58.家族の想いと指切り
※ 文章の終わりにイメージイラストがあります。
リックと再会した翌日の昼前のこと。ルイスは一人、秘密基地から少し離れた泉にやってきていた。木製のバケツ二つに湧き水を汲むと、彼はそれを手に歩き出す。
彼が一人、水運びをしている理由。それはほんの少し前に遡る。
***
「湯浴み?」
その単語を同時に発して、目を瞬かせたのはルイスとリックだ。戸惑う護衛騎士たちの様子に、それを告げた彼女――リオンは、おずおずと言った。
「最後に湯浴みしたの、洞窟の温泉だったから、その……できればって……」
彼女の言葉に、訝しむように細められた碧眼がルイスに向けられる。決まり悪そうに視線を彷徨わせる彼に、リックは呆れ返った様子で言った。
「お前さぁ、リオンは女の子なんだから、もう少し気遣いなよ」
ため息混じりに告げられた言葉に、ルイスはややムッとした様子で口を開く。
「宿の浴場だとすぐ傍に控えられないだろ」
「頭固い。賊の元本拠地を転々としてたなら、屋内に一人用の天幕でも張って、湯桶使えば可能だったでしょ。それが難しくても、手拭いで身体を拭くくらいはできたと思うけど?」
彼の言葉に、ルイスは気まずげな様子で唸り口籠もる。そんな彼に対し、リックは『全く』と小さく息をついて言った。
「この辺に水場は?」
「少し離れた場所に泉があるが……」
「じゃあ、オレが水汲んでくるから、その場所を……」
「いや、オレが行く」
即答したルイスに対し、碧眼が瞬く。呆気に取られるリックに、彼は真顔で言った。
「泉も含め、ここは私有地だ。侯爵家の人間が来ないとも限らないからな」
「あー……。万が一、鉢合わせでもしたらオレ一人だと不法侵入になる、か……」
彼の告げた理由に、リックは頭をガシガシと掻いてやや思案した後、不承不承ながらそれを受け入れたのだった。
***
そうして、水汲みに出たルイスは、すでに一往復半歩いた道を戻る。舗装されてはいないものの、整えられた道を歩く中、彼はハッとした様子で背後を振り返った。遅れて彼の耳朶を打ったのは、地面を蹴る蹄の音だ。
彼は咄嗟に辺りを見回し、周囲の木々に影に駆け込もうとした。しかし、水の入ったバケツを両手に持った彼の動きは、普段よりも遅い。それに対し、真っ直ぐ近付いてくる馬の足は速く、隠れきる前に一頭の黒馬が彼の視界に入る。
近付いてくる馬が乗せているのは、貴族と思しき格好の男性。彼を見た瞬間、ルイスは足を止め、翠緑色の瞳を大きく見開いて呟いた。
「じい、さま……?」
そんな彼に相手も気付いたのだろう。彼の傍に毛並みのいい青毛の馬を止める。馬上から真紅の瞳を真っ直ぐルイスに向けると、ひげを生やした老紳士は口を開いた。
「街でそれらしい姿を見て、もしやと思って来てみたが……。やはりお前だったか、ルイス」
白髪交じりの黒髪をポンパドールに整えた彼は、ルイスの実の祖父であり、この地の領主でもあるヤヌス侯爵こと、イーサン=ヤヌスだった。彼に思いがけず相対したルイスは、緊張した様子で固まる。そんな孫に対し、眉間に刻まれた縦皺を深めながら、彼は荘厳な声音で問いかけた。
「グレンから、あの場所を滞在できる程度に整えてほしいと手紙が来て、何事かと思ってはいたが……。こんなところに、それも月巫女さまを連れ出して、お前は何をしているんだ?」
「それは……言えません」
まるで小さな子供が親に言い訳するかのように、彼は視線を落とす。しかし、バケツの取っ手を握る手に力を込めると、彼は真っ直ぐ柘榴石の双眸を見上げて言った。
「ですが、誓って、ヤヌス家の家名に泥を塗るようなことには致しません」
「それだけか?」
「……え?」
返された言葉に、意表を突かれたように翠緑玉が戸惑い揺れる。そんな彼の心中を知ってか知らでか、侯爵は再度静かに言った。
「お前が儂に誓うのはそれだけか、と聞いている」
「……それだけ、と申しますと?」
意味がわからないと言わんばかりの彼に、イーサンは苛立たしげに顔をしかめる。
「貴族の当主が祝祭に参列する決まりくらいは、お前も知っているはすだな?」
「それはもちろん知っています」
即答するも、疑問符が飛び交っているのが窺える孫に、老君は静かに息をついて言った。
「水をその場に置いて、儂の傍に来なさい」
有無を言わせぬ声に、ルイスは両手のバケツを下ろし、一歩近付く。それでもなお近くに寄れと無言で手招きされれば、彼は躊躇いがちに馬に近付いた。
彼が手の届く範囲に来ると、イーサンは腹の底から声をあげた。
「この馬鹿者!」
響いた重低音の怒鳴り声に、木々に止まっていた鳥達が一斉に飛び立つ。羽ばたく音に紛れ、ルイスの脳天に振り下ろされた拳骨が、鈍い音を響かせた。
容赦の欠片もない拳に呻きつつ、ルイスはどうにか踏みとどまる。目を白黒させながら、見上げた彼に、老人は静かな怒りを顕に言った。
「家を出て以来顔も見せず、連絡すらも寄越さない。その上、久々に顔を見たと思った矢先に、月巫女さまを庇って倒れる。そんなお前を見た儂の気持ちが何も想像つかないのか、戯け」
彼の言葉に目を見開き、ルイスは息を呑んで固まった。そんな彼の頬を、皺だらけの骨張った手が恐る恐る撫でる。その体温に安堵の色を滲ませたイーサンは、『儂はな』とそっと続けた。
「儂よりもずっと若い家族が、冷たい骸となって帰って来るのはもう懲り懲りだ。……懲り懲りなんだ」
「じい様……」
切なげな緋色の瞳に、翠緑色の瞳が揺れる。動揺し、やや言葉を失った彼は、じわりと目尻に滲んだそれを隠すように顔を伏せた。
「申し訳、ありませんでした」
僅かに震え、絞り出された掠れ声に、イーサンはそっと孫の肩に優しく手を置く。彼が進行方向に視線を向ければ、目と鼻の先にあるツリーハウスの窓から、リックが顔を覗かせる。次いでその背後からリオンも顔を覗かせれば、慌てた様子で二人が動く。彼女らを見たイーサンは、フッと柔らかく目を細め、ルイスを振り返り告げた。
「何か助けが必要ならば、遠慮なく言いなさい。生き残るために手は抜くな。利用できるものは儂だろうが、グレンだろうが利用しろ」
彼の言葉に、ルイスは目を見開きガバッと顔を上げる。その顔に浮かぶのは焦りと不安だ。
「ですが、それではヤヌス家に迷惑が……」
「そんなもの、グレンが片棒を担ぐと決めた時点で同じだろう。それに……」
そこで言葉を区切った祖父は、柔らかな笑みを浮かべ、目の前の孫の頭を撫でながら言った。
「たった一人しかいない孫の命と比べれば、些末な話だ」
そう告げる間に、リオンとリックが二人の元に向かい、小走りで駆けてくる。焦りの色を浮かべて近付いてくるリオンたちを迎えるため、イーサンは馬を降りた。
そして、彼女らがやってくる前に、呆けた様子のルイスに向かって彼は静かに言った。
「真に己が正しいと信じることならば、お前の選択を否定はせん。だが、自分の命を勘定に入れて守れないのならば、儂はグレンや儂の影を使ってでも、お前を屋敷に引きずり戻す。そのつもりでいなさい」
――やるからには必ず生きて成功させろ。失敗だけは許さないからな。
侯爵の言葉に、以前グレンが投げかけた言葉が、彼の脳裏を過る。それぞれの言葉の裏にある想いに、彼は今にも泣きそうな笑顔で『はい』と真っ直ぐ返したのだった。
その後、半刻ほどが経ち、太陽がやや西へと傾く頃。ツリーハウスの入り口で、イーサンの隣に立ったリックが言った。
「それでは、私は侯爵様をリェスに送り届けて参ります」
「ええ、よろしくお願いしますね、リック」
続けて、彼の隣に立つ侯爵へ向き直ると、彼女はそっと頭を下げて言った。
「ヤヌス侯爵、この度のお力添え感謝いたします」
「勿体ないお言葉です。何かあれば何なりとお申し付けください。どうか月神のご加護があらんことを」
深々と頭を下げたあと、ルイスをしばし見つめた彼は、踵を返すとそのまま振り返ることなく、その場を後にした。
二人を見送り、ツリーハウスの中に戻ると、リオンは彼に微笑みかけた。
「私の言ったとおり、だったでしょ?」
「……そう、だな」
微かに口許を緩めた彼が見た室内の一角には、上質な麻の手拭いに柔らかな毛布と丸い卓上鏡が積まれている。それらは、イーサンが持参してきた追加の備品だった。
ルイスの視線を追うように、それを見て彼女は言った。
「事が済んだら、改めて侯爵様にはお礼しないと、だね」
そんな彼女の言葉に、彼は嬉しげに笑い、頷いたのだった。
リックの戻りを待つ間、室内に幕を張って簡易的な湯浴みをしたリオンは、鏡の前に座り寛いでいた。彼女の髪を梳かすルイスを、鏡越しに見つめながら、徐に彼女は口を開いた。
「ルイス。私、少し気になってることがあるんだけど……」
「なんだ?」
鏡越しに合った翠緑玉を見つめながら、彼女は問いかけた。
「ルイスは、エメラルドの巫女と藍の騎士の恋物語って聞いたことある?」
「エメラルドの巫女と藍の騎士……? なんだそれ、童話か何かか?」
「神殿内では有名な話なんだって、エマ、が……」
行方がわからない友の名を口に出した彼女の声が、尻すぼみに途切れる。沈んだ様子で視線を落とす彼女を、後ろからそっと抱きしめ、彼は問いかけた。
「どんな話なんだ?」
柔らかな口調とその温もりに振り返ったリオンは、泣きそうな顔で微かに笑みを浮かべて口を開いた。
「以前、神殿にいたっていう漆黒の髪にエメラルドグリーンの瞳の巫女が、茶髪に藍色の目の騎士と恋に落ちる話なの。お互い一目惚れで、人目を忍んで隙間時間に会ってたんだって。隠し通路の扉があった広場、あそこがそうなんだって」
「あー……そんな話、騎士団の連中もしてたな」
「その中でね、こんなエピソードがあるの」
耳を傾ける彼に、リオンは人差し指を立てて言った。
「愛を囁くのを、他の誰かに聞かれるわけにもいかない。だからその騎士さまは、月や星を巫女に見立てて、好きを伝えたんだって。『月が綺麗ですね』とか『星が綺麗ですね』って」
彼女の言葉に、彼の瞳が大きく見開かれる。困惑した様子で瞳を揺らす彼に、彼女は首を傾げながら問いかけた。
「ね、ルイス。この話、別のところで聞き覚えあったりしない?」
「……ある、な」
眉を寄せ、気難しげな顔を浮かべた彼は、頭を掻きながら言った。
「二人の特徴を聞いたときから引っかかってたんだが……。オレの両親の話、なんだな?」
「名前までは知らないから、もしかしたらだけど。セシリア様の外見の特徴と元巫女だったって話、あと年齢的にも合致するから、可能性は高いんじゃないかな」
そう告げた彼女に、ルイスは言いにくそうに頬を掻きながら言った。
「もしそうだとしたら、夢を壊して悪いが。単純に言えなかっただけらしいぞ、それ」
「え?」
「以前、新月の夜に星に纏わる話を思い出したって言っただろ? あれは、それを語った母の記憶なんだ。『あの人恥ずかしがり屋だから』ってな」
キョトンとした様子で目を瞬かせた彼女は、クスリと微苦笑を浮かべて言った。
「そっかぁ……。お話の騎士さま、というか、フォルティス様、ルイスにそっくりだったんだね」
「……似てるか?」
「ルイスだって、月に喩えたじゃない」
振り返り様に投げかけられた彼女の言葉に、彼はぐっと唸る。曇りのない眼に対し、頬を染めて視線を逸らしながら、彼はしどろもどろに言った。
「そっ、それは、その……。心の準備もないのに、お前が本音を言えって言うから……」
「……それ、照れてたって言わない?」
その言葉に彼は口をつぐむ。居たたまれない沈黙が、二人の間を漂う。ややあって、ルイスは小さく息をつくと、半ば自棄っぱち気味に口を開いた。
「ああ、そうだよ。そんなの耐性なかったんだから仕方ないだろ」
「じゃあ、やっぱり同じだよね?」
彼女の言葉に、不承不承といった様子で彼は頷く。そんな彼に、リオンは嬉しげに微笑んで言った。
「私ね、憧れてたの。藍の騎士さまと同じように言ってくれる人がいたらいいなって。だから、ルイスが無意識でも同じことを言ってくれたの、本当に嬉しかったよ」
「……ならいい」
照れくさそうに告げられた内容に、ルイスは朱色に染めた頬を掻く。そっぽを向いた彼に、彼女は膝を抱え込んで言った。
「あれからまだ二月経つか経たないかなのに、すごく前のことみたいだよね」
「いろいろあったからな」
二人の脳裏を、二ヶ月にあった様々な記憶が流れていく。制約、聖典、告白、反意、復帰、襲撃、出奔、出生、過去、そして家族。
各々が記憶に浸る中、しばらくするとリオンは顔を上げて、身体ごと振り返る。そして、彼を真っ直ぐ見上げて言った。
「一緒に、帰ろうね」
そう言って彼女が右手の小指を出せば、ルイスは僅かに目を瞬かせる。だが、その意図を把握すれば、彼女のそれと自身の小指を絡め、彼は言った。
「約束、な」
微笑みと共に交わされた約束に、リオンもまた笑みを浮かべ、そうして二人の小指は離れたのだった。
***
その夜のこと。小さな天幕にて、銀髪の騎士――テオ=ローレンスは、一枚の羊皮紙を前に一人考え込んでいた。
こめかみを押しながら、難しい顔で羊皮紙を睨む彼の元へやってきた騎士が、そっと声をかける。
「隊長。ヴォラスと思しき集団を視認しました」
「やっと、か……」
天幕から出たテオが、伝令にやってきた騎士と共に、見張りを担う騎士たちの元へと向かう。そして、そっと彼が合流すれば、見張り役の騎士は顔を強張らせ、テオを見上げる。
戸惑いに揺れる目を見たあと、彼は単眼鏡を受け取り、眼下の森にちらつく灯りを見た。
馬もしくは徒歩の中、二人乗り用の小さな馬車が天色の目に留まる。窓のすぐ傍に、カンテラを手にした者が一人近付く。カーテンがわずかに開いた窓の内部を、灯りが照らし出す。その様子に、ごくりと唾を飲み込んだ彼は、単眼鏡を僅かに動かした。
彼の部下である騎士たちが、固唾を飲んで見守る中、テオは単眼鏡を部下に渡して言った。
「アイザックからの手紙の内容に、間違いないようだ」
そう言った彼の顔は笑みを象ってはいるものの、その色は微かに青ざめている。隊長の言葉に、部下たちもまた、当惑した様子で顔色を失う。
そんな中、テオは眉を寄せ、額を片手で押さえながら、低い声で呟いた。
「まさかこれも見越してたとか言ったら、もう一発ぶん殴ってやる、あの赤目の狸野郎」
彼の口から溢れたのは、怨嗟の念すら垣間見えそうな恨み事。その目に怒りの火が灯っていることに、ローレンス隊の面々が別の意味で青ざめていく。
風もないのにゆらりと揺れる銀髪に、小さく咳払いをした隊員が真顔で口を開いた。
「隊長、では……」
「偽者を使って、本人を陥れるための罠の可能性もある。だが、オレが見た限り本人の可能性が高い」
そう答えながら、単眼鏡を通すことなく彼が見たのは、先ほど見ていた馬車がある辺りに見える灯火だ。その灯りが照らし出すのは、漆黒のローブに身を包んだ一人の男。
裸眼で彼を見据えるかのように見つめ、テオは迷いなく告げた。
「アルバート=ロウ副神官長の、な」
彼の口より紡がれた裏切り者の名。それはローレンス隊全員に緊張と沈黙を与え、春の宵闇に溶けて消えたのだった。




