5.疑惑
※ 文章の最後にイメージイラストがあります。
満月の夜からしばらくたったある日のこと。背筋を伸ばして立つリオンは、透明感のある声で祈りの詩を静かに紡いでいた。
祈り場と呼ばれるそこは、ステンドグラスで神聖幾何学的な月を描いた東壁を除き、三方を引き戸で囲む建物だ。広さは騎士団の一個大隊が入るか否か。中央に設置された豪奢な祭壇を照らすのは、天井一面にはめ込まれた大きな天窓から差し込む光だ。昼は太陽、夜は月の光に照らされ、神秘的な様相を醸し出す祭壇の中央に彼女はいた。
リオンの目の前に鎮座し、青白い輝きを放つのは、オスト神聖国の守り神――月神のご神体である大きな月長石。壁画とご神体の真正面に立つ彼女の傍には、共に祈りの詩を紡ぐ複数人の巫女と神官の姿があった。
祭壇下へ目を向ければ、数十名の巫女と神官が跪き、厳かに祈りの詩を紡いでいる。祭壇の階段すぐ横には、巫女と月巫女の侍女を兼任しているエマの姿もあり、主を窺いつつ、彼らと同様に祈りを捧げていた。
一方、リオンの護衛であるルイスはというと、リオンの背中側――西側の出入り口のすぐ外にいた。彼がいる場所を含め、開け放たれた三方の引き戸の周辺には、数名ずつ騎士が配置され、周囲の警戒に当たっている。
その中で月神へ祈りを捧げる巫女姫の背中に、満月の夜に垣間見せた弱さは見受けられない。そんな主の背中を難しい顔で遠目に見守りながら、首から下げたペンダントの先端――月と一本の剣を象った意匠を、ルイスが握り絞めたときだった。
「ルイス、調子の方はどうだ?」
背後からの呼びかけに振り返れば、真紅のマントを靡かせ、歩み寄る一人の男性の姿。首元で括ったざっくばらんな黒髪と軍服の肩章を揺らす彼の左胸元で、三日月と二本の剣を象った軍章が煌めく。
右隣に並んだ彼の背は、細身のルイスよりも頭半個分ほど高く、その体躯は軍服の上からでも鍛え上げられていることが容易に伺える。そんな彼を見上げたルイスは、握り締めたペンダントを放し、敬礼をしながら口を開いた。
「団長、お疲れ様です。こちらは特に異常ないです」
彼の返事に黒髪の男――騎士団長グレン=ヤヌスは深紅の瞳を細め、満足げに頷く。次いで、祭壇に立つリオンたちを見つめたグレンは、憂い顔でポツリと言った。
「有事を除き、騎士は祈り場への立ち入り禁止、というのはどうにも落ち着かないな。事が起きてからでは手遅れになる可能性もあるというのに」
「……団長。気持ちはお察しいたしますし同感ですが、そういった話はせめて屯所内でお願いします。万が一神官長さま方の耳に入れば問題になるかと」
「おっと。この前、神官長殿とやりあったばかりだし、さすがにそれは避けないとな」
敬礼を解いたルイスがジト目で指摘すれば、グレンは明後日の方向を見やりながら口元を押さえた。そんな彼に、ルイスは躊躇いがちに問いかけた。
「いつもの、でしょうか?」
「ああ」
「……申し訳ありません」
彼がそう言って、眉尻を下げて目を伏せれば、グレンは振り返りざま、柘榴石のような双眸を瞬かせて問い返した。
「なんでお前が謝るんだ?」
「最近、以前にも増してそう言った話が増えたのは、護衛騎士の体制変更の一件があったからだと思いますので」
「ああ、そのことか。お前が気にする必要はないぞ」
合点がいったと同時に、彼は快活に笑って返す。だが、納得が行かないのか、ルイスの視線は下がったままだ。そんな彼に、グレンは小さく息をついて言った。
「そもそも、騎士一人だけで昼夜問わずに護衛をする、という手段に無理があったんだ。騎士は使い捨ての駒でも道具でもない。前々から変えたいとは考えていたことだ。どうして神官長殿が一人体制にああも固執しているのかは、未だによくわからないがな」
がっしりとした肩を竦める彼を、翠緑玉の双眸が真意を探るように見つめる。それに対し、グレンは真顔で告げた。
「何もお前のためだけにしたわけじゃない。月巫女さまを守るため、引いては騎士団のためだ」
「……わかりました」
渋々といった様子で理解を示す部下に、グレンは困ったように苦笑を浮かべる。
「月巫女さまの護衛になったら多少丸くなるかとも思ったが、相変わらずか」
彼の言葉に、ルイスはムッとした様子で眉を寄せて見上げた。
「私の性分など、とうの昔からご存じかと思いますが?」
「昔はまだ可愛げがあったのにな。一体誰に似たんだか……」
「知りません。どこかのお人好しで自分の立場等を省みないどなたかのせいじゃないでしょうか?」
取り付く島もなく祭壇の方へと視線を戻す彼に、グレンはため息混じりに小さく肩を竦めたのだった。
しばしの間、二人は他の騎士同様に周囲を警戒すると共に、祭壇で祈りを捧げるリオンの後ろ姿を静かに見守っていた。そんな中、不意にルイスは上司を振り返り見た。
「団長、お尋ねしたいことがあるのですが、いいですか?」
「なんだ?」
問うことを許可した彼に、ルイスはわずかに逡巡した後、意を決したように問いかけた。
「私が月巫女護衛に着任する際に、神殿側から言付かった情報制限の制約ですが、具体的にはどの辺りから罪に問われるかご存じですか?」
「判断に悩むところではあるが、少しでも抵触しそうだと思うことは避けるに越したことはないだろうな。……何かあったのか?」
「いえ、今のところは特に。ですが、月巫女さまの行動力と好奇心旺盛な性格を考慮すると、いずれは起き得ることかと」
「そうか……」
ルイスの返答に団長は微かに眉を顰めた。そして、周囲にいる他の騎士の立ち位置をちらりと確認すると、声を顰めて言った。
「念のため言っておくが、行動と判断はくれぐれも慎重に頼むぞ?」
「それはもちろん心得ています」
彼の態度と返事に戸惑った様子で目を瞬かせながらも、ルイスは頷き返す。そんな彼にグレンは、釘を刺すように重ねて言った。
「オレたち神殿の騎士は、月巫女を始め、神殿全てを穢れから守るためにいる。巫女たちの処女も含め、だ。極々一部の例外こそあるが、基本的に守護者であるオレたちが穢す側になることは許されない。それもわかっているな?」
「もちろんです」
今度は迷いなくしっかり頷き返す彼に、グレンはホッと息をつく。そして、少々考え込んだ後、彼は意を決したように尋ねた。
「ルイス、お前は前任者のことを覚えているか?」
「いえ……。報告書で名前こそ把握していますが、個人的にあまり関わりが無かったからか、彼がどんな人物だったかは全く」
「何故解任されて、今騎士団に居ないのかについてはどうだ?」
「月巫女の何か不興を買ったとか何とか、そんな噂程度で実際のところは知りません。それが何か……?」
言わんとするものが見えないのか、ルイスは訝しげにグレンを見上げる。そんな彼に、グレンは声量をさらに抑えて言った。
「証拠のない推測話になるが、忘却水が使われた可能性が高いとオレは見ている」
その内容に翠緑色の瞳が大きく見開かれる。至って真面目な顔で告げた上司に対し、ルイスは無意識にごくりと唾を飲み込んで問いかけた。
「何故、と伺っても?」
「オレ自身が前任者の性格はおろか、顔すらも思い出せない点だな。報告書から垣間見える経歴と立場を考えれば、直接話したことは何度もあるはずなのに、だ」
団長の言葉に、ルイスの背筋をゾクリと冷たいものが伝う。
「まさかとは思いますが、私も忘却水を使われている可能性がある、なんてことは……?」
「可能性は高い。昔の遠征の記録も確認したが、お前と一緒に隊を指揮していたものがいくつもあった。『自分の隊長でもあった男を忘れる』なんてこと、あり得るか?」
「……いえ、ないですね。普通ならばあり得ません」
何度も任務を共にしたことのある上官だった人物の顔も姿も思い出せない、そんな薄気味悪い現状にルイスの顔色は微かに蒼白になっている。
「それとなく他の団員にも聞いてはみたが、皆、噂話程度なら知っているが、彼個人を知るヤツは一人も居なかった。つまり……」
「少なくても騎士団全体、下手をすれば……」
「そういうことだ」
「ですが、何故……?」
彼の脳裏に過るのは、いくつもの『何故』という言葉。それと同時に彼が信じていたものが、徐々に揺らいでいく。
「報告書から見えてくる人物像は、お前とそこまで大差ない。違うとすれば、お前よりも多少考え方が柔軟だったらしいことくらいか」
「……それ、今関係ありますか?」
少々不満げな様子でルイスは尋ねたが、団長は至極真面目な様子で続けた。
「ある。いくつかある制約のうちどれかに対して、彼は抜け道を見つけて実行に移した。或いは、自分の立場を利用して何かを企てた可能性があるんじゃないか、とオレは睨んでいる。そしてもし、それが事実だとしたら……」
「下手な行動を取ればオレも二の舞、ということですか?」
無言で頷く団長の様子に、ルイスは爪痕が残るくらいにきつく拳を握りしめた。そんな彼を見て、グレンは静かに言った。
「お前を後任に選んだ理由は剣の腕だけじゃなく、任務に対するその真面目さだ。しかし、お前は少し優しすぎるきらいがある。だから、今ばかりは頼む。あまり情に流されてくれるなよ……?」
彼の言葉に、ルイスは得体の知れない現実に対する戸惑いなど様々な感情を飲み込み、小さく頷くことしかできなかったのだった。
***
その夜のこと。
「ねぇ、ルイス」
金や銀を使った上品な細工の施された扉に背を預けて立つのは夜着姿のリオン。そんな彼女が呼んだのは、姿こそ見えないが、いつも彼女の傍にいる騎士の名だ。
「なんだ?」
彼女の呼び声に扉越しに返ってきたのは、少々ぶっきらぼうで淡々とした簡潔な返事。いつもと変わらぬその声にほっとしたように微笑みながら、彼女は楽しげに言った。
「ううん、なんでもない」
ドアの向こうでボヤき声とため息が彼女の耳に届けば、楽しげに笑っていた彼女はとっさに口元を押さえた。だがそれはほんの一瞬で、嬉しそうに微笑むと、まるで大事なものを抱きかかえるかのように両手を胸の前で重ねた。
一方、ドアを隔てた反対側に立つルイスはというと、気紛れな主の言動に眉を寄せる。しかし、扉越しに伝わるリオンの雰囲気につられたのか。諦めたように苦笑したあと、彼は廊下の窓から見える夜空を穏やかな顔で見上げた。
そうして、二人のだけのその場には、沈黙の帳が下りる。だが、不思議と居心地のいい静けさにルイスが、口元に笑みを浮かべたときだった。
「ねぇ、ルイス。聞いてもいい?」
「構わないが、また『なんでもない』とか言わないだろうな?」
「言わないよ」
苦笑を浮かべているのがわかる声音で返ってきた言葉に、彼は再度『なんだ?』と問いかける。それに対し、彼女は少し間を置いて言った。
「あのね、ルイスから見た神殿の外の世界ってどんなところ?」
リオンが発した極めて何気ない問いかけ。それに対し、ルイスは目を見開き、凍り付いたように身体を強張らせたのだった。




