3.呼び名と願い
リオンがルイスの隣にストンと座り直せば、二人の間に再び沈黙が下りる。
辺りに響くのは、薪の爆ぜる音とリーンリーンと鳴く鈴虫の声、そこにもう一つ。少し離れた場所から聞こえてくる、幾人もの声が紡ぐ歌だ。それは、昼夜を問わず、絶えず途切れることなく月神――リオンたちが住むオストを守護する神へと捧げられる祈りの詩だった。
今も神殿に仕える神官や巫女が祈り場――神職者のみが立ち入れる聖なる場――で歌っているのだろう。彼らの歌声が旋律と共に、二人の耳へと微かに届く。
そんな中、黙って月を見上げていたリオンが呟いた。
「私が生まれた夜の月って、満月だったって聞いてるけどこんな感じだったのかな……?」
独り言のように呟かれた月巫女としてではなく、『リオン』としての言葉に対し、ルイスは別の枝を焼べながら言った。
「そうですね……。私も何分幼い時分でしたので、それがあなたの生まれた夜のことだったかは断言いたしかねますが、それでも一度だけとても大きく輝く満月を見たことがあります」
そう言って、彼女に倣うように月を見上げたルイスの脳裏に浮かぶのは、彼が齢五歳の頃に見たいつになく大きく強い青白い光を放つ満月だ。
「雨が多く、なかなか遊びに出ることもできずに不満を覚えていた時期だったのでよく覚えています。その日の夜だけは、昼間の雨が嘘のように雲が晴れ、いつもより大きな満月が輝いていたのです。それは本当に神秘的で、月神はいるのだと、子供だった当時は訳もなく信じたほどです」
「当時はって、今はそう思ってないの?」
「……私は神官ではありませんので、神の力を感じたことはないですね」
リオンの問いかけに、『しまった』とばかりに一瞬言葉に詰まりながらも、ルイスは至って冷静に返す。そんな彼の脳裏を過るのは、白銀の光を放つ満月ではなく、闇夜に赤く染まる満月だ。オストでは緋月と呼ばれるそれ――皆既月食の記憶に対し、ルイスの身体が強ばり、その手に力が入る。
柔らかな光に影がかかる翠緑玉の双眸に、リオンが眉根を寄せてその名を呼ぶ。
「ルイス?」
彼女の呼び声に、ハッとした様子でルイスの瞳が瞠目する。そして、脳裏にこびり付いた記憶を振り払うように、彼は首を左右に振った。
そんな彼の行動に対し、彼女は気遣わしげに声をかける。
「大丈夫? どうかした?」
「いえ、何でもありませんので、お気遣いなく」
淡々とした様子で回答する彼の瞳から、翳りはすでに消え失せている。彼の追求を拒むような言葉に対し、リオンは静かにため息をついて言った。
「ねぇ、ルイス……」
「何でしょうか?」
彼女の呼びかけに、彼は微かに身構えながら彼女の言葉を待つ。そんな彼を真っ直ぐ見つめた彼女は、僅かに眉尻を釣り上げて問いかけた。
「いつまでその話し方なの?」
「……え?」
彼女からのそれは、ルイスが予想していたどれとも違う斜め上のものだ。彼女の問いの意味を測りあぐねたのか、彼が戸惑いを露わに言葉に窮すると、リオンは続けて言った。
「話し方。それ、素の話し方じゃないよね?」
「ええ、それは、まぁ……。礼儀はわきまえておりますので」
「一月経って慣れてきたのなら、そろそろ素の話し方にしない?」
そうにっこり微笑んで言うリオンに、ルイスは目を大きく見開き言葉を失う。次いで、頭を抱え込みそうになるのを寸での所で押し留めながら、彼は努めて冷静に問いかけた。
「私はあなたにお仕えする身なのですが?」
「そんなの気にしないよ」
「いえ、気にするしないの問題ではなく。どこの世界に、己の従者に対等に会話しよう、なんていう人がいるんですか……?」
やや呆れを滲ませながら告げたルイスに対し、リオンは自身を指さしながらあっけらかんと言った。
「だから、ここにいるじゃない」
「……私の首が飛ぶのではないかと愚考いたしますが?」
「神官長さま達にバレなきゃ大丈夫だよ」
苦し紛れの言い訳に対し、楽しげに笑って返すリオンに、彼は唸りながら考え込む。
そうして、しばらく考え込んだ彼は大きなため息をつく。そして、両手を挙げ、不承不承といった様子でルイスは言った。
「承知いたしました、素の話し方にします。主の命令に背くわけにはいきませんから」
「別に命令じゃなくてお願いなんだけど……」
困ったように、やや悲しげに笑う主に対し、彼は逡巡して言った。
「ならば、一つだけこちらの『お願い』も聞いてもらえますか?」
「何?」
不思議そうに首を傾げる彼女に、拒絶の色がないことを確認した上で、その『お願い』を口にした。
「二人でいるとき限定にさせてください」
「それは構わないけど、どうして?」
「見聞きした誰かが神官長さまに進言しないとも限らないからです」
「なるほど。うん、わかった。約束する」
そう言って真剣な表情で、リオンはしっかりと頷き返す。素直な彼女の言葉と態度に、彼はホッとした様子で息を吐いて言った。
「助かる。もしそこを断られると、オレの首はおろか、オレを護衛騎士に任命した団長にまで被害が及びかねないし、あの人の足をオレが引っ張るわけにはいかないからな」
砕けた口調へと転じた彼の言葉に、彼女の瞳が驚いた様子で見開かれる。それに対し、ルイスは不思議そうに首を傾げた。
「どうかしたか?」
「ちゃんと、聞いてくれるんだなって思って」
「まぁ、抵抗がないと言えば嘘になる。だが、オレの主の命令……いや、お願いを受け入れると決めた以上は叶える。当然だろ」
真顔で当然のように返す彼に、リオンはポカンとしたまま言葉を失う。口調はもちろんのこと、一人称が【私】から【オレ】に変わった彼の言葉に、彼女はポツリと言った。
「当然じゃ、なかったんだけどな……」
「え?」
「ううん、なんでもない。ありがと、ルイス」
訝しむ彼に、リオンは心底嬉しそうに微笑む。そして、鼻歌交じりに身体を揺らし、ご機嫌な様子の彼女にルイスは焚き火の枝を弄りながら言った。
「で? なんでいきなり、素の話し方にしろ、なんて言い出したんだ?」
「なんでって……。口調も行動も丁寧だけど、何だかんだでズバズバ文句を言う人の素がアレだなんて、誰も思わないじゃない?」
「……それは、まぁ、ごもっともで……」
『当たり前だ』とばかりの表情で告げる彼女に対し、彼は乾いた笑みと共に返し、視線を逸らす。そして、彼女とは反対の方を見つめ、口元を引き攣らせながら、彼はポソッと小さく呟いた。
「さらっと笑顔で言ってのけるお前も大概だと思うけどな」
「……何か言った?」
「……いや、何も?」
にっこり笑顔と共に、やや低いトーンで告げられた言葉に、彼はギクリと肩を跳ねさせ、ぎこちない笑みを浮かべて返す。そして彼は誤魔化すように、追加の枝を焼べながら言った。
「前々から考えの読めない人だとは思ってたが、予想以上だな、月巫女さまは」
「月巫女さまじゃなくて、リオン」
彼女のその言葉に、ルイスは思わず薪を投げ入れた姿勢のまま無言で固まる。そして、恐る恐る振り返り、瑠璃色の瞳をまじまじと見つめるも、ニコニコと微笑む彼女の表情と目に宿る意思が、揺らぎを見せることはない。
リオンの言わんとすることに対し、彼の眉と口元がヒクヒクと引き攣る。『それはいくら何でも勘弁してほしい』と言わんばかりのそれは、嘘偽りない彼の本音だった。
小風が二人の間を通り過ぎてもなお、彼女が言葉を撤回する素振りはない。そんな彼女に対し、ルイスは深呼吸をして恐る恐るといった体で口を開いた。
「まさかとは思うが。今まで終始『月巫女さま』と呼んでた人間に、口調だけじゃなく、いきなり名前で呼べとか言わないよな?」
「うん、そう言ったんだよ」
「……しかも主を呼び捨てにしろとか、そんなこと言うわけ……」
「もちろん、そう言ってるんだよ。最初に言ったじゃない、『私の名前は月巫女じゃなくて、リオンです』って」
当然とばかりに笑顔で頷いて見せる主の言葉に、ルイスはたっぷり十秒ほど絶句した。
基本的には、先刻ルイス自身が言ったように、主の命令は絶対だ。それが例え、命令した本人にとっては『お願い』の体だったとしても。
だからこそ、それらの確認は彼にとって、ギリギリの抵抗だった。だが、かえってしっかりと言葉にされた今、その命令をを拒否する権限を彼は持ち合わせてはいない。
それでもなお、いざ行動に移すには躊躇われる『お願い』に、彼は思わず天を仰いで小さく唸った。退路は目の前の主によって塞がれているため、それはただの現実逃避だ。
眉を寄せ、うんうんと唸り続けていた彼は、しばらくすると、じと目で彼女を見つめて言った。
「これで不敬罪だとかなんだとか言うのはなしだからな?」
「言わないよ。何なら月神さまに誓う?」
念を押す彼に、リオンは苦笑いを浮かべながら小首を傾げる。そんな彼女の返事に対し、彼は大きく数回深呼吸をすると、頭を掻きながら腹を括ったように言った。
「月巫女さまじゃなくて、リオン、な。これでいいんだろ?」
半ばヤケクソ気味ではあったものの、彼の口から彼女の名が紡がれれば、リオンは信じられないとばかりに目を瞠る。だがそれはほんの僅かのことで、次いで彼女は、心底嬉しそうにふわりと微笑んだ。
そんな彼女の笑顔に、ルイスの心臓がドキリと跳ねる。自身の反応に戸惑いつつ、それに気付かなかったかのように、視線をふいっと逸らす。
そうして、焚き火を弄りながら、静かに問いかけた。
「それで、リオン。お前は何を悩んでここに来たんだ?」
彼の問いに、瑠璃色の瞳を大きく見開き、リオンは僅かに息を呑んで固まった。そんな彼女の腰まである長い青藍色の髪を、色なき風がそっと撫でていったのだった。




