60.背負うもの
※ 文章の終わりにイメージイラストが入ります。
ヴォラスの陣営が、リオンとルイスに差し迫るその一方。
十三夜月が沈み、空が徐々に白み始めるそこは、アウローラ・リェスからやや北に離れた小さな街。明けの明星の輝き、鳴き出す鳥の声と共に、街が徐々に起き始める。そんな中、グレンはふと目を覚ました。
彼が滞在している宿の一室は、厚手のカーテンの影響もあり、まだ薄暗い。灯りを絞った壁掛けのランプの脇には、真紅のローブと軍服がかけられている。
欠伸を噛みしめながら起きたグレンは、ベッドを抜け出し、窓辺に歩み寄った。閉ざされたカーテンを開ければ、すり硝子越しに差し込んだ朝焼けの光が、室内を照らす。その光を眩しげに見つめた彼は、着崩したシャツにズボンというラフな出で立ちで、大きく身体を伸ばした。
光と共に入り込んだひんやりとした朝の空気に、グレンは僅かに身震いをする。そうして、彼が自身の軍服に視線をやったときだった。
くぐもった苦しげな声に、彼は弾かれたように背後を振り返る。その先――反対の壁側のベッドには、毛布をキツく握りしめて眠るエマの姿。眉根を寄せて眠る彼女の異変に、彼はすぐさま駆け寄った。
「ダメ……、グレ……」
「エマ嬢!」
宙に伸ばされた手を握りしめ、彼は彼女の名を呼ぶ。彼の呼びかけにふっと開いた瞳は金色に輝き、グレンではない何かを見つめ、さめざめと涙を流す。
自身を認識せず、何かを視て泣いている彼女に、グレンは痛ましげに唇を噛みしめ、彼女の名を呼んだ。
「エマ! 目を覚ますんだ、エマ!」
華奢な肩を揺さぶり、彼は何度も呼びかける。それに反応したのか、瞬きと共に彼女の瞳が、金から琥珀色へと戻っていく。そうして、パチパチと目を瞬かせた彼女は、焦りの色を浮かべるグレンを真っ直ぐ見つめた。
「グレン、様?」
ようやく呼ばれた自身の名と、戻った彼女の意識に、彼は安堵した様子で深々と息を吐く。それに対し、寝起き姿の彼との距離に、当惑した様子でエマは頬を赤らめる。色付いた彼女の顔を見たグレンは、そっと手を離し、手近な椅子を引き寄せ腰かけた。
身体を起こしたエマは、じっと難しげな顔で見つめる彼に対し、頭を下げて言った。
「えっと、その……ご心配おかけしてすみません」
「いえ。何か、視たんですね?」
『気にするな』とばかりに緩く首を振って確認の言葉をかけた彼に、彼女の頭がコクリと上下に動く。彼女の目尻に残った涙を拭いながら、彼は問いかけた。
「それは私に話せるものですか?」
彼の問いに対し、琥珀の視線が彷徨う。しばし逡巡した後、彼女は言葉を選びながら言った。
「これまで視てきたものとは少しだけ違いました」
「未来が変わった、ということですか?」
目を伏せ、彼女は静かに首を左右に振る。
「流れが変わっただけで、結果はまだ……」
そう言って口を閉ざしたエマを見つめ、グレンは思案顔で黙り込む。ややあって、彼は顎に手を当てながら口を開いた。
「エマ嬢。関わる者に先見を打ち明けると、よくも悪くも先見が視れなくなるとのことでしたが、それは本人が自力で辿り着いた場合も同様ですか?」
彼の唐突な問いかけに、エマは目を瞬かせたあと、再び首を左右に振った。
「いえ。経験則ですが、私が内容を打ち明けた場合に限った話です。本人が自力で気付いて回避する分には、視えていたので」
「ならば、私が自ら口にするのは問題なさそうですね」
穏やかな笑みを浮かべる彼の返答に、琥珀の双眸が瞬く。戸惑う彼女に、グレンは静かに告げた。
「先見の中で、ルイスに致命傷を負わせる者。それは私なのではありませんか?」
「なんっ……!?」
『なんで』と言いかけた口を、エマは慌てて両手で塞ぐ。だが、一度紡ぎかけた言葉を戻すことはできない。気まずい空気を漂わせた彼女は、瞳を揺らしながら恐る恐るグレンを見上げる。不安がありありと伺える彼女に、彼は苦笑いを浮かべて言った。
「これまでのあなたの行動から推測したまでですよ」
「私の行動、ですか……?」
訝しげな様子で耳を傾ける彼女に、彼は続ける。
「最初に気になったのは、ルイスたちの捜索に関し、私が誰と行くのかを、あなたが非常に気にしていたこと。まるで私が行くのは確定事項だと知っていたかのように、リックを同行させたがった」
「で、でも、それは先見としての話だと……」
「ええ。私はそう尋ね、あなたも頷いた。そこに嘘はなかったのでしょう。ただ、伏せた事実を言わなかっただけで」
エマの両手が緊張した様子で、キュッと毛布を端を握りしめる。それを見つめながら、彼は言った。
「最初は、敵が私とルイスの手に負えないほどの脅威なのかと考えていました。ですが、ふと考えたのです」
「……何を、ですか?」
ごくりと喉を鳴らす彼女に、グレンは静かに告げた。
「もしも……。そう、『もしも』の話です。ルイスが私に一切の相談もなく、月巫女さまを神殿から連れ出していたら、果たして私はどうしていたのだろうか、と」
彼の言葉に対し、彼女の全身がギクリと強張る。そんな彼女に、彼はただただ淡々と続けた。
「騎士団の責任者として出た結論は、最悪あいつを斬ってでも月巫女さまを連れ戻しただろう、ということでした。それこそ、今回のような建前などではなく、本当に」
それに対する返事はない。口を閉ざした彼女の小刻みに震える手を見つめながら、彼は言った。
「それを前提として考えると、あなたの言葉と行動の意味は僅かに変わってくる。例えば、約八年の間、ひた隠しにしてきた先見の力。それを明かした本当の理由は、私がルイスの敵に回るのを防ぎ、可能ならば味方に引き入れるためだったのではないか、とか……」
彼の言葉に、エマの肩がピクッと小さく跳ねる。言い訳をするわけでもなく、ただただ無言を貫く彼女に、グレンは微かに眉尻を下げて続けた。
「そしてリックを同行させたがったのは、ルイスと私の補助ではなく、万が一の際にオレを止めるための人員。戦場に再び戻ると伝えた私を止めなかったのは、ご自身が身体を張ってでも止める腹積もりだった。……違いますか?」
そう問いかけた彼が見たエマの顔面は蒼白で、その唇は僅かに震えていた。一向に視線の交わらない琥珀色の瞳を見つめ、彼は言った。
「あいつが変わり、私が味方についても尚、未来が変わらないのならば、そうせざるを得ない状況が他にもあるのかもしれない。例えば、月巫女さまを人質に取られた末、同士討ちの殺し合いを要求される、と言ったところでしょうか」
彼の言葉に、エマは俯き、全身をカタカタと震わせる。力が入り、肌が白んでいる彼女の両手を包み込むように、彼はそっと手を添えて言った。
「それでも、あなたが最初、私の出陣そのものを止めはしなかった理由。それは先見ではなく、私個人を信じようとしてくれたからではないか、と思っています」
「えっ……?」
告げられた言葉に、驚いた様子でエマが彼を見上げる。そこには穏やかな顔で見つめるグレンの姿があった。
「あなたから貰った手紙には、私を……特に心を案じる言葉ばかり並んでいましたから。私を冷酷で非道な人間だと思っているのなら、あれらの言葉は出てこなかったでしょう?」
そう言って、キツく握りしめられた彼女の手を、彼の両手がやんわりと外していく。彼の温もりと言葉に、緊張の解けた琥珀の瞳から、ポロリと透明な雫が零れ落ちる。それを皮切りに、彼女の目から堰を切ったように涙が溢れ、頬を伝っていく。
「怒って、ないんですか……? 私、グレン様を疑うような真似をしていたのに……」
「言わなかったのではなく、言えなかったのは百も承知です。その中で、貴女が最善を尽くそうとした結果であることも」
涙に濡れる頬に伸ばされた大きな手に、エマはハッとした様子で慌てて涙を拭う。そんな彼女に対し、華奢な身体をそっと引き寄せ、包み込むように抱きしめてグレンは告げた。
「私に未来を視る術はないし、全てを防げるともお約束できません。だが、改めて、それを防ぐための最善を尽くすと誓いましょう」
「グレン、様……」
静かに告げられた誓いの言葉に、エマは顔をくしゃくしゃに歪め、唇を震わせる。そんな彼女から僅かに身体を離した彼は、涙に濡れて揺れる琥珀を真っ直ぐ見つめて言った。
「だから、少しでいい。話せる範囲でいい。あなたが背負うものを、私にも背負わせてはくれませんか?」
彼の言葉に、エマの瞳が大きく見開かれる。そして、その言葉は同時に、彼女の涙を堰き止めていた最後の壁を壊す一言でもあった。
真っ直ぐ向けられた真摯な瞳と言葉に、彼女はついにしゃくりを上げて泣き出し、グレンにしがみついた。溢れる温かな涙が、彼のシャツに滲んで染みこんでいく。たった一人で重荷を抱え込んでいた小さな背を、彼はただただ優しく撫でたのだった。
それから約一刻後。朝日がしっかりと顔を覗かせる中、落ち着きを取り戻したエマと共に、支度を調えたグレンは馬小屋へと向かっていた。
「エマ嬢。今日はもう少し速度をあげますが、構いませんか?」
「もちろんです」
僅かに目元は赤いものの、笑顔で頷く彼女に、彼は満足げに微笑んだ。――のだが。
「グレン様、鞍を減らすなんて私聞いてないんですが!?」
数分と経たないうちに、エマの口から飛び出したのは苦情だ。二人の目の前に佇む白馬に取り付けられた鞍は一つだけ。それも女性用の横座りのものではなく、男性用の鞍のみだ。
顔を真っ赤に染める彼女の苦情を余所に、グレンは彼女を軽々と抱き上げる。彼女を鞍に横座りさせた上で、その後ろにひらりと跨がりながらグレンは言った。
「これ以上スピードをあげるとなると、あなたの体力などにあまり配慮することは難しいので」
「ま、待ってください。そこは自力でがんば……きゃっ」
彼の腕に囲われる状況に対し、真っ赤な顔で言い募る彼女に反して、白馬が駆け出す。その揺れにエマは、捕まる場所を求め、思わずグレンの胸にしがみつく。徐々に速度と揺れの激しさが増す中、彼は言った。
「時間もありませんし、この方が私も支えやすく、安定もしますから。あなたは私にしっかり捕まっていてください」
それまでと異なる速度と揺れに、エマはただただ必死にしがみつき、コクコクと頷き返す。そんな彼女をしっかりと全身で囲い支え、彼は愛馬の腹を蹴った。
そうして、決戦が翌日だとまだ知らぬ二人を乗せ、白馬は力強く街道を駆けて行ったのだった。




