46.決意と騎士の誓い
※ 文章の最後にイメージイラストがあります。
――オレと逃げよう。
ルイスが発した言葉に、リオンは唖然とした様子で固まる。彼女の両目から止めどなく溢れていた涙すらも、ピタリと止まるほどだ。そうして、置時計の分針がカチッと音を立てて動く頃、彼女はようやくその口を開いた。
「逃げるって、どこへ……?」
「神殿の外だ」
即座に返ってきた言葉に対し、リオンの顔に戸惑いの色が浮かぶ。
「だけど、私を外に連れ出したらルイスが罪に問われるんじゃ……?」
彼女の問いに、ルイスは目を僅かに伏せる以外何も答えない。それに対し、彼女は頭を振って言った。
「私はイヤ」
「リオン」
「絶対にイヤ!」
聞き入れるものかと言わんばかりに、目を閉じた彼女の両手は、スカートの裾をきつく握りしめる。そんな彼女の両手を、彼はしゃがみ込んでそっと握りしめた。
その感触に、リオンが目を開ければ、やや目線の低い位置にある翠緑色の瞳とかち合う。
「リオン、落ち着いて聞いてくれ。ヴォラスにまで侵入を許した現状、神殿のどこにも安全な場所はないんだ」
瑠璃色の瞳は不安げに揺れるも、彼の言葉を遮る言葉は出てこない。彼の言葉に耳を傾ける姿勢を見せた彼女に、彼は真顔で続けた。
「今回はたまたま幸い、怪我人はいても全員何とか無事だった。だがそれは確実じゃない。またいつ、何があってもおかしくないんだ」
彼の言葉にリオンの全身が強張る。それに気付いてなお、彼は静かに告げた。
「ここに居たら、ただの動かない的だ。遅かれ早かれ、また次の刺客が差し向けられる。お前の言うとおり、月巫女を狙って、だ」
エマや傷付いた騎士たち、彼らの快癒のため共に祈りを捧げた神官たちの姿が、彼女の脳裏を過る。彼女が何を考えているか、それを見透かしたかのように彼は言った。
「神殿の人間や他の騎士を巻き込みたくないなら、標的になるオレたち自身がここから動くのが一番なんだ」
「……他に道はないの?」
「時間があるなら神殿内に手引きした人間とその証拠を探す手もある。だがそんな悠長なことを言ってる場合でもない。だから、一番最良と思うのが逃げることだと、オレは思ってる」
淀みなく告げられた話に、リオンの視線が足元へ落ちていく。悩み惑う様子の彼女に、彼はやや躊躇いがちに言った。
「逃げるとしたら早い方がいい。運良く、明後日は新月で闇に乗じることもできる。だから、それまでに考えてみてくれないか?」
「……わかった」
そうして、重苦しい夜は更けていったのだった。
***
夜が明けた翌日のこと。その日の公務を終えたリオンは、護衛にリックを伴い、グレッグの看病にあたっていた。
祈りの詩を紡ぎ終えた彼女に、横になったままグレッグは眉尻を下げて言った。
「月巫女さまのお手を煩わせ、申し訳ありません」
「気にしないでください。私が無事だったのはグレッグや騎士団のおかげなのですから。これくらいはさせてください」
昨夜のことは覚えていないのか、いつもどおり慇懃無礼に振る舞う彼に、彼女は微笑んだ。そうして、徐にベッドサイドにある包帯へ彼女が手を伸ばせば、通りがかった医官が慌てて駆け寄ってきた。
「あ、月巫女さま、包帯の交換でしたら私どもが致しますので……!」
そう言うや否や、彼はやんわりリオンから包帯を取り上げる。そうして、傷を見せるのは忍びないとの本人の希望もあり、包帯交換の間、彼女は間仕切りカーテンの外へと出た。
そんな彼女に、一緒に祈りの詩を捧げていた一人の巫女が声をかけた。
「月巫女さまはお強いのですね」
「え……?」
その言葉にリオンが振り返れば、蜂蜜色の髪の巫女は微苦笑を浮かべ、やや視線を下げて続けた。
「私は正直、血に……穢れに触れることが怖いです。お恥ずかしい話ですが、ここに入るのも最初は躊躇したほどです」
「それならどうして?」
そう問われれば、彼女は瑠璃色の瞳を真っ直ぐ見つめて言った。
「月巫女さまのお姿を見て、私もできる限りのことをしたいと、そう思ったからです」
「そう、だったの……」
「月巫女さま、一つお尋ねしても良いですか?」
小首を傾げ、リオンが先を促すよう見つめる。そんな彼女に、巫女は両手を弄りながら、緊張した様子で問いかけた。
「月巫女さまはどうしてそのようにお強くいらっしゃるのですか?」
彼女の言葉に、リオンの目が瞬く。やや困惑した様子を見せた彼女は、静かに首を横に振って言った。
「私は強くなどないです。ただ、もしそう見えるのなら、それは守りたくて必死なだけ。私にとっては、神殿にいる人が全てで、大切な人ですから。例え言葉を交わしたことのない人でも。もちろん、あなたもね、ミリー」
その言葉に、巫女――ミリーは萌黄色の双眸を大きく見開く。
「私の名前をご存知でいらっしゃったのですか……?」
「長く神殿にいる方は自ずと見聞きすることは多いですから」
「ありがとうございます」
感極まった様子で顔を綻ばせた彼女に、リオンもまたふわりと微笑む。そうして、ミリーが他の騎士の看護へと向かえば、リオンは一人、空を見上げ物思いに耽ったのだった。
ちょうどその頃。ルイスは一人、屯所の執務室で、部屋の主と相対していた。その部屋主である黒髪の騎士――グレンは腕を組み、難しい顔で唸りながら口を開いた。
「月の剣にそんな意味が……」
「全てをこの目で確認したわけではありませんが、恐らく。ただこの場合、今まで刺客が少なかったことに対し、別の見方が考えられるかもしれません」
その言葉を受けたグレンの眉間に、深い皺が刻み込まれる。
「騎士団がいるから襲わないのではなく、そもそも近付けなかった、ということか。しかし、それが祝祭を境にとなると……」
「内部の誰かが情報を流し、その確認をしていたのかもしれません。月の剣の本当の意味をグレッグが知っていたことを考えるに、恐らく同一人物ではないかと」
「……これ以上、証拠が揃わない黒い話を増やしてほしくはないんだが、あの方々は一体何をしたいんだ」
苛立たしげに頭を掻く彼に、ルイスは真顔で続けて言った。
「襲ってきた刺客も自死が確認されたのは二人だけ。私が遭遇しただけでも一人足りません。もし今回の襲撃が情報精査のためだとしたら……」
「暗殺の刺客は増えると見ていいだろうな」
グレンの口から重いため息が洩れる。こめかみを押さえる彼に、ルイスは言った。
「エマもまだ目を覚ましていない現状、彼女の先見を頼るわけにもいきませんし、何らかの策は必要かと」
「パチル様たちの件か。リックの報告でも聞いたが、彼女は一体どんな未来を視たんだろうな……」
真紅の瞳が窓の外に見える神殿へと向けられる。憂いを帯びたその目を見たルイスは眉根を寄せて言った。
「彼女の先見の内容は、私も聞く間がなかったのでわかりません。ですが、丸腰で武人を相手に、ご高齢のパチル様と逃げ回る、などという愚行を意味なくする人ではありません」
「そうだな。考えられるとしたら、全員で敵から隠れた結果が全滅、といったところか。しかし理由はどうあれ、全く無茶をする人だ……」
苦笑いを浮かべたグレンの口から、小さなため息がこぼれ落ちる。微かに肩を落とし、彼は続けて言った。
「オレが先見を使えたら、もしくは彼女の体にかかった負担を代われたらよかったんだがな。できることが見守るだけというのも、歯痒いものだな……」
やるせなさを滲ませ、自嘲気味に笑う上司に、ルイスは気遣わしげな様子を見せつつ、問いかけた。
「ちなみに団長。リックが手に入れたものはその後いかがですか?」
「禁書庫にあるものとは違い、古代文字で書かれていてな……。リックに解読を任せてはいるが、あれは時間がかかるだろうな。任務がなければ数日あれば可能らしいが、そうも行かないし、難しいところだな」
「そうですか……」
グレンの返答に対し、彼は床の絨毯へ視線を落とし、しばし沈思黙考する。そうして、再び顔を上げれば、彼は静かに口を開いた。
「団長、私に一つ考えがあるのですが……」
そう前置いた彼の話が進むにつれ、グレンの瞳が徐々に見開かれていく。全ての話が終われば、彼は額を抑え、当惑した様子で部下を見上げ尋ねた。
「お前、正気か?」
「正気です」
「いくら何でも無茶が過ぎる」
眉根を寄せ、ため息交じりにグレンは苦言を呈する。そんな彼の言葉を受けてもなお、ルイスは落ち着いた様子で言った。
「一人では無茶ですね。ですが、一人でなければ可能だと思っています」
そう告げた翠緑色の瞳が、柘榴石の双眸を真っ直ぐ見つめる。その言葉と態度に、グレンは目を瞠った後、困ったように笑みを浮かべながら言った。
「オレを巻き込むのが前提か。お前、少し変わったな」
「自分の身も守れと、貴方にもリックにも散々言われましたし。何より泣かせたくない人がいますから」
すまし顔で告げたルイスの目は柔らかく細められている。彼の言う『泣かせたくない人』を把握したグレンは、しばし呆気に取られた。だが、やや間を置くと、居住まいを正し、真顔で口を開いた。
「いいだろう」
「ありがとうございます」
そう言って、頭を下げたルイスに、彼は『ただし』と前置いて続けた。
「やるからには必ず生きて成功させろ。失敗だけは許さないからな。団長としても、オレ個人としても、だ」
「はい、肝に銘じます!」
厳しい言葉で鼓舞するグレンに、ルイスは姿勢を正し、騎士としての最敬礼で応じたのだった。
***
そうして、二人が各々思いを巡らせ、迎えた翌日の夕方のこと。公務を終えたリオンは、休憩がてら自室でルイスと二人きりでいた。
二人の間に今流れているのは、重苦しい沈黙だ。目を合わせるのを避けるかのように、彼女は手元のティーカップの中身を見つめる。すっかり冷め、湯気もないそれを揺らすばかりの彼女に、ルイスはそっと問いかけた。
「リオン、答えは出たか?」
彼の静かな問いかけに、リオンの肩がピクリと跳ね上がる。そうして、僅かに間を置くと彼女は視線を落としたまま、重い口を開いた。
「私は神殿の人を危険な目に遭わせたくない。けど、ルイスにも危険な目に遭ってほしくないって思ってる。だけど……」
そこで切ると、彼女は顔をあげ、ルイスを真っ直ぐ見つめて続けた。
「守りながら戦うのが難しいことも、その人数が増えたらより難しくなるのも、この前のを見てわかった。だからきっと、ルイスの言うのが一番いいのかもとは思ってるの」
「なら……」
「ルイスの言うとおりにしてもいい。だけど、その代わり、一つだけ約束してほしいことがあるの」
真顔で告げられた言葉に『なんだ?』と問いたげに、彼は首を僅かに傾げる。そんな彼の軍服を握りしめ、リオンは懇願するように言った。
「絶対死なないって約束して」
その言葉に翠緑玉が微かに瞬き、彼は息を呑んだ。彼の反応を否と取ったのか、彼女は瑠璃色の瞳を揺らして告げた。
「約束できないなら行かない。……行けないよ」
そう言って、震わせながら軍服を掴む彼女の手をしっかり握り、彼は真剣な表情で言った。
「死ぬつもりはない。だが、絶対を約束することは……」
「無茶を言ってるのはわかってる。けど、前に話したでしょ、言葉には魂が宿ってるって。だから、死なない覚悟があるのなら、それを言葉にしてほしいの」
無言で見つめ合う中、時計の針がカチリと音を立てて動く。それを合図に口を開いたのはルイスだ。
「わかった」
短く承諾の意を示した彼は、彼女の手を離すと、腰の剣を鞘ごとベルトから外し、そのまま床に片膝をつく。そして、手にした剣をリオンの足下に置いて頭を垂れて告げた。
「オレは絶対死なないと、月神とこの剣、そしてリオンに誓う」
厳かに紡がれたのは、生を誓う言葉。彼のその言葉を受けた彼女の顔に、微かに安堵の笑みが浮かぶ。そうして、彼女はようやくその首を縦に振った。
***
それから数刻後、宵闇が空を覆い、神殿の者が寝静まった深夜。簡素な服とクリーム色のローブを身に纏ったリオンは、髪飾りを机の上に置くと、振り返り問いかけた。
「ねぇ、ルイス。エマに手紙とか残しちゃダメ?」
「ダメだ。下手をすれば、エマに余計な疑いがかかりかねない」
そう答えたのは、簡素な服と灰色のマントを身につけたルイスだ。その腕にはいつも身に着けている軍服とマントを抱えている。納得いかない様子の彼女に、彼は首を横に振って続けた。
「全部片付いたら、オレも一緒にエマに謝るから」
「……わかった」
不服そうにしつつも納得したのか、彼女は机に背を向け、体ごとルイスの方へと振り返る。真っ直ぐ見上げてくる彼女に、彼は確認するように尋ねた。
「準備はいいか?」
「大丈夫。言われたものは持ったし、他にどうしても持っていきたいものは神具と、前にルイスから貰ったこの栞だけだから」
そう言って、斜めにかけた革製の鞄から彼女が取り出して見せたのは、金の透かし細工でできたブックマーカー。紐の先で雫の形をした瑠璃が揺れる。それを見たルイスは、一瞬呆気に取られた様子で目を見開いたあと、照れくさそうに視線を逸らした。
その後、リオンの持つ隠し通路の鍵を使い、二人はリオンの部屋を後にした。迷路のように入り組んだ通路を進み、二人が辿り着いた場所。そこは、ルイスが謹慎中にリックと二人でやってきた枯井戸だった。
枯井戸の窪みにルイスの軍服とマントを隠し、予めかけられていた縄梯子を登り、外へと出る。そうして、リオンの手を握った彼の先導で、星明かりを頼りに騎士団の厩舎へと二人は向かった。
辿り着いた厩舎に、あるはずのない灯りが揺らめく。警戒した様子でルイスが、リオンを背に庇いつつ、そっと中を窺い見る。そこに居たのは、馬の背に鞍を乗せている一人の騎士。冷たい夜風が金髪を撫でれば、彼は暗闇の中に立つ二人を笑顔で振り返る。
「思ったより早かったね、二人とも」
「リック、お前なんでここに……?」
「ついさっき団長から話を聞いてね。勝手に諸々決めたどっかの誰かさんに一言文句を言いに来た。あと、二人に伝えておくことがあったから」
彼――リックの言葉に、リオンとルイスが顔を見合わせたあと、彼をじっと見つめる。問いたげな二つの視線を受けた彼は、ふわりと微笑んで言った。
「二人の危機には必ず駆けつけるから、どんな状況でも諦めないでね」
「必ずって、これまた大きく出たな」
頬を掻きながら苦笑いを浮かべたルイスに、彼は笑みを消して真顔で告げた。
「大袈裟な話じゃないんだよ、ルイス。オレはお前のために月神さまに生かされた身だ。それが何のためか、今のお前なら予想つくでしょ?」
彼のその言葉に翠緑色の瞳が瞠目する。リックをマジマジと見つめた彼は、当惑した様子で問いかけた。
「お前、まさか初めて会ったときの話、本当に……?」
「オレは一度だって、嘘だって否定したことはないよ」
にっこりと微笑んで見せる彼に、ルイスは唖然とした様子で言葉を失う。リオンが狼狽えた様子で見守る中、ルイスは咎めるような声音で口を開いた。
「ちょっと待て。ならなんで……」
「今はそれを説明してる時間ないから、また今度ゆっくりするよ。リオンにも説明は必要だし」
そう言って彼は、彼女に対し片目を閉じて微笑む。再び相棒の方を振り返れば、その顔から笑みを消し、静かに言った。
「だから、必ず生き抜きなね?」
いつもの飄々とした態度とは真逆な彼の態度と言葉に、ルイスは息を呑んだ。しかし一拍置くと、彼は口元に微かな笑みを浮かべて言った。
「当たり前だ。お前こそ、話の続きしないままくたばるようなことするなよ?」
「当然」
そう言って二人は互いに拳を突き出し、軽くぶつけて不敵に笑い合う。
「あと頼んだ」
「りょーかい」
そんな短いやりとりの後、ルイスはリックが準備していた馬を引き、リオンの手を取って暗闇の広がる森へと向かう。別れの言葉らしい言葉もないまま、二人の姿が闇へと溶けていく。
時折、リオンが寂しげに振り返れば、リックは都度いつもの笑みを浮かべ、ヒラヒラと手を振る。そうして、完全に闇に紛れ、二人の姿が見えなくなれば、彼は月のない夜空を見上げて呟いた。
「結局、この道筋は変えられないまま、か……。記憶してるのとはだいぶ違うけど、頑張る他ない、かな」
彼の言葉は誰に届くことなく、虚空へと消える。しばらく星空を見上げた後、彼は二人の向かった方へ背を向け、宿舎へと一人踵を返したのだった。




