55.追憶の秘密基地
※ 文章の終わりにイメージイラストがあります。
神殿内での戦闘から数日後のこと。オストの中央南部の街道を、フードを被った大人二人を乗せた一頭の栗毛の馬が駆けていた。
軽快に進んでいたものの、しばらくすると、手前に跨がる小柄な人間の背中が徐々に丸まっていく。それに気付くや否や、後ろに座る騎手はすぐさま手綱を引いて馬を止めた。
そうして、すぐ傍の木陰に移動すれば、騎手は疲弊した様子の者を抱え、根元に座らせる。その隣に跪き、下ろしたフードから現れた胡桃色のポニーテールを揺らしながら、彼は鞄を漁り始めた。
程なくして取り出した革袋を差し出し、彼は言った。
「クリフ様、どうぞ」
彼の言葉を受け、息を整えていたもう一人のローブの人間がフードを下ろす。そこから現れたのは、白髪に黒い瞳の老人。簡素な旅服に身を包んではいるものの、彼は神官長クリフ=モルガンその人だった。
気遣わしげな紫玉を見上げたあと、差し出された革袋を受け取り、彼は言った。
「すまんな、グレッグ。そなた一人ならばもっと早いのだろうが……」
「いえ、そろそろ馬を休めようと思っていたところですので」
眉尻を下げたクリフに対し、彼――グレッグは首を緩く振って返す。
老人が受け取った革袋に口をつければ、中に入っている水が彼の喉を潤していく。そうして人心地ついた彼に、グレッグは気遣わしげな様子で問いかけた。
「お身体の方は大丈夫ですか?」
「尻と腰は痛いが、少し休めば問題ない」
返ってきた返事に、彼がホッとした様子で息を吐く。そんな中、クリフは風光る春空を見上げてポツリと言った。
「しかし、こうして追っていても信じられん話だな。まさか聖典の原本を団長殿が持ち出しておったとは……」
その言葉にグレッグは何も応えず、老神官もまた口を閉ざす。沈黙した二人の意識は、揃って数日前の記憶へと向けられていた。
***
神殿にある太陽の宮にて、扉を閉める音を最後に、遠ざかる二つの足音が聞こえなくなったときのこと。
「クリフ様」
彼の名を呼ぶ声が部屋の奥から響く。
カウンターテノールの呼び声に、肩を跳ねさせたクリフが恐る恐る振り返る。その先に居たのは、やや埃にまみれた姿のグレッグ。彼の背後の壁にはそれまでなかった、深い闇に包まれた通路が、ぽっかりと口を開けていた。
それらを見た彼は、僅かに目を見開いた後、ホッと息をついて問いかけた。
「グレッグ、そなたずっとそこにおったのか?」
「はい。到着は団長より一足遅かったですが……」
「そうか……」
彼はやや俯きがちなグレッグに近付き、彼のマントについた埃を払いながら言った。
「お主の言ったとおりだったな。団長殿が戻らず、そしてお主に鍵を渡して居なかったらと思うと、背筋が凍る思いだ」
老神官の力ない言葉に対し、グレッグはやや間を置くと、静かに問いかけた。
「クリフ様。団長が言っていた話は事実なんですか?」
「アルバートが月巫女に害を……」
「違います。『月巫女の力が二十歳で失われるもの』ということです」
「何故お主がそれを……!?」
弾かれたように顔をあげる彼を見て、グレッグの表情が歪む。
「事実、なんですね……」
躊躇いがちに返された首肯を見るや、彼は唇を噛みしめ、踵を返そうとした。しかし、隠し通路に戻ろうとする彼を、クリフの呼び声が止める。
「どこへ行くつもりだ?」
「団長たちの後を追います。その先にアルバート様も、そして月巫女さまと隊長もいるはずですから」
「ならば、私も連れて行け」
かけられた言葉に、瞠目した紫玉が振り返る。真顔で見つめる老神官に、彼は戸惑った様子で言った。
「ですが、団長が言ったとおり、そのお身体では……」
「アルバートを止められるとしたら私だけだ、違うか?」
「いえ、それに相違はないと思いますが……」
言葉を濁すグレッグに、神官長は間髪入れずに言った。
「ならば連れていけ。そして道中、アルバートとお前が何をしようとしていたのか話せ」
「それ、は……」
「孤児となったお前を、アルバートに預けると決めたのは私だ。だからこそ、私はその結果を知らねばならんのだ。アルバートを止めるためにも。それに私の護衛という名目があれば、命令違反の言い訳もつくだろう?」
「……わかり、ました」
不承不承ながらグレッグが了承の意を示せば、人目を避けるように二人は隠し通路へと姿を消したのだった。
***
記憶の脳内再生が終われば、クリフは嘆息して口を開いた。
「アルバートとお前がしてきたことにも驚いたが……。聞いたら尚のこと止めねばな、あの馬鹿者は」
その言葉と共に返ってきた革袋を受け取ったグレッグは、戸惑い気味に紫紺の瞳を揺らす。
「馬鹿、ですか……」
「馬鹿だとも。あやつの描く理想図は、どう足掻こうとも実現不可能だ。そんなこと、賢いお主が何故わからなんだ?」
厳しい黒檀の目線を避けるように手元の革袋へと視線を落とし、彼はポツリと言った。
「それで理想の国になるならば、と……」
「アルバートの言う国が実現したならば、きっとそれは理想の国だろう。だが、それは形を成したとしても、何十年何百年とかかる話だ。それを民に説き伝える担い手になるならまだしも……」
呆れと共にどこかやるせない色を滲ませ、クリフはみなまで言わずに口を閉ざす。無言でぎゅっと革袋を握りしめる年若い騎士を見ると、小さく息をついて彼は言った。
「事が片付いたら、みなで罰を受けねばな」
静かに告げられた言葉に、ハッとした様子でグレッグは顔を上げる。そこには、たて皺を消した老人の微笑み。どこか悲しげな微笑みに対し、彼は顔を歪め泣きそうな顔を浮かべた。
そんなグレッグの頭を骨ばったハリのない手が、そっと撫でる。そして、ひとしきり撫でると、彼は紫水晶の双貌を見つめて問いかけた。
「ところで、先ほどの街では他の騎士に団長殿の足取りを尋ねなくてよかったのか?」
「ええ。目的地がどこかは途中の街に居た騎士に聞きましたし、ここまで来たら間違いありませんので」
淡々と告げられた言葉に、クリフは白い顎ひげを撫でながら言った。
「ヤヌス侯爵領、アウローラ・リェス……。ノトスと繋がる陸路の玄関口、か。一体そこで何をするつもりなのか……」
そうして彼は、南の空を物憂げに見つめたのだった。
***
ちょうど時を同じくして、オストの南部中央に位置する丘に、ローブを纏った二人の男がいた。二人は木々の影に身を潜め、眼下に広がる森の中を走る街道を見つめている。
天色の瞳は街道から目を逸らさずに、銀髪の男――テオ=ローレンスが問いかけた。
「団長とお前の予測だと、今日辺り、月巫女さまとルイスがここを通るんだな?」
彼の問いかけに、隣で腹這いになって単眼鏡を覗いている金髪の男――リックは、振り返ることなく告げた。
「問題がなければそのはずです」
「上手く行ってるといいが……」
そんな言葉と共に二人が街道を張ること、およそ一刻。一度、連絡係の騎士がやってきたことを除き、動きらしい動きがない中、単眼鏡を覗いていたリックが口を開いた。
「来ました!」
「……あれか」
後輩騎士が指し示した方向を見やれば、木に囲まれた街道を、土埃を立てながら黒い点が進む。それを肉眼で追うテオに、リックが続けて告げた。
「月巫女さまにお変わりはなさそうですね。……あ」
「どうした?」
「いえ。アイツ、この距離でこちらに気付いたようで……」
「この距離で、か?」
リックに向けた視線を、再び眼下の街道へと移す。馬だと判別できるか否かの場所を駆けて行く黒馬を見つめ、彼は微かに顔をしかめた。
「ルイスのヤツ、相当気を張ってるな。まぁ、無理もないか」
そうして、遠ざかる彼を見送ると、テオは身体を起こしたリックに言った。
「よし、あとは交代で張らせて、ヴォラスの兵士が通るのを待つ。リック、お前は予定通り一度ルイスと接触を図れ。オレの隊の人間も一人連絡員としてリェスに置くから、定時連絡は怠るなよ?」
「はい!」
しっかりと敬礼で返せば、控えていたローレンス隊の騎士へと単眼鏡を渡す。そして、少し離れた場所で待機していた仲間たちに声をかけたあと、連絡員の騎士と共にその場を後にしたのだった。
***
それから約半日後、陽が沈もうという頃合いのことだ。黒馬に乗った二人が辿り着いたのは、背の高い木々が並ぶ森の中。
ルイスが馬を引き、慎重に獣道を進んだ先にあったのは一本の巨木。そして、その葉に隠れるように設けられた簡素なツリーハウスだった。
枝から下がったロープと木材でできたブランコが風に揺れる。それを物珍しげに見つめるリオンを、彼はそっと愛馬から降ろす。
頭をすり寄せる黒馬に礼を言いつつ、頬を撫でた彼女は、彼を振り返り問いかけた。
「ルイス、ここは?」
愛馬から下ろした荷を肩にかけたルイスは、懐かしそうにツリーハウスを見上げ、彼女の問いに答えた。
「父が生きていた頃、父と団長、オレの三人で作った秘密基地だ」
「秘密基地ってこういうのなんだ……」
「大人二人が本気で作ってたからな。オレだけだったら、こんな立派なのはさすがに無理だ」
興味津々といった様子の彼女に、彼は苦笑を浮かべる。幹に取り付けられた足場を確認しつつ、彼女の手を引いて彼は慎重に登っていく。
辿り着いた扉を開け、室内を見た途端、ルイスの目に浮かんでいた郷愁の色が失せる。代わりに浮かんだのは警戒心だ。
リオンを扉の外で待たせ、彼は室内をくまなく見て回る。ほぼ見終えてもなお、彼の表情はあまり晴れない。
「ルイス?」
『どうしたのかと』言わんばかりの表情を浮かべるリオンに、彼はハッとした様子で苦笑いを浮かべて言った。
「いや、何か少し違和感を覚えたんだが……。何もなかったから入って大丈夫だ」
その言葉を受けて、彼女もまた室内へと足を踏み入れる。ギシギシと軋む床板から顔をあげれば、扉を閉めて彼女は中を見回した。
彼女のすぐ左脇には布張りのカウチにクッション、小さな木箱。その反対側の角には小さな薪ストーブ。正面窓の下には鉄製の箱や石が並び、右手の窓から差し込む夕日にハンモックが照らされている。
それらには埃やクモの巣などは一切なく、手入れが行き届いていた。そんな室内を見た彼女は、木箱の上に荷を置くルイスを振り返り、問いかけた。
「素敵だね。ルイスはここでよく過ごしてたの?」
「そうだな。父が生きてた頃はよくここに来てた。団長や母もたまに一緒だったが、大抵は一人か父と一緒だったな」
「お父様と仲良かったんだね」
「ああ」
そう言って、ルイスは昔懐かしむように、壁の落書きや傷を見つめる。そんな彼の様子に、リオンもまた嬉しげに微笑みを浮かべたが、傍とした様子で首を傾げた。
「あれ、でも、お父様が亡くなったあとは……?」
「……騎士団に入ることを決めたときに一度来て以来だから、今回で二度目だな」
彼の言葉に、彼女の目が驚き見開かれる。無言で問うように見つめる彼女をカウチに座らせれば、彼はその隣に座り、静かに語り始めた。
「両親の一件以降、事件の記憶を何度も夢に見ては、その度に高熱を出してな。今も知恵熱癖として残ってるくらいには酷かったんだ。それを見かねた団長が、忘却水を飲ませたんだそうだ」
告げられた内容に衝撃を受けた様子で、瑠璃の双眸が大きく見開かれる。
「ここは両親との思い出も多いからな。紐付いて一緒に忘れてたんだ」
そう言って困ったように笑ったルイスだったが、次の瞬間、彼の両目が微かに瞠目する。彼は小さく息をついて苦笑を浮かべると、彼女の目尻に手を伸ばして言った。
「別に珍しい話でもないし、泣くなよ」
彼の言葉に、眉根を寄せたリオンの目から、涙がポロポロと溢れ伝い落ちる。それをそっと拭いながら、彼は至って平然とした様子で続けた。
「野盗に襲われて家族を失う、なんて割とある話だ」
「でも……! 忘却水が必要なくらい辛いことだったんでしょ?」
「そうだとしても、だ。今となっては、昔の話だ」
「……本当に?」
疑わしげな眼差しがルイスを真っ直ぐ見つめる。そんな彼女を安心させるかのように、彼は微笑みを浮かべて頷く。
それを受けた彼女は、彼の手を握り、やや躊躇いがちに問いかけた。
「ルイスの記憶は、どうして戻ったの?」
「ヤヌス家の本邸に、入るなって言われてる部屋があってな。九つのとき、そこに忍び込んで思い出した」
「何の部屋だったの?」
「……母の部屋だったんだ」
彼の次の言葉を待つように、彼女はじっと彼を見つめる。『何があったのか』と言わんばかりの彼女に、彼は静かに語った。
「最初は埃もなくて、女性の部屋ということ以外、誰の部屋かも検討つかなかった。けど、父との手紙や肖像画、その他色々そこで見つけて、な。それで倒れて、丸一日寝込んで思い出したんだ、何もかも」
「経験したことあったから、記憶が戻るときの反動のこと知ってたんだね」
確認に対し、ルイスは苦笑しながら首肯を返す。それを受けてしばし考え込んだ彼女は、再度周囲を見回して言った。
「ルイスがいつか思い出したときのために、侯爵さまがお手入れしてくれてたんだね」
「……え?」
何気ない彼女の言葉に、翠緑玉が瞬く。驚きを露わにしている彼に、彼女はキョトンとした様子で首を傾げながら言った。
「だって、埃とかもほとんどないし、お母様のお部屋と同じように、誰かが管理してくれてるってことだよね? 団長さんも手伝いはしてるかもしれないけど、いつもは難しいだろうし。消去法で行けば侯爵さまだと思うんだけど、違うの?」
「まぁ、ここは今ヤヌス家の私有地だから、理屈ではそうなんだが……」
「だが?」
歯切れの悪い彼の言葉に、彼女は続きを促す。真っ直ぐ見上げてくる瑠璃色の瞳に、彼は口重い様子で言った。
「本邸に居た頃を含め、まともにじいさまと話をしたことがなくてな。そうする理由がわからないんだ」
僅かに視線を逸らしながら告げられた言葉に、リオンの瞳が意外そうに瞬く。そんな彼女に、彼は言った。
「避けられる理由なら、生まれが生まれだからわかるんだけどな」
自嘲を含んだ言葉に、しばし思案顔で考え込んだものの、彼女は再度彼を見て口を開いた。
「少し前、侯爵さまにお会いしたときに聞いたんだけど。ご息女の忘れ形見が私と比較的年も近いけど、どう接していいのかわからないんだって言ってたよ?」
彼女の話に、翠緑玉が大きく見開かれ、マジマジと瑠璃を見つめる。呆気に取られている彼に、彼女は真顔で確認するように問いかけた。
「ルイスのこと、だよね?」
「……その侯爵がイーサン=ヤヌスなら、そうなる、が……」
奥歯にものが挟まったような返事を返す彼に、リオンは重ねて言った。
「大切に思ってるからこそ、綺麗にしてあるんじゃない? セシリアさまのお部屋も、ここも」
それでも尚、彼の目は揺れて惑うばかりだ。そんな彼の手をそっと握り、彼女は言った。
「それにね、ルイスは前に『外に待ってる人は居ない』って言ってたけど。たぶん侯爵さまは待ってるよ」
彼女の言葉に、翠緑色の瞳が瞠目する。二の句が継げない彼に、リオンは続けた。
「侯爵さま、神殿に来る度に誰かを探してて、寂しげな顔でお帰りになるの。それがここ半年、より顕著で気になってたんだけど、ルイスのこと探してたんじゃない?」
「……団長だろ」
「団長さんはいつも中央で会ってるもん」
彼女の切り返しに、ルイスは僅かに呻き、逃げるように視線を逸らす。及び腰な彼の頬に手を添えて振り向かせれば、彼女はジト目で言った。
「それに侯爵さまとの面会の日、いつも護衛がリックだった気がするんだけど、わざと……だよね?」
ほぼ断言する形で告げられた内容に、彼の目が泳ぐ。そんな彼の手を握る力を僅かに強め、彼女は静かに口を開いた。
「ルイス。一度、侯爵さまとちゃんとお話した方がいいと思う。二人ともまだ生きてるのに、何も伝えないままは悲しいよ」
「リオン……」
泣きそうな顔を浮かべる彼女の名を呼べば、彼はしばし視線を彷徨わせたあと、小さく息をつく。そして、コツンと彼女の額に自身の額を当てると、観念した様子で言った。
「全く、お前にはホント敵わないな……」
そんな彼の言葉と行動に、一瞬だけ瑠璃色の瞳が大きく見開かれる。だが、その言葉の意味を理解すれば、彼女はホッとした様子での笑みを浮かべたのだった。




