71.偽りの箱庭
※ 文章の終わりにイメージイラストがあります。
薄紅色の花びらが舞う中、支度を終えたセレーナと共に、リックが向かったのは聖湖の畔だ。人通りの少ない道を進み辿り着いた二人を迎えたのは、東屋で手を振るリオンだった。
「リック、サラ! こっちこっち!」
満面の笑顔で手招きする彼女の様子に、二人は微苦笑を浮かべながら進む。それを待ちきれなかった様子で、リオンが駆け寄ってくる。
そうして、傍にやってきた彼女の目が、ふとセレーナの白髪を彩る深緑色のリボンへ向く。風に揺れるリボンを見て、彼女は嬉しそうに微笑んで言った。
「サラ、そのリボンつけてくれたんだね」
「せっかく貰ったんだし、使うわよ。……彼の色だし」
そう言って、セレーナが気恥ずかしげにリボンの裾を摘まむ。そんな彼女に、リオンは首を傾げて問いかけた。
「でも、本当に榛色じゃなくてよかったの?」
「こっちでは大切な人の目の色を選ぶようだけど、ヴォラスでは別に自分が想う相手の色ならなんだっていいのよ。何なら別に、相手の色じゃなくても、お揃いってだけでもいいものだし」
リボンから離れた手が向かうのは、右耳にのみ付けられたルビーのピアスだ。それを愛おしげに触れる彼女を不思議そうに見つめる中、エマの呼び声にリオンはハッとした様子で言った。
「っと、そうそう。もう準備できてるから、早く行こう」
「わか……って、リオン、急に引っ張らないで。危ないでしょ!」
虚を突かれた様子で苦言を呈するセレーナの手を引いて、リオンは小走りで駆けて行く。その背を微苦笑と共に追い、リックは東屋に先にいた銀髪の騎士の傍へと向かった。
「テオさん、お疲れ様です」
「ああ、お前もな」
彼が挨拶を交わした相手は、テオ=ローレンス。細身の軍服を飾るのはローレンス隊を模した百合ではなく、護衛騎士を示す三日月の隊章だ。彼はルイスとグレッグの抜けた穴を埋めるべく、リックの補佐に回った元ローレンス隊の隊長だった。
そんな彼は、お茶の用意をしているエマを含む三人の巫女たちを見つめ、小声で言った。
「ヴォラスの巫女と花見とは……月巫女さまには毎度驚かされるな、ホント」
「あはは……そうですね」
「……まぁ、あのルイスと恋仲だったって話には負けるけどな」
肩を小さく竦めて見せる彼の言葉に、リックは『ですよね』と苦笑を浮かべ、彼の視線を追うように彼女たちを見つめる。
「捜索が打ち切られても、お前は探すのか?」
彼にのみ届くように問われたその言葉に、碧眼が僅かに揺れる。そして、セレーナと笑い合うリオンを見つめ、静かに返した。
「もちろんです。アイツは生きると、そう彼女と約束していたようですし。正直、文句の一つでも言ってやらないと気が済みませんから」
「そうか。ならオレも付き合おう」
投げかけられた言葉に、驚きを露わにリックが振り返る。そんな彼に、テオは天色の瞳を細めて言った。
「いい加減、あの狸野郎の辛気くさい空気を払拭しないことにはオレも気が済まないし。それに、オレたちを騙してた報復を、アイツだけはまだ受けてないからな」
「テオさん……」
「だから、探すならオレにも手伝わせろ」
ニヤリと笑って見せる彼の気遣いに、リックは眉尻を下げ『ありがとうございます』と微笑んだ。
そんな護衛騎士たちに見守られる中、セレーナは東屋の外に見える薄紅色の木と舞い散る花びらを見つめる。晴れ渡る青空に映える幻想的な景色を感慨深げに見つめ、彼女はポツリと言った。
「桜の花、この国に来て初めて知ったけれど、とても綺麗ね」
「でしょ? ここならあまり人も来ないし、今日はすごく天気もいいから見せたかったんだ」
「だからと言って、今日の今日で突然『今からお花見するから来て!』は突拍子なさすぎだと思うわ」
ため息交じりに指摘を受ければ、リオンはあまり悪びれた様子もなく、両手を合わせ、謝罪の言葉を告げる。そんな彼女にセレーナは、ややあって、小さく言った。
「でも、ありがとう。いつも誘ってくれて感謝してるわ」
彼女のその言葉はしっかり相手にも届いたようで、瑠璃色の瞳が驚き瞬く。
「改まって突然どうしたの? もしかして具合悪い?」
「失礼ね。そう言いたい気分だっただけよ」
ツンとした様子で、エマから差し出された銀のティーカップを受け取る。見事な装飾を施されたそれは、彼女がリオンと初めてお茶をした際にも使われたものだ。それを切なげに見つめ、彼女は言った。
「リオンってホント変わってるわよね。最初のお茶会といい、その後といい……。今だってそう。自分に用意された銀食器を、小競り合いばかり繰り返してる国の人間になんて使わせないわよ、普通」
「だって、その方がサラも安心して楽しめるでしょ? 本当は尋問とかを止められたらいいんだけど、そうも行かないのもわかるから、せめて私といるときくらいは少しでもって思ったの」
そう言って申し訳なさげに視線を伏せたあと、彼女は微笑んで言った。
「それに、私は私らしく、私が信じるもののために精一杯頑張るって約束したから」
「約束?」
「そう、彼……と……?」
おうむ返しされた問いに答える彼女の瞳が、困惑したように揺れ惑う。
――リオンはリオンらしく、お前のペースでお前が信じるもののために精一杯頑張ればいい。
彼女の脳裏を姿なき声が過る。それと同時にポツリと、彼女のスカートに透明な一雫が落ちて滲む。屋根のある東屋で一つ二つと染みこんで行くのは、瑠璃から溢れる大粒の涙。
リオンの涙に、その場にいた四人が驚き声を失う。彼らの反応と滲む視界から、自身が泣いていることをようやく把握した彼女は、慌てて涙を拭いながら言った。
「ご、ごめん。何だろうね、急に涙が……」
そう言ってもなお、彼女の涙はハラハラと頬を伝い落ちていく。その涙に、セレーナはグッと唇を噛みしめ、彼女にそっと手を伸ばして言った。
「そんなときもあるわ」
震える華奢な身体を抱き寄せれば、溢れる涙がより一層勢いを増す。そうして、涙を止める術を失ったリオンは、小さな嗚咽と共に泣いたのだった。
それからしばらく経ち、リオンも落ち着けば、ぎこちないながらも花見が再開される。表面上穏やかに笑顔を交わす女性陣に対し、テオはそっとリックを見て問いかけた。
「リック。本当に月巫女さま、このままでいいのか? もしかしたら、彼女の祈りがあれば……」
「だからこそ、です」
燐灰石の双眸が瞬く中、まだ微かに目元に赤みが残るリオンを見つめ、リックは続けて言った。
「彼女自身、恐らく気付いていたんだと思います。自分の命を燃やし、本来の力を使えば或いは、と。ですが、それじゃダメなんです。彼女の命を損ない、最悪その命を失う可能性のある方法だけは、選ばせるわけにはいかないんです。人を頼るのが苦手なアイツが、珍しく自分からオレに頼んできた唯一の頼み、ですから」
そう言って、唇を噛みしめ口を結んだ年若い後輩に対し、テオもまたリオンたちを見ながら言った。
「お前も、随分と損な役回りを引き受けたな」
ゴツゴツとした大きな彼の手が、ポンと労るようにリックの頭を撫でる。彼の言葉と行動に、リックは一瞬だけ泣きそうにその瞳を歪めると、微かに笑って返したのだった。
***
そんな彼らを、夕顔の塔の最上階から見つめるのは漆黒の瞳。舞い散る桜の下で楽しげに笑うリオンを見つめ、彼――クリフ=モルガンは呟いた。
「そうか、グレッグはまだ私を庇い立てしているか……」
そう言って、振り返った先に立っていたのはグレンだ。真顔で立つ彼に、老人は力なく苦笑を浮かべて言った。
「変なところでアルバートに似てしまったな」
「……あなたが記したものは一通り拝見いたしましたが、前の神官長を殺害した当時、立場も運営も今ほど盤石ではなかった神殿に必要な人だからと、彼が庇ったのでしたね」
「そうだ」
小さいながらもしっかり頷き返した彼は、記憶を辿るように続けて語る。
「施しを義務化させ、民から金を巻き上げようという金の亡者が、あのときの私には欲望の権化や穢れにしか見えなくてな……。殺すつもりなどなかったが、気付いたときには彼と机にあった燭台が彼の血で真っ赤になっていた」
そう言って彼は、皺だらけでハリのない右手を見やる。それと同時に過るのは、真っ赤に染まる骨張った手とそこから滴り落ちる他者の命の水。
彼を責め立てる幻影を飲み込むように、その手を握りしめ、彼は言った。
「元貴族というだけでその地位に抜擢され、自らは民のためには動かず、贅の限りを尽くす彼の在り方に常々嫌悪感は覚えていた。しかし、そんな彼を裁きにもかけず屠った私の手こそ、あの瞬間、何よりも穢れていたことに気付きながら、その罪から目を背けた。血塗れの私に怯えながら容認したアルバートも。そして、それに縋ってしまった弱くて愚かだった私も、な」
自嘲気味に語られるそれに、グレンは肯定も否定もしない。ただただ、黙って耳を傾けるばかりだ。そんな中、彼は窓の外で花見を楽しんでいる若者たちを見つめ、静かに言った。
「だからこそ、生まれて間もない月巫女を神殿で保護しようとした。彼女が彼や私のように、俗世でその心を穢してしまわないように。恐らく、アルバートが彼女の母親に手をかけたのは、その交渉が難航の末、決裂したのだろう。両親から理解が得られないとの報は受けていたからな」
「彼からの報告は『孤児院で月巫女を見つけた』だったと記憶していますが、あなたは当時からその可能性をご存じだったのですね?」
確信を持って投げかけられた問いに、僅かの間を置いて彼は小さく頷く。
「彼もまた、私同様にその手を染めてしまったのだと……。そして、その原因が恐らく私にあることも含め気付いていた。気付いていながら、私はアルバートに真実を確かめることもせず、ずっと黙っていたのだ」
「……そして、村の人間もまた、彼女の母親を惨殺した犯人に心当たりこそあれど、姿を見た者はおらず、ほぼ全員が口を閉ざした」
静かに告げられた内容に対し、驚きを露わに振り返った彼を、グレンは真っ直ぐ見つめて語る。
「彼女の父親から聞きました。アルバート=ロウの訪問と彼が語ったことも、それを聞いた当時の村人たちが彼ら夫婦へした扱いも。そして、彼女が攫われたその日、外出から帰った彼が見たものも、残った村人から受けた仕打ちも全て」
淡々とした調子で語るも、膝の上に置かれた両手は固く握り締められている。そんな彼の隠しきれない憤りを見て、クリフは躊躇いがちに問いかけた。
「ライル=フローレスのことを思い出したのかね?」
「ええ。おかげさまで。彼女がレスターシャ公爵の養女となられた日の夜、彼女を取り戻しに神殿へ忍び込んだ彼を説得し、騎士団に引き入れたのは私ですから」
すまし顔で答える彼に目を瞬かせたあと、老人は合点がいった様子で言った。
「そうか。彼が騎士団に入って護衛騎士になるまでに至ったのは、貴殿の助力があってこそだったか」
「友人の名誉のために言わせていただきますが。私はただ彼に道を示し、護衛騎士交代の折、選択肢を与えただけに過ぎません。彼が騎士団にて残した功績は全て、彼自身が日々努力を積み重ね、行動してきた結果です」
ハッキリと言い切られたその言葉には、そこはかとない強い意志が篭もっている。『友人を侮辱するな』と言外に告げる彼に、クリフは目を丸くさせたあと、微かに苦笑を浮かべ、頷きながら言った。
「彼にも向こうで出会うことがあるならば、アルバートと共に詫びを入れねば、な。私たちがそこに行けるかはわからないが」
そう言って、しばし視線を伏せた後、頭を切り替えるようにグレンを真っ直ぐ見据え、彼は続けた。
「だが、グレッグをアルバートのようにさせる気はない。あの子はあの若さでも、自分の罪と向き合う強さと賢さがある。私たちとは違う、まだ間に合う」
訴えかけるような言葉に対し、真紅の瞳は凪いだままだ。静かに耳を傾ける彼に、クリフは皺だらけの手を握りしめて言った。
「あの子の罪は、元を正せば命じたアルバートの罪だ。そして、アルバートに道を踏み外すきっかけを与えてしまったのは、この私だ。その罪を先のある子供に背負わせるべきものじゃない」
そんな彼を見つめ、グレンは淡々と切り出した。
「先立って申し出られた際にもお伝えいたしましたが、彼は恐らく納得しないでしょう」
「わかっている。これは私の勝手な贖罪でしかないからな」
「それでもなお、彼の罪を全て背負うお気持ちに変わりはないのですか?」
やや冷たくも見える柘榴石の双眸に、クリフは怯むこともせず、迷いなく告げる。
「私は、あの子に幸せになる機会を与えたいのだ。今度こそ……」
確たる意志を示す彼をしばし見つめたグレンの口から、小さくため息が漏れる。『仕方ない』と言わんばかりの諦め混じりのそれに、クリフは皺だらけの顔に微苦笑を浮かべて言った。
「最後まで手間をかけさせてすまんな、騎士団長」
「そうですね。まさかグレッグを助けるため、真実を教える代わりに偽の証言を黙認しろ、などと私に仰るとは思いもよりませんでしたよ」
「私の願いを聞き届けてくれたこと、感謝している」
そう言って、老人は腰を曲げて深々と頭を下げた。反目することの多かった相手の最敬礼に、さしものグレンも呆気に取られた様子で目を瞠る。やや間を置いたあと、彼は誤魔化すように咳払いを一つして視線を泳がせながら言った。
「グレッグの存命そのものは、彼の上司である息子たち、そして彼個人を知る騎士たちの願いでもありましたから。それに……」
そこで区切ったグレンは、真顔で老人を見据えて続ける。
「私はあくまでも黙認するだけです。判決を出すのは司法の人間ですし、彼自身が減刑をよしとするか否かは別です」
「判決に関しては祈る他ないな。だが、あの子に関しては、そこまで心配しておらんよ」
顔を上げたクリフは、真っ直ぐ見つめてくる騎士団長に穏やかな笑みを返しながら言った。
「頑固なところはあるようだが、かの騎士たちが願ったのなら、きっとそれはあの子にも届いているはずだ。なんせ、あの子がずっと憧れていた騎士たちだからな」
その言葉にグレンは、その目を僅かに和らげ『そうですか』とだけ返す。そうして、しばし二人の間に沈黙が下りた後、クリフが再び口を開いた。
「騎士団長、迷惑ついでに、もう一つだけ頼まれてくれないだろうか?」
「……何でしょう?」
僅かな間を置いて問いかけたグレンの目が、警戒した様子で訝しげに細められる。そんな彼にクリフは穏やかながら懇願するように言った。
「あの子は、貴殿が護衛騎士と認めるだけの頭の良さも腕もある。だとしても、まだ若く未熟だ。もし私がこの世を去ったあと、あの子が道に迷うときは、できれば私たちの代わりに助けてやってほしい」
彼から投げかけられた願いに、真紅の瞳が困惑した様子で瞬く。そうして、頭を掻きながら彼は言った。
「全くあなた方は、若輩者の私に一体どれだけ背負わせるおつもりなんですか……?」
「前の騎士団長よりも、私とアルバートは貴殿の方がよほど脅威だった。だからこそ、信頼に足る人物だとも思っているよ」
「買い被り過ぎですよ」
大きなため息をこれ見よがしに吐き出すも、彼は伏せていた視線を真っ直ぐ相手に向けて言った。
「ですが、承りましょう。あなたの一世一代の大嘘。その片棒を担ぐと決めた時点で、それは私が背負うと定めたものと同じですから」
そんな真摯な色を伴った言葉と眼差しに、老人は安堵した様子で微笑み、感謝の言葉を告げたのだった。
***
一方、その頃。海鳥の声が響くある海辺では、一人の男が浜に上げられた手漕ぎボートを海に押し出そうとしたいた。
やや強めの日差しを遮るように被ったローブ。そこから覗く男の瞳の色は、エメラルドを思わせる翠緑色だ。その左手首から覗く青と緑と黒の組紐が、潮風に揺れる。
「今日こそは……」
全身を使って押し出そうとするも、木のボートはびくともしない。押し方を変えようと身体を翻した男の身体がぐらりと傾き、砂浜へと顔面から沈みかけたところで、一本の逞しい腕がそれを支える。
無精髭を生やした栗毛の男は、腕の中で朦朧としている状態の彼を見て嘆息しながら言った。
「性懲りもなく脱走するとは……。無茶にもほどがあるだろ、全く」
呆れ声でごちながら、男は彼の身体を肩に担ぎ、木々が生い茂る森へと向かう。男に担ぎ運ばれ揺られる中、彼は遠ざかる海に手を伸ばして呟いた。
「リ、オン……」
切なげに名を呼んだところで、彼の意識は今度こそ闇へと深く沈んでいった。




