、生誕祭まだ続いてる時間よね? 主役がこんな場所に居て良いの?」
「明日、神殿を出るから、最後に挨拶をしに抜け出してきたの。終わってからだと夜遅くなりそうだったから」
今し方いた塔の上層部を見上げる瑠璃の視線を追って見上げれば、彼女は合点がいった様子で言った。
「ああ。モルガン卿……?」
彼女の問いに、リオンは悲しげに微笑んで頷き返す。そんな彼女に対し、セレーナは上階を見上げて言った。
「最近じゃ起きてる時間の方が短いようだものね、彼」
「うん。少しだけでもお話できてよかったよ。あ、サラとも話したいんだけど、今大丈夫?」
「問題ないわ。今日ばかりはさすがに塔の外に出る許可下りなくて、ちょうど暇を持て余してたところよ」
やや不満混じりの返事にリオンは苦笑を浮かべる。そんな中、セレーナが歩き始めれば、それを追うように彼女もリックと共に階段を登り始めた。
程なくして辿り着いたのは、塔の中程にある部屋。先に部屋に入ったセレーナに続こうとしたリオンは、背後のリックを振り返り言った。
「サラとも二人で話したいことがあるから、外で待ってて貰ってもいい?」
「いや、でも……」
「そう長くはかけないよ。それに、ここが咎を犯した要人のための塔って言っても、サラも私に危害を加えるような人じゃないよ。リックももう知ってるでしょ?」
「それは、まぁ……」
『不本意です』と言わんばかりの表情を浮かべる彼に、彼女は困ったようにくすりと笑って言った。
「二人とも案外似てるところあるのに、結局この三年であまり仲良くならなかったよね」
「似てるからこそ、とも言うかな」
そんな彼の言葉の意味を推し量り兼ねたのか、小首を傾げる彼女に、リックは『それはそれとして』と続けた。
「リオンの言い分はわかった。何か少しでもおかしいと感じたときは、彼女に失礼とかそういうの関係なく絶対呼ぶ事。それだけは約束してくれる?」
「わかった、約束する」
しっかり頷く彼女に対し、彼は不承不承ながらも小さなため息と共に送り出した。
嵌め殺しの窓から差し込む夕陽の光が室内を照らす中、リオンは勝手知ったる様子で、やや固めのソファーに腰かける。そんな彼女を振り返り、セレーナは思案顔で言った。
「この前、エマが差し入れてくれたお茶を出したいところだけど、二人きりだとそうも行かないわよね?」
「私が体調を崩しでもしたら余計な疑いかかりそうだし、気持ちだけ受け取っておくよ。ありがとう」
彼女の返事を予想していたのか、セレーナな苦笑を浮かべ、正面に腰かける。そうして、リオンの生誕祭に纏わる話を皮切りに世間話を始めた。
俗世に出る巫女の降世の儀式をエマと二人で受けたこと。王族や貴族も混ざり、大々的に行われている最中の生誕祭の話。そんな話に花を咲かせていたものの、ふと会話が途切れ、沈黙が降りる。カチカチと壁に埋め込まれた時計が時を刻む中、リオンが静かに口を開いた。
「ねぇ、サラ……」
「何?」
「諦めなければ、私の力は願いを叶える可能性、あるんだよね?」
真顔で彼女が問いかけたそれは、二人が初めて会話を交わした際に、セレーナが地の巫女として告げた忠告だ。その問いに驚いた様子もなく、セレーナは即答した。
「あるわ」
「二十歳になった今でも?」
「ええ。成人したり、処女性を失うことで神と通じにくくはなるけれど、弱まるだけで力そのものが完全になくなることはないわ。神から与えられた命が尽きるまでずっと、ね」
断言された言葉とその内容に、瑠璃の瞳が見開かれる。
「え、処女性を失っても……? それって大地神だからとかじゃなくて?」
「月神も太陽神も、そして、ノトスの星神にも共通することよ。それにリオンたちには聞かれなかったから言わなかったけれど、私、こう見えて今年で二十と五になるし、処女なんて伯爵に拾われる以前に失ってるわ。それでも、気力さえあればこうして力に触れることはできる」
そう告げた彼女の瞳が漆黒に変わる。
「ただし、リオンや星神の巫女の場合は、エマや私のように神の予知や知識、記憶をただ共有するのとは訳が違う。目の色が変わるくらいなら最悪寝込む程度だけど、髪の色が変わるほど力を行使するのは、寿命を削る自殺行為。最悪死ぬということを覚えておいて。じゃないと、リックに私が恨まれかねないし」
ため息交じりに告げた彼女の瞳は、あっという間に元の紅い色に戻る。彼女の言葉にやや呆けていたリオンは、大きくため息をついて苦笑しながら言った。
「聖典、当てにならないなぁ」
伏し目がちに視線を落とした彼女に、セレーナはやや思案した後、再び瞳を漆黒に染めながら静かに告げた。
「大地の記録によれば、リオンの言うそれは、弱まった力を周囲の大半が知覚できず、失われたと勘違いしていたのもあるようね。でもそれを書き記した人は、失われていないことに気付きながら敢えてそう記した節もあるみたい」
「え、気付いていたのに……?」
「月巫女の在り方に疑問と憂いを抱いていたみたいね。結果として偽りを記すことにはなったし、あまり意味を成さなかったようだけれど。でもそれは、月巫女のためを思っての行動だったんじゃないかしら」
「……そう、なんだ」
彼女の言葉を噛みしめるように目を伏せたあと、紅玉の双眸を真っ直ぐ見つめ、リオンは微笑んで言った。
「教えてくれてありがとう。あと、一つだけ謝っておくね」
「……何かしら?」
僅かに緊張した様子でセレーナが問えば、彼女はやや間を置いてそれを言葉に乗せた。
「私はサラのことが好き。だけど、彼が帰ってこない限り、あなたもあなたの大切な人も、許せるかどうか正直わからない」
笑顔で告げられた不穏な言葉に、紅玉が微かに瞠目する。だが、それ以外は動じた様子もなく、彼女は『そうよね』と目を伏せて言った。
「彼の部隊が全滅したと聞いたときは目の前が真っ暗になったし、捕虜になってると知って無我夢中で国を出てここへ来たわ。だから、リオンの気持ちは理解できるつもりだし、覚悟もしてた」
「詭弁にするつもりはなかったんだけど、ごめん。感情が理屈じゃないこと、忘れてた」
「気にしなくていいわ。私の作ったもので、あなたの大切な人が今いないのは事実だもの」
首を左右に振ってそう言ったセレーナは、リオンを真っ直ぐ見つめて続けた。
「だからこそ祈ってるわ。あなたの願いが叶うことを……」
彼女の言葉に、瑠璃の双眸が瞠目する。驚きを露わに見つめる彼女に、セレーナは微苦笑を浮かべて言った。
「私、これでも結構気に入ってるのよ、リオンのこと。最初はどんな性悪女なんだろうって思ってたけど、エマもあなたも想像とは全然違ったもの。彼を守るためとはいえ、あの武器を作ったことを少し後悔したくらいには、ね」
「そっか……」
泣きそうな顔で微笑むリオンを真っ直ぐ見つめ、セレーナは言った。
「せめて彼のことを視てあげられたらよかったんだけど、肝心なところで力になれなくてごめんなさい」
「全然大丈夫って言ったら嘘になるけど、でも、いろいろ教えてくれて助かったよ。だから、ありがとう」
そう言って、泣きそうな顔で微笑む彼女に、セレーナは寂しげに笑って言った。
「叶うならば、次に会うときは仇としてではなく、笑顔で再会できることを願うわ」
「……私も。そうありたいし、そうあれることを願ってる」
そう言って、二人はぎこちないながらも、笑い合って別れたのだった。
***
そうして迎えた生誕祭翌日のこと。晴れ渡る青空の下、神殿の広場前に二台の馬車が留まっていた。公爵家の家紋が入ったその馬車には、それぞれリオンとエマの私物が乗せられていく。
そのすぐ横には、見送りのために集まった彼女らに近しい極々僅かな人の姿。神官長となったミリーと別れの言葉と抱擁を交わしたリオンの前に、グレンが一歩進み出て口を開いた。
「月巫女さま、長年に渡ってのお務めお疲れ様でした」
「ありがとうございます、ヤヌス騎士団長」
「次は社交の場で、公爵令嬢の貴女にお目にかかれるのを楽しみにしております」
穏やかに微笑み頷き返すリオンに、グレンはやや躊躇いがちに言った。
「少々無骨ではありますが、あなたの今後の活躍と無事を祈るお守りとして、受け取って……いただけますか?」
そんな彼の隣から、スッと一歩進み出たのはリックだ。彼の手にあったのは、エメラルドを嵌め込んだ一振の剣。それは以前、彼の部屋で彼女が目にしたルイスの剣だった。
「公爵家より要請があればいつでも駆けつけます。ですがこれからは、常に傍でお支えすることはできません。そんな私の代わりに、こちらを持って行っていただきたいのです」
剣の柄に結びつけられた翠緑色のサテンのリボンが、ふわりと風に揺れる。それを目にした彼女の双眸が大きく見開かれ、瑠璃色の瞳が揺れる。僅かに震える手で、剣を受け取った彼女は、それをそっと胸に抱いて言った。
「ありがとう……」
ハラハラと涙をこぼし、泣き笑いを浮かべる彼女に、リックは驚いた様子もなく、眉をハの字にして悲しげに微笑む。
「護衛騎士でなくなっても、私はいつでもあなたの味方で、あなたの幸せを願っています。それを覚えていてください」
彼の言葉にリオンは、言葉を詰まらせ小さく頷く。そんな二人を沈痛な面持ちで見つめるエマに一歩近付き、グレンは言った。
「エマ嬢も侍女と巫女の務め、お疲れ様でした。またお会いできるのを楽しみにしています。お二人の進む道に、幸多からんことを」
彼の言葉にハッとした様子で、琥珀の双眸が振り返る。真っ直ぐ見つめる彼女に、グレンは口元に笑みを浮かべ小さく頷く。彼の意図を理解したのか、彼女はその顔から憂いを消し、代わりに笑みを浮かべて言った。
「私も、次にお会いできる日を楽しみにしています」
そんな彼女の元に歩み寄ったリオンは、剣をしっかりと胸に抱きしめ、涙を拭いながら言った。
「エマ、今までありがとう」
「月巫女さま……いえ、公女様。そんな水臭いことは仰らないでください。侍女のお役目は解かれますが、近々公爵家のお屋敷に会いに行きます。今度は伯爵家の娘として……あなたの友人として」
エマの言葉に、瑠璃色の瞳が瞠目する。そのあと、涙と共に破顔すると、小さく頷き返した。
そんなやり取りの後、それぞれ馬車に乗り込み、二人は各々の屋敷へと出発した。
そして、その姿を最後に、リオン=レスターシャは公の場から忽然と姿を消したのだった。




