68.忘却水と記憶の欠片
※ 文章の終わりにイメージイラストがあります。
嵐の戦いから約七日が経つ頃。満開だった桜も散り、暖かな春の日差しが差し込む神殿の廊下に響く声があった。
「そんな、いくらなんでもそれは……!」
責めるように声をあげたのはエマだ。その顔や足にはガーゼや包帯が見え隠れしている。そんな彼女から、非難めいた視線を受けているのは、額や首、手首に包帯を巻いたリックだった。
彼は、エマを真っ直ぐ見つめ、淡々とした様子で口を開いた。
「今の状態じゃ、またいつ力を暴走させるかわからない。かと言って、起きて錯乱する度に鎮静剤で眠らせ続けるわけにもいかないでしょ」
「……リック様の言いたいことはわかります。わかります、けど……」
ぎゅっと両手を握りしめたエマは、俯いたその顔を歪め、震える声で続けた。
「だからって、忘却水でルイス様との記憶を……。リオンにとって一番大切な思い出をもう一度忘れさせるなんて、そんなの……」
そこまで告げたところで、彼女の琥珀色の瞳から透明な雫が溢れ、こぼれ落ちていく。そんな彼女の両肩に手を添え、彼は眉根を寄せて言った。
「エマ、ルイスの生存が絶望的でも、可能性は0じゃない。オレたちは誰もまだ、アイツの遺体を見たわけじゃないんだから」
「それは、でも……」
「アイツが生きて帰って来たときに、リオンが自分の力に飲まれてしまったら、それこそ元も子もないんだよ」
彼の言葉に、エマは目を見開いて顔をあげる。まじまじと見つめる彼女に対し、彼の碧眼は揺らぐことなく見つめ返す。そんな彼に対し、彼女は胸の前で両手を握りあわせて問いかけた。
「リック様は、ルイス様が生きてると、信じてるんですか……?」
「半分願望だけど、それでもオレは信じてるよ。きっと団長も、捜索に当たってる騎士団のみんなも、信じてるし願ってると思う」
眉尻を下げつつ微笑んだリックは、懐からハンカチを取り出し、彼女の涙をそっと拭う。そんな彼に、彼女は不安げな様子で重ねて尋ねた。
「ルイス様が戻ってきたら、記憶は戻りますか……?」
「わからない。そこばかりは二人次第だし、賭けだね。だけど、団長がルイスから聞いた話だときっかけがあれば戻るものらしいし、可能性は十分あると思う。それはオレよりも、エマの方が詳しいんじゃない?」
首を傾げつつも、確信を持って問いかけられたそれに、エマの目が瞠目する。そうして、やや考え込んだ後、彼女は彼を真っ直ぐ見つめて言った。
「わかりました。私もそれに賭けます」
確かな希望と決心が宿る彼女の顔を見た彼は、申し訳なさそうに微笑んだのだった。
その後、やや緊張した面持ちでティーセットを運び、エマはリオンの自室へと向かう。彼女がノックもなしにそっと部屋に入れば、真昼だというのにカーテンが閉じられ、夜のように暗い。
そんな中、ランプの灯りを頼りにベッドサイドに近付けば、静かに眠るリオンの姿がそこにあった。彼女が近付いたからか、はたまたお茶の香りが刺激になったのか、ふと彼女の目が開く。何度か瞬きをしたあと、傍にいるエマに気付けば、彼女はぼんやりとした様子で口を開いた。
「エ、マ……?」
「リオン、具合はどう?」
「別に何とも、……っ!!」
そこまで言って、リオンがガバッと勢いよく毛布をはねのけて起き上がる。目眩を起こしてふらつきながらも、エマの腕を縋るように掴み、震える声で問いかけた。
「ルイス、は……?」
「……まだ、見つかってないわ」
静かに告げられた言葉に対し、リオンの体から白銀の光が溢れだす。その力で髪を揺らめかせる彼女の両肩を掴み、エマは言った。
「ダメよ、リオン。抑えて」
「なんで止めるの!?」
「リオンが命を削ることなんて、ルイス様は望まないと、そう思うからよ」
真剣な顔で告げられた言葉に、リオンの顔がくしゃくしゃに歪む。
「エマは、エマの好きな人は無事だったから、そう言えるんだよ……」
「リオン……」
「エマにルイスの、私の何がわかるの!!」
彼女の悲痛な怒号と共に、銀色の光がエマの頬を打つ。それは彼女の頬のガーゼを焼き切り、肌を僅かに切り裂いた。
肌を裂く音に、ハッと顔をあげたリオンが見たのは、エマの頬に滲む紅。その瞬間、立ち上ぼりつつあった光が霧散する。そんな中で、言葉と顔色を失った彼女の手をそっと握りしめ、エマは泣きそうな顔で微笑み告げた。
「確かに私は、二人の気持ち全てはわからないわ。だけど、ルイス様がそんなこと望まないだろうってことくらいなら、容易に想像できるわ。リック様と私は、ずっと二人を傍で見てきたんだもの」
彼女の言葉に対し、瑠璃色の瞳から涙が溢れ、頬を伝う。顔を伏せたリオンの涙がはらはらと溢れ、シーツへと滲んでいく。
「ごめん、なさい……」
「気にしないで、こんなのただの掠り傷だから平気よ」
そう言って、エマが抱き締めれば、彼女はいつかのように声をあげて泣いたのだった。
しばらくして、リオンの涙が落ち着いた頃。エマはティーポットのお茶を注ぎ、彼女に差し出した。
「これ飲んで。少しは落ち着くはずよ」
その声も手も、微かに震えていたものの、それに気付くことなくリオンは受け取る。疑うこともせず、寝起きで乾いた喉を潤すように、彼女はカップの中身を全て飲み干した。そうして、幾ばくも経たないうちに、彼女の手からカップとソーサーがするりと抜けて、毛布の上に転がる。
「エ、マ……何か、入れ……」
エマを振り返ろうとするも、強い睡魔に抗い切れなかった彼女の瞼が落ち、その体が後ろに傾ぐ。彼女を抱き留め、そっと横たわらせたエマが見たのは、目尻に涙を残したリオンの穏やかな寝顔。眠りに落ちた主の手を握り、彼女は言った。
「ごめんなさい、リオン……。結局、変えられなくて、こうすることしか選べなくて、ごめんなさい」
謝罪と共に溢れた彼女の涙が、リオンの手とシーツにぽつぽつととめどなく降り注ぐ。
そんな彼女の泣き声に、扉の外に控えていたリックは唇を噛みしめ俯き、空の小瓶をギュッと握り締めたのだった。
***
それから約二月後のこと。リオンはリックと共に、図書館裏の広場に来ていた。ベンチに座り、ボンヤリと空を見上げながら、彼女がポツリと呟いた。
「聖典の改竄に、私の暗殺未遂、かぁ……」
空を見上げる彼女の眼前に広がるのは、どんよりと重い曇り空だ。そんな中、ツバメが低空を飛んでいく。リックの方へ振り返ると、彼女は困ったような笑みを浮かべて続けた。
「団長さんの告発から一月経つけど。副神官長さまのことも、神官長さまが伏せてきたことも、まだ信じられないや。それにリックの部下の騎士様まで巻き込まれてたなんて……」
「そうだね、オレもいろいろ吃驚だったよ」
リオンの言葉に同意を示した彼が、切なげな表情で見つめるのは屯所の方向……正確には地下牢がある方向だ。そんな彼をしばし見つめたあと、彼女は花壇に咲いているラベンダーの花を見つめて言った。
「何より驚いたのは私の力、かな。あと三年もすれば消えちゃって、月巫女でもなくなるなんて……」
「……悲しい?」
彼の問いかけに、リオンが首を左右に振れば、それに合わせて短い青藍色の髪が揺れる。そして、彼女はやや視線を落として言った。
「悲しいわけじゃないの。ずっと、自由になりたい、外へ行きたいって思ってたし。だけど、いざそうなるってわかっても実感わかないっていうか、あんまり嬉しくないの。おかしいよね、なんでだろ……」
そこで言葉を途切れさせ、彼女は押し黙る。膝に置いた両手をぎゅっと握りしめれば、リックを真っ直ぐ見上げ、苦笑いを浮かべて続けた。
「私が狙われた話で、大切な神具まで紛失した出来事だったはずなのに全然思い出せないし。リックの部下だったっていう騎士さまも護衛騎士のはずなのに、顔も全然出てこないし。ここ最近の記憶がすごく曖昧なんだよね」
そう告げた彼女の瑠璃色の瞳が、目の前の騎士の一挙一動を探るように見つめる。そんな中、リックは微かに瞠目したあと、考え込む仕草を見せながら言った。
「ショックが大きすぎたせいかもしれないね。パチル様に相談してみる?」
真顔で答える彼の態度は、至って自然なものだ。いつもと変わらぬ彼の様子を無言で見つめたあと、彼女は首を横に振って再び花壇に目を向ける。そうして、やや沈んだ声で言った。
「他にも、騎士団の人とすれ違う度に、何か気になって見ちゃうの。毎日あちこちで見てるのにね」
「……そっか」
ただ相槌を返すだけの騎士に、小さく息をついて彼女は振り返らずに問いかけた。
「リックも教えてくれる気、ないんだね?」
「……リオンが自分で思い出して受け止められるようになるまでは、ね」
そんな彼の言葉に、リオンが歯がゆそうに唇を噛み締めたときだった。
草を踏む足音が二人の耳朶を打つ。振り返った先にいたのは、二人の男女だ。
一人は飴色の髪の騎士――ハリー=オルコット。もう一人は簡素なモノクロのドレスを身に纏った、真っ白な髪に紅玉のような赤い瞳の女性だ。
やや冷たい空気を漂わせ、近付いてくる彼女を見たリオンは、戸惑いを露に目を瞬かせた。
「あ、ヴォラスの……」
「月巫女さまに何かご用でしょうか?」
リオンを背に隠すように腕を横に伸ばして立ったリックは、冷たい口調で問いかける。射るように見つめる碧眼に対し、白髪の女性は小さく息をついて言った。
「警戒しなくても私には知識以外何もないし、戦うこともできないわ」
「火薬――通称、悪魔の粉を試験的に作り、かの緑の殺戮者に銃なる武器を渡したのはあなただと、そう伺っておりますが?」
「火と物あってこそよ。徴収された研究資料とこの神具のブローチの他、着の身着のままで亡命してきた今の私には、この服のように準備して頂いたもの以外何もないわ」
そこで区切った彼女は、何も持っていないことを示すように、開いた両手をあげる。次いで、辟易した様子で『それに』と続けた。
「後ろの彼にも散々言ってることだけれど。私の目的はマールスの傍にいることと、彼の命そのもの。あなたたちが彼の命を握ってる中で、彼女に危害を加えるなんて愚行、犯さないわよ」
そこまで言ったあと、リックの後ろで困惑げに見守るリオンを見つめ、静かに続けた。
「今は彼女とあなたに話がしたいだけ。それとも、月神の使者はそれすらも許可してくださらないの?」
そう告げた彼女の緋色の瞳が、一瞬だけ黒真珠のような漆黒に転じ、リックを見据える。彼女の変化と言葉に、しばし逡巡した後、彼は警戒心を隠すことなく言った。
「手短に願います」
「……大切なのね、この子のこと」
言葉で答えることはしなかったものの、揺らぎのない碧の眼差しが肯定を物語る。そうして、リックが横に移動することで、リオンは改めて彼女と相対した。
緊張しつつも、真っ直ぐ見つめる彼女に対し、白髪の女性はスカートの裾を軽く摘まみ上げ、優雅な動きで一礼して言った。
「初めまして、レスターシャ公爵令嬢。私はサルト伯爵家の次女、セレーナ=デル=サルト。聞いていると思うけれど、ヴォラスで地の巫女をしているわ」
「あっ……! えっと、初めまして、サルト伯爵令嬢。リオン=レスターシャです」
受けた自己紹介に対し、リオンは慌てて立ち上がり、自らも挨拶を返す。そうして、お互い頭を上げて向き合えば、地の巫女を名乗った白髪の伯爵令嬢――セレーナは、戸惑いを浮かべるリックに対し、小首を傾げながら問いかけた。
「何か?」
「失礼いたしました。てっきり『サラ』という名前だとばかり思っていたもので」
彼の返事に、僅かに瞠目しながらも、彼女はすまし顔を浮かべ淡々と告げる。
「セレーナは私を拾った伯爵が付けた名前で、サラが生来の名よ。今は愛称でしかないけれど」
「左様でしたか」
納得した様子で作り笑いを返すリックを他所に、彼女はリオンを振り返ると、頭を下げて言った。
「彼を助けてくれたこと、感謝するわ」
「彼って何のこと……?」
「わからなくてもいい。ただ、あなたとこの国の先見のおかげで、私は大切なものを失わずに済んだと聞いたわ。だから、そのお礼を伝えたかっただけ」
顔を上げた彼女の背中に、眉をしかめたリックの視線が突き刺さる。威嚇をするようなその視線に、彼女はチラリと振り返ったあと、小さく息をつく。そして、真っ直ぐリオンを見つめて口を開いた。
「そして、これはその見返りに、大地神の巫女として、月神の巫女に送る忠告」
セレーナの言葉に対し、リオンの全身が緊張で強ばる。そんな彼女に、巫女は静かに告げた。
「本当に失いたくないものは、決して諦めないことね。例えそれがどれだけ絶望的でも、あなたが諦めず祈るのなら、どんな願いでも叶えられる可能性はある。そのことを忘れないで」
「え……?」
告げられた内容に瑠璃の双眸は瞬き、碧眼が僅かに見開かれる。猜疑心を露わに凝視するリックをチラリと振り返り、彼女は続ける。
「地の巫女に与えられる恩恵は、大地神ソルが司る開拓の力による神の知識の継承と閲覧。よって、地の巫女としての私の言葉は、神の言葉であり真理よ」
「そのような話は初耳ですが?」
「大地神を魔の神と伝えているくらいだものね。知らなくて当然でしょうし、信じる信じないも、あなたたちの自由よ」
淡々と語る彼女に、リックは難しい顔で押し黙る。そんな中、リオンが恐る恐る問いかけた。
「大地神の司るものが開拓なら、月神さまは何を司っているの?」
「月神フェガリが司る力の根源は拒絶」
「拒絶……?」
当惑した様子でリオンが首を傾げながら、おうむ返しに復唱する。それにしっかり頷き返し、セレーナは言った。
「拒絶による運命の剪定と書換。これがあなたを始めとする、オストの神官や巫女たちが祈りと称する力と奇跡の正体。そして、その影響を一番受けているあなたには、それを叶えられる可能性がある、という話よ」
真剣な色を帯びたルビーの瞳に、リオンは気後れがちに戸惑いながらも頷き返す。それを見て、小さく息をついた彼女は言った。
「伝えたかったことはそれだけ。時間を取らせてごめんなさいね」
それだけ告げると、話は終わりとばかりに、セレーナはくるりと踵を返す。そうして、やや離れた場所にいるハリーの元へ向かう。その道すがら、リックとすれ違う際に、顔色を変えずに微かな声で告げた。
「現実から目を背けさせることが、本当にその子と月神のためになるかどうかは、よく考えることね」
彼女の言葉に、碧眼が僅かに瞠目して固まる。しかし、彼の返事を聞く気がないのか、彼女は足を止めることなく、その場を去っていった。
そんな彼女を唖然とした様子で見送ったリオンは、言葉を失ったままのリックの袖を引いて問いかけた。
「彼女が言ってた彼って、捕虜になってるヴォラスの兵士さん、だよね?」
彼女の問いかけに、リックはハッとした様子で彼女を振り返る。キョトンとした様子で首を傾げる彼女に、彼はへらっと困ったような笑みを浮かべて言った。
「そう、だね。大人しく監視下に入った代わりに、騎士立ち会いの下、その捕虜の面会に毎日地下牢に行ってる、とは聞いてるよ」
「そっか……」
そう言って、リオンはセレーナが消えていった方を切なげに見つめた。そんな彼女の様子に、リックは思い詰めた様子で口を開きかける。だが、彼はそれを言葉にしないまま、拳を握りしめ空を見上げた。徐々に墨色に近付く空を見た彼は、笑みを貼り付け、主を見て言った。
「リオン、雨が降りそうだから、そろそろ部屋に戻らない?」
「うん。わかった……」
そうして二人もまた、その場を後にしたのだった。
リオンが自室に戻れば、彼が予想した通り程なくして雨が降り始める。一人、本を読んでいた彼女は、冷たい雨を窓越しに見つめたあと、机の引き出しを開く。そこに並ぶのはいくつかの栞。
その中から、金の透かし細工でできたブックマーカーを取り出し、彼女は首を傾げた。
「こんなもの、私いつ……」
彼女が手にしたのは、薔薇と三日月をモチーフにした金細工だ。紐の先につけられた瑠璃と思しき石が、ランプの灯りで煌めき揺れる。リオンが訝しげにそれを見つめていたときだった。
――リオン。
彼女の脳裏に、優しい響きを帯びたテノールの声が響く。名を呼ぶ声に驚き、弾かれたように背後を振り返るも、そこには誰もいない。
首を傾げつつ、手したブックマーカーに目を落とせば、ぽたりぽたりと雫が零れ、弾ける。それに対し、彼女が自身の目元に手をやれば、止まることなく溢れる涙がその手を濡らす。
「え、なんで私、泣いて……?」
手の甲で拭っても、次から次へと伝う涙に、彼女は戸惑った様子で天井を見上げ問いかけた。
「ねぇ、どうして、私の名前を呼ぶの? なんで私こんなに胸が苦しいの? あなたは……誰?」
そんなリオンの言葉は、五月雨に紛れ、誰に届くこともなく消えていったのだった。
 




