61.二人の約束
※ 文章の終わりにイメージイラストがあります。
右も左も見えない漆黒の闇。そんな中を、リオンはあてどもなく一人進んでいた。
彷徨い歩く彼女の傍に、彼女を守る騎士たちの姿はない。そしていつしか、彼女の足音に水音が混ざる。泥を踏むような音に、彼女は首を左右に振って呟く。
「いや……。これ以上、進みたくない。もう視たくない」
だが、震える言葉に反し、彼女の身体は前に進む。そして、ある地点まで辿り着くと、どれだけ願っても止まらなかった足が止まる。
そんな中、キラリと光るものが彼女の視界に映る。光の射さない真っ暗闇の中で煌めいたのは、一本の白刃。闇の中、浮かび上がる刃を伝いこぼれ落ちるのは、赤い命の水だ。
それにギクリと彼女が身体を強張らせれば、暗闇の中、二つの人影がぼんやりと浮かび上がる。
彼女に背を向けて立つ逞しい背を彩るのは、真紅と首もとで括られた黒髪。そのさらに奥にいたもう一人は、彼女を守ると誓った騎士だった。
彼の胸に突き刺さる剣に、彼女の口から悲鳴が上がる。駆け出そうともがくも、壁に阻まれるかのように、彼女は彼らに近づけない。
そんな彼女を、光を失いつつある翠緑玉が見つめる。彼女の名を口にした直後、彼はくず折れ、闇に沈んでいく。
「なんでっ!? 父親の貴方がどうしてっ……!」
その声に呼応するように、感情を失った真紅の瞳が振り返る。その顔を覆う返り血が、涙のように彼の頬を伝い、流れ落ちていく。しかし、彼女が瞬いた瞬間、それは揺らぎ姿を変えた。がっしりとした体躯は小柄な少年のものへ、黒から胡桃色に変わった髪を揺らし、彼が口を開く。
「あなたがいるからですよ」
昏い紫紺の瞳と冷え冷えとした言葉に、リオンの瑠璃色の瞳が大きく見開かれる。愕然として言葉を失い、膝から崩れ落ちた彼女に、赤く染まった剣を手に彼が近付く。
それと同時に、どこか遠くから彼女の名を呼ぶ声が聞こえる。だが、うちひしがれる彼女は、それに耳を傾けることもなく、振り上げられた剣先を力なく見上げ、そっと涙に濡れる目を閉じて言った。
「それならいっそ、最初から私のことを……」
その瞬間、少年の姿が揺らぎ、深緑色の髪の青年へと変貌すると同時に、耳をつんざくような爆発音が鳴り響く。その音に目を見開いた彼女の耳朶を打つのは、途切れ途切れに彼女の名を呼ぶ声。それと共に、彼女の目の前にいる男は、煙のように闇へ溶けて消えていったのだった。
***
「リオン!」
切羽詰まった声と、身体を揺さぶる力に、リオンはハッと目を見開いた。
涙でぼやける彼女の視界に映るのは、つい先ほど闇に沈み消えたはずの人。その顔に焦燥の色を滲ませつつも、ランプの灯りに煌めく翠緑色の瞳は、生気に満ちていた。
それを認識するや否や、彼女は彼に抱きついて、その名を呼んだ。
「ルイスっ!」
ぎゅうぎゅうと締め付けるように抱きつかれた彼――ルイスは度肝を抜かれた様子で目を瞬かせる。戸惑いながらも、小刻みに震える華奢な身体をそっと抱きしめ返し、彼は問いかけた。
「何か……視たんだな?」
確認に程近い問いに返されたのは、無言の首肯。耳をすませば、微かな嗚咽が彼の耳朶を打つ。そんな彼女の背中をあやすように、そっと撫でながら彼は続けて問いかけた。
「初めて視たのか?」
彼女の首がふるふると左右に揺れる。否を訴える彼女に、彼は眉を顰めた。
「もしかして、何度も視てたのか?」
彼女からは肯定も否定も返らない。しかし、強張った身体と彼女の無言は肯定を示していた。
――今朝、少しだけ夢を視たの。それが現実になったら怖くて、それでいてもたってもいられなくて……。
ルイスの脳裏を過ったのは、二人が想いを通わせた夜、彼女が言った言葉。彼女自身が約束を僅かに曲げ、ルールを破ってでも急いで想いを伝えようとした理由だった。
それが今、彼の腕の中で震える彼女の一連の行動と共に、彼の中で一つの線となり繋がる。行き着いた答えに、彼は眉間の皺を深め、遣る瀬ない様子で言った。
「今まで気付けなくて悪かった」
彼の言葉に対し、彼女はぶんぶんと首を左右に振る。『ルイスは悪くない』と言わんばかりの彼女の行動に、彼は微苦笑を浮かべ、彼女の頭を撫でた。
パチパチと薪の燃える音が微かに響く中、リオンが落ち着きを取り戻せば、彼は彼女の顔を覗き込んで言った。
「なぁ、リオン。オレがお前に誓ったように、お前もオレと一つ約束してくれないか?」
「何を?」
僅かに鼻をすすりながら問いかける彼女に、ルイスは真剣な表情で告げた。
「この先、例えオレに何があったとしても、五年は生きると約束してくれ」
「なっ……」
彼女の口をついて出た声と見開かれた目に宿るのは、驚きと非難の色だ。収まったばかりの涙を目尻に浮かべ、彼女は睨むように彼を見つめて問いかけた。
「なんで、そんなこと言うの? それじゃまるで……」
「約束を破るつもりはない。ただ、今のままじゃ危なっかしいと、そう思ったんだ」
彼の言葉に、彼女は訝しげに首を傾げる。そんな彼女に、ルイスは静かに言った。
「さっき、お前うわ言で何を言ったか覚えてるか?」
「うわ言……?」
「『それならいっそ、最初から私のことを』」
――コロシテヨ。
最後だけ音にならなかった言葉が、彼の口の動きと自身の記憶により、彼女の脳裏で再生される。ハッと息を呑んだ彼女の頬に手を添え、彼は切なげな表情で告げた。
「お前がオレに生きることを望むように、オレだってお前に生きててほしい。何があったとしても、生きることを諦めてほしくないんだ」
「ルイス……」
「だから、約束してほしい。もしも万一があったとしても、感情のまま本来の力を使ったり、投げ出したりしないと」
哀願するような声音で紡がれた願いに、瑠璃の双眸が不安げに揺れ動く。唇を噛みしめ、泣きそうな顔を浮かべる彼女に、彼は続けて言った。
「辛かったら、いざというときは忘却水を頼ってくれて構わない」
彼の言葉に目を見張った彼女は、責めるような顔で見つめる。だが、本気を物語る彼の目に気付けば、彼女は僅かに俯いて問いかけた。
「約束……しなかったら、どうするの?」
「今この場で眠らせる。そして、ヤヌス家を巻き込むことになったとしても、じい様のところに置いていく」
半ば脅しのような台詞に、彼女は顔を歪め、彼の胸を力のない拳で叩きながら言った。
「ずるいよ、そんなの……」
「悪い。でも、例えお前に恨まれたとしても、これだけは絶対に譲れないんだ」
揺るがない意志を示す彼に、彼女は結んだ唇を戦慄かせる。俯いたまま、リオンは彼の胸に額を当て、震える声で問いかけた。
「五年の、理由は……?」
「お前とオレの年齢差」
「……ルイスと同い年になるまではダメってこと?」
「そういうことだ」
真顔で即答された言葉に対し、彼女は顔を上げずに自嘲気味に言った。
「約束しても、守れないかもしれないよ?」
「そのときはオレが向こうから追い返してやる」
告げられた言葉に、唖然とした様子でリオンが顔を上げれば、そこには切なげな笑みを浮かべたルイスの姿。その目に浮かぶ懇願の色に、彼女は泣きそうな笑みを浮かべて言った。
「何それ、酷いなぁ、もう。そんな顔されたら、私……頷く以外、できないじゃない」
掠れ震える声と共に、彼女の目から涙がハラハラと零れ落ちる。震える華奢な体をギュッと抱き締め、彼は小さく言った。
「すまない」
「……私との約束、破ったら……絶対、許してあげないから……。謝ったって、許さないんだからね」
「わかってる。ありがとな」
そんな彼の背に腕を回し、離すまいとばかりに彼女もまた抱き締め返したのだった。
それから、しばらく経った後。ルイスにピタリと寄り添いながら、ランプの灯りをぼんやり見つめていたリオンは、ポツリと言った。
「ねぇ、ルイス。護衛騎士のペンダント、持ってきてるよね?」
「もちろん。月の剣の話もあるし、常に服の中に下げてるぞ」
そう言って、ルイスは首元から護衛騎士の証を取り出す。それを見つめたリオンは、徐ろに自身のペンダントを外し、彼に差し出しながら言った。
「それ、私の神具と交換して」
「……は?」
思いがけない彼女の行動に、間の抜けた返事をして彼は瞠目する。数拍置いた後、彼は慌てた様子で言った。
「いやいや、お前にとって大切なものだろ。それを交換なんて……」
「貸すだけだよ」
ピシャリと告げられた言葉に、彼の目が当惑した様子で瞬く。戸惑う彼を真っ直ぐ見つめ、彼女は言った。
「今日の事が済むまでの間だけ、組紐と合わせて、お守りの一つとして貸すの」
彼女の言葉を受けた彼は、目の前で揺れる神具を見つめた後、再度リオンを見つめて問いかけた。
「それでお前の気持ちは落ち着くのか?」
「少しは……」
「……わかった」
了承の意を示した彼が、ペンダントを首から外せば、何もなくなった首元に、リオンの手で神具がかけられる。そして、代わりに彼の護衛騎士の証が、彼の手で彼女の首にかけられた。本来の持ち主の手から離れたそれらを見た後、リオンは微かに笑みを浮かべて言った。
「私とお父様を繋ぐ唯一のものだから、必ず、返してね?」
震えを帯びた彼女の声に、ルイスは堪らない様子で彼女の頬に手を伸ばす。そうして、交錯した瑠璃と翠緑玉がそっと距離を詰める。徐々に閉じられ、間近に迫る瞳を見つめていたリオンだったが、その距離がほぼ0になった瞬間、その目は大きく見開かれた。
ややあって、解放された彼女は唖然とした様子で、ルイスの顔――特に唇を見つめる。そして、時間の経過と共に、今しがた起きたことを理解したのだろう。顔を真っ赤に染め上げた彼女は、自身の口元に手を当てる。混乱した様子で口を開閉させる彼女に対し、彼もまた頬を染め、自身の口を手で覆い、視線を逸らして言った。
「わ、悪い……。その、無意識で……」
「むむ、無意識って……」
耳まで真っ赤に染め、今にも湯気が出そうなほど顔を染めたリオンは、しどろもどろになりながら言った。
「ルル、ルイスはっ! その、無意識でこういうこと、他の人にもするの? エマとかリックとか」
彼女の口から飛び出した内容に、ギョッとした様子でルイスが振り返る。
「ばっ……! エマはまだしも、なんでそこでリックが出て来るんだ!」
「だ、だって、ルイスと仲いいし。というか、エマは否定しないの……?」
「男同士の発想がお前の口から出たのに驚き過ぎただけで、エマにだってしないっ!」
リオンに負けず劣らず、赤面した彼の言葉に、瑠璃が瞬く。『なら何故?』と言わんばかりの彼女の視線に、彼は視線を彷徨わせながら言った。
「これ以上、お前を泣かせたくないと思ったら、その……思わず身体が動いてたんだ」
決まり悪そうに言った彼は、『悪かった』と謝罪を告げて頭を下げる。そんな彼に、リオンはそっと問いかけた。
「それって、謝ること……なの?」
「その、こ……恋人でも、同意なしにするものじゃないだろ」
頭を下げたままの彼の言葉に、虚を突かれた様子で瞠目した彼女の顔に笑みが浮かぶ。次いで、彼の両頬に手を添えて、そっと顔を上げれば、リオンはそっと彼に口付ける。
彼女の行動に今度はルイスが固まる中、彼から離れた彼女は、頬を染めて言った。
「これならお相子、でしょ?」
そう言って照れくさそうに笑う彼女に、彼は目を瞠る。数拍置いて、ふっと目元を緩めれば、彼女と額を突き合わせ、『そうだな』と彼は微笑んだ。そして再び二人の視線が交われば、今度は互いにそっと目を閉じ、唇を重ね合わせた。
それは、運命の戦いが数刻後に迫る夜明け前、小望月が沈む頃の出来事だった。




