45.月の剣と涙雨
※ 文章の最後に、イメージイラストがあります。
激しく叩き付けていた雨も止み、曇天の切れ目から星が顔を覗かせる宵の口。木々の葉から零れる水音とカエルの鳴き声が微かに響く。それらを破るように、嗄れた声が医務室から響き渡る。
「また貴女はこのような……!」
そう言い募ったのは、白髪交じりの黒髪の神官――副神官長のアルバートだ。モノクル越しに見える藍鼠色の瞳は、苛立たしげに細められている。怒りに体を戦慄かせ、眉間の皺を深める彼に対し、リオンは済まし顔で言った。
「以前、神官長さまともお話いたしましたが、潔斎をすれば済む話です。それよりも、苦しんでいる騎士さま方のご迷惑になりますので、お静かに願います」
「騎士が怪我をする度にこのようなことをしていたらキリがありません」
「……今回、彼らが誰のために怪我を負ったと思っているのですか?」
アルバートの言葉に、瑠璃色の瞳に険が滲む。目尻をつり上げた彼女は、淡々とした口調で続けた。
「副神官長さまはご不在でしたから、実感が沸かないかもしれません。ですが、彼らは私を始め、神官や巫女を守るために傷付いたのです。それに対して貴方は何もお感じにはなられないのですか? それが副神官長である貴方の言うべき台詞なのですか?」
「それは……」
リオンの問いかけに、中老の神官はやや及び腰になりながら口を噤む。そんな彼に対し、彼女は堂々とした佇まいで告げた。
「私は自分の行いを間違えているとは思いませんし、考えを改めるつもりもございません。どうしても止めろと仰るのならば、納得の行く理由をお話しください。できないのならば、治療の妨げになりますのでお引き取りを」
凜とした真っ直ぐなその視線に、アルバートは僅かに唸る。だが、彼女を説得する言葉は終ぞ出ないまま、苦虫を潰した様子で彼は踵を返したのだった。
彼の足音が遠ざかれば、扉の前に立つリオンの口から小さなため息がこぼれ落ちる。そんな中、疲弊した様子の彼女の肩を叩く手があった。
「リオン、少し休め。お前の身がもたないぞ」
そう告げたのはルイスだ。昼間は赤黒く染まっていた軍服やマントは、清潔なものに代えられている。いつも通りの姿で案じる彼に対し、リオンは目を瞬かせて問いかけた。
「医官さん達は?」
「申し送りで外してる」
「そっか」
彼女が周囲を見回せば、そこに医官の姿はなく、奥の部屋から微かに話し声が漏れるのみだ。二人以外に姿が見えるのは、ベッドに横たわり、苦悶の表情を浮かべる騎士たち。そんな彼らを見つめ、両手を胸の前できゅっと握り合わせたリオンに、ルイスは言った。
「部屋に戻る気は……ないよな」
責めるような視線に、彼は肩を竦め、問おうとした言葉を止める。そんな彼に対し、彼女は視線を騎士たちに戻し、絞り出すような声で言った。
「戻れないよ。グレッグたちはまだ昏睡状態だし、それにエマだって……」
そう言ってリオンが見たのは、騎士たちと隔てるようにカーテンで間仕切られた一角。そこのベッドには昏々と眠るエマの姿があった。
不安げな顔で見つめるリオンに、彼は小さく息をついて言った。
「お前の休む場所、あとで準備してもらう。そうしたら、一刻でもいいから少し寝とけ。それが妥協点だ」
「でも……」
「気持ちはわかる。わかるが、明日は公務だってあるんだ。オレのときのように、大きな儀式のあとで元々休みだったのとは訳が違うだろ?」
「それは……」
真顔で投げかけられた言葉に、彼女の目が訴えかけるように揺れる。泣きそうな顔を見せる彼女に、ルイスは安心させるように微笑んで言った。
「誰か目を覚ましたり、何かあったときは必ず起こす」
「……ルイスは?」
「オレはさっき休憩したし、一日二日寝なくても平気だから心配するな」
そんな彼の軍服を掴み、伏せ目がちに彼女は問いかけた。
「二人とも大丈夫、だよね?」
「エマは外傷もないって話だからな。たぶん、力を乱用した反ど……」
そこまで言ったところで、ルイスがハッとした様子で口を手で覆う。だが、出た言葉は戻らない。彼の言いかけた言葉に、リオンが訝しげな表情で見つめた。
「力?」
「い、いや……」
「ルイス?」
視線を逸らして逃げる翠緑玉を、瑠璃の双眸がジロリと睨め付ける。無言の攻防戦がしばし続くも、根負けした彼は嘆息と共に白旗をあげ、医官たちがまだ戻ってこないことを確認した上で言った。
「他言しないのが前提の話になるが、エマは先見の巫女、なんだそうだ」
「先見の? エマが?」
やや戸惑い気味に反芻された言葉に、彼は迷わず首肯する。彼の無言の返事に対し、リオンはやや考え込むように視線を落として呟いた。
「そう、だったんだ……」
「思ったより驚かないんだな?」
彼が意外そうな顔で問えば、彼女は首を緩く左右に振って言った。
「驚いてるよ。ただ、祝祭のときの先見に対して感じてた疑問というか、違和感に少し納得がいったの」
「納得?」
彼女の言葉に『どういうことだ?』と、もの問いたげな表情でルイスは首を傾げる。そんな彼を見上げ、彼女は口を開いた。
「私の先見の夢ってあまり鮮明じゃないの。抽象的で意味がわかりにくいっていうか」
「そうなのか? でも、祝祭のときは……」
「うん、あのときだけは現実か夢か区別つかないくらい鮮明だった。だから不思議だったんだけど、今の聞いて、もしかしてあの日エマと一緒に寝たからなのかなって……」
「そう言えば、エマもオレの件は、夢に視たって言ってたな」
顎に手を当て、納得した様子でルイスは呟く。そんな彼に対し、彼女は怪訝な表情で問いかけた。
「けど乱用ってどういうこと? エマの目が金色に光ってたのと関係あるの?」
「オレも初めて見たから詳しいことはわからない。ただ、未来を視て動いていた。そんな感じだったんだよな」
真顔で返ってきた答えに、リオンは『そう……』と呟き、思案顔で目を伏せた。
「何か気になるのか?」
「私、前にも一度、エマの目が金色に光ってるの見たことある気がするの」
「いつだ?」
「記憶は朧気だけど、たぶん初めて会ってすぐくらい?」
彼女の言葉を受けたルイスの脳裏に、エマの声が途切れ途切れに過る。
――月巫女様とあなた方三人に関しては、私が神殿に入った際、今の姿の幻を視たんです。月巫女様とは初めて二人きりになった際に。
それは、約一月前に彼が聞いた彼女の言葉の一部。リオンとエマの言葉により、彼の中で推測が確信へと変わる。そんな中、リオンは眉尻を下げてポツリと言った。
「エマ、なんで私に言ってくれなかったんだろう……」
「言えない理由があったのと、オレが止めた」
彼の言葉に、弾かれたように彼女が顔をあげる。その顔に浮かぶのは、戸惑いと悲しみ、そして僅かな怒りの色だ。そんな彼女に対し、彼は真顔で見つめ問いかけた。
「エマに先見の力があるとわかったら、お前どうしてた?」
「どうって、祝祭みたいなことがないように、あ……」
「力を頼ろうとしただろうし、無茶するだろ? だから止めた。さすがにエマがこうなることまでは予想してなかったけどな」
目を見開くリオンに対し、彼は小さく肩を竦めて見せる。そんな彼の言葉に、彼女は『そっか』と呟いた彼女は眠るエマを静かに見つめた。不安げに見つめる彼女に対し、彼はややためらいがちに問いかけた。
「オレも一つ聞いていいか?」
「何?」
「お前、どうして敵の弱点が腕章だって知ってたんだ?」
彼の問いかけに対し、見上げた瑠璃色の瞳がきょとんとした
「グレッグが襲ってきた人の腕章を切ったら、それだけで倒れて……。あと、それが月神の加護から彼らを守ってるって言ってたから」
「なんだって?」
彼女の返事に、彼の目に驚きが色濃く浮かぶ。そんな彼の反応に、リオンは目を瞬かせて尋ねた。
「ルイスは知らなかったの?」
「初耳だ。ヤツらがオレたちの腕章と似たのを着けてるの自体、今回初めて見たし。それに少し切った程度で……いや、もしかして月の剣の話か……?」
「月の剣? 三日月の別称のこと?」
小首を傾げて問いかけられれば、彼は一つ頷くと、腰に下げた剣の柄に手を置きながら言った。
「神殿内で剣を抜いていいのは月の剣を持っている者だけ。持たない者が神殿内で抜剣するのはご法度。神殿騎士が最初に叩き込まれる決まりごとだ」
「あ、だから警備の騎士さまが着けてる腕章に、三日月の刺繍がされてるの?」
「腕章もだし、団長の軍章、オレの隊の隊章、それにこの護衛騎士の証も、だな」
そう言って、ルイスは首から下げたペンダントをつまみ上げた。三日月と剣をモチーフにした意匠が、ランプの明かりで輝き揺れる。
「団長や護衛騎士は立場上、神殿中枢にいることも多い。だから、常に身に付けるものに三日月が入ってるんだ」
「でも、祝祭の前の日、襲ってきた人はそんなもの持ってなかったよね?」
「いや、襲ってきたヤツらは全員三日月の刺青があった」
彼の言葉に対し、リオンの目が唖然とした様子で見開かれる。
「だいぶ昔に彫られたものらしいから、偶然だとは思うけどな。ただ、そうするとあのとき月を持ってなかったオレに何もない理由が説明つかない、か……」
頭を掻きながらぼやくルイスに対し、彼女はやや考え込んだ様子で言った。
「守るためだったから、かも……」
「え?」
リオンの言葉に、彼の目が当惑気味に瞬く。曇り空の隙間から覗く星空を見上げながら、彼女は静かに続けた。
「私の祈りで張られた月神の加護は悪意を浄化するから、悪事を働こうとしない限りは感じないんだって」
「浄化って具体的には?」
「……ヴォラスの人は、良くて戦意喪失、最悪即効性の毒になるって」
俯き、口重い様子で告げた彼女の言葉に、彼の目が瞠目する。二人の間に重苦しい空気が流れる中、やや間を置いくと、彼は恐る恐る問いかけた。
「わかってて、あのとき伝えに来たのか?」
それに対する返事は、無言の首肯。伏せられた目は暗く沈み、真一文字になった唇はきつく噛みしめられている。そんな彼女を痛ましげに見つめながら彼は言った。
「だから、ずっと様子がおかしかったんだな、お前……」
彼の言葉に華奢な肩が僅かに跳ねる。スカートの裾を握りしめるその手は、きつく握りしめられ白んでいた。
一向に顔を上げる気配のない彼女の手を掴むと、彼はエマのベッドサイドまで連れて行き、カーテンを閉める。それでもなお、顔を上げる気配のないリオンに対し、彼は彼女の体をそっと抱きしめて言った。
「向こうはお前を含め、こっちを殺す気で来てたんだ。だから、気に病まなくていい」
あやすように背中を撫でる彼の手に、彼女の目から透明な雫が、一つ二つとこぼれ落ちていく。それと共に、重く閉ざされていた彼女の口が、掠れ声と共に開いた。
「けど、私が知らないところで、もしかしたら今までだって……」
「その可能性は否定しないし、さっきの話が事実ならたぶんできない」
彼の言葉に彼女は息を呑む。硬直した彼女の両肩に手を置いてしゃがんだ彼は、瑠璃色の瞳を真っ直ぐに見上げ、続けて言った。
「だけど、悪意がなきゃそうならないんだろ? それにお前のおかげで助かった命がここにあるし、今までだって他にもきっといたはずだ」
「助かった、命……。私、助けになれた?」
「十分なってただろ。それともお前は助かった命に対して、助からない方がよかったと思うか?」
そう問いかければ、彼女は即座にブンブンと首を左右に振る。そんな彼女に彼は言った。
「なら、あまり自分を責めるな」
「でも……」
「じゃあ、お前を守るために人を切ったオレも同罪だな」
「そんなわけっ……! あ……」
『何を言うんだ』と言わんばかりの顔を見せたリオンが、ハッとした様子で口に手をあてる。彼女の反応を見て、彼は僅かに微笑みを浮かべて言った。
「そういうことだ。罪を背負うなとまでは言わない。けどな、背負うと言うなら、助けたものもちゃんと見ろ」
厳しくも温かみのある彼の言葉に、再び彼女の頬を涙が伝い、拭う彼の手を濡らす。だが、その顔にはようやく微かな微笑みが戻ったのだった。
***
それから翌日のこと。午前中の公務を終えたリオンは、昼食もそこそこに医務室へとやってきていた。グレッグのベッドサイドに腰かけた彼女が紡ぐのは、祈りの詩だ。
そこへ、控えめに医務室の扉をノックする音が響く。それにピクリと反応したルイスは、目線をちらりと扉の方へ向ける。開いた扉の先にいたのは、数名の巫女と神官。彼らだとわかれば、彼は耳をそばだてつつも、目の前で祈りを捧げる主へと視線を戻した。
そして、彼らの会話に耳を傾けていたルイスの目が微かに見開かれる。僅かに浮かんだ動揺を隠し、彼が振り返れば、対応していた医官が歩み寄ってくるところだった。ルイスと目が合うや口を開こうとした医官を制し、彼はリオンに声をかけた。
「月巫女さま」
その呼びかけに、歌声が止み、目を開けた彼女が、彼を見上げる。
「どうしました?」
「医官殿……正確には、あちらの巫女と神官たちから申し出があるようです」
「え?」
彼の言葉を受けた彼女の目が医官へ向けられ、医務室内にいる巫女たちへと向く。彼らの存在に今気付いたのか、戸惑うリオンの目がルイスへと戻る。微かに不安の色を見せる彼女に対し、彼は微かに笑みを浮かべて頷く。『大丈夫だ』と言わんばかりのそれに、彼女は問うように医官へと目を向けた。
「あちらの方々も、ここで彼らのために直接祈りを捧げさせてほしいとのことで……」
医官の言葉に、瑠璃が瞠目し、緊張した面持ちの巫女と神官たちを見やる。そんな彼女に、一人の神官が一歩足を踏み出して言った。
「私は昨日危ないところを騎士さまに助けていただきました。他の者もそうです。みなで先ほど屯所に礼を言いに行った際に、騎士さま方が臥していることを知り、居ても立ってもいられずこちらに参りました」
「月巫女さまほどの力はありませんが、私たちも一緒に祈らせていただけないでしょうか?」
彼の言葉に続けたのは、巫女の一人だ。彼らの顔はみな真剣で、その目には決意が満ち満ちている。そんな彼らに、リオンはやや唖然としていたものの、泣きそうな顔で微笑むと、彼らの提案を喜んで受け入れたのだった。
そうして、彼らと共に祈りを捧げること半日。日が沈み、翌日もまた来ると告げて神官たちが出払ったあとのことだ。
再びリオンが一人で祈りを捧げる中、それに割って入った声があった。
「何故……」
掠れたカウンターテノールの声に、祈りを捧げていたリオンはもちろん、ルイスもまたハッとした様子で目を見開く。そんな二人の視線の先には、微かに目を開け、彼女を見つめるグレッグの姿があった。
それに対し、彼女は彼の手を握りしめ、声をあげた。
「グレッグ、気がついたの!?」
三人の近くにいた医官が気付き、辺りが俄に騒然となる。そんな中、グレッグの微かな声がリオンとルイスの耳朶を打つ。
「何故、助けてくれなかったんですか……」
「え……?」
その言葉に二人の目が当惑したように揺れる。そんな中、熱に浮かされた様子で彼は続けて言った。
「あと一日早かったら、そうしたら姉さん、は……」
そこで意識が途絶えた紫玉が再び隠れる。驚き見開かれた二対の瞳を置き去りにして……。
その後、他の騎士たちも意識を取り戻し始めたこともあり、医務室内が慌ただしい音で溢れかえる。様々な指示が飛び交う中、リオンはルイスに促され、医務室の隣にある病室へと移動した。
ベッドに寝乱れの後が残るそこは、彼女の休む場所として医官たちが準備した部屋だった。ルイスが扉を閉めると、リオンは俯いてポツリと呟く。
「グレッグが私を恨んでるって副神官長さまの言葉、本当だったんだね……」
「リオン……」
名を呼ぶ彼を振り返った彼女は、その顔に歪な苦笑いを浮かべて言った。
「グレッグ本人が言ったわけじゃないし、もしかしてって心のどこかで期待してた。だけど、ただ逃げてただけだった」
そこまで言ったところで、彼女の目から涙が溢れ、頬を伝いこぼれ落ちていく。華奢な体をルイスが抱きしめれば、彼女は彼の軍服にしがみつき、涙声で言った。
「私が居なかったら、グレッグだって、他の騎士さまだって、みんな傷付かずに済んだ」
「リオンのせいじゃない」
「今回のも、祝祭のも、狙われたの私で、みんなそれを庇ったせいじゃない……」
そう言う彼女の目かポロポロと溢れた双涙が、彼の軍服へ染み込んでいく。声を押し殺して泣く彼女を抱きしめる腕に力を込めた彼は、一度目を伏せる。そうして、次に目を開けると、その双眸に決意の色を宿し彼は言った。
「リオン、オレと逃げよう」
静かに告げられた言葉に、涙で滲む瑠璃色の瞳が大きく見開かれたのだった。




