41.社鼠の願いと騎士の復帰
※ 文章の終わりにイメージイラストがあります。
それは満月の夜から数日後。ルイスの謹慎最終日のことだった。
夜も更け、静寂が包む世界で、大半の人間が寝静まる頃。騎士団の宿舎にある自室で、ルイスは一人机に向かっていた。洋灯が照らし出す彼の手元には、日付と共にびっしりと何かが記載された羊皮紙の束。彼はそれらを食い入るように読み耽っていた。
「そうか、だから……」
そう呟くと、彼は書類から顔を上げ、椅子の背もたれに寄りかかりながら天を仰ぐ。しかし、その視点は定まらず、板張りの天井ではない何かを見ているようだ。
彼は、しばらくそのまま微動だにしなかった。しかし、逸らしていた上半身を徐に戻すと立ち上がり、ベランダへ続く窓へと向かう。
窓を開ければ、ガウンを着込んだルイスの体を、冷え冷えとした空気が突き刺していく。だが、彼はそれに構わず外に出て、ベランダの手すりに寄りかかり空を見上げた。
見上げた夜空には静かに瞬く星々と、西の空に浮かぶ少し痩せ細った寝待月。それらを見上げる彼の脳裏に、幼い少年の顔が浮かび上がる。
胡桃色の短い髪に、大きな紫水晶のような目。それらを持つ少年は、古びた短剣を握り締め、小刻みに震えていた。その目に浮かぶのは恐怖と、抗う意志。
「あのとき、剣を握るだけで精一杯だったのにな……」
懐かしげに呟くルイスの口から、小さなため息がこぼれ落ちる。白い吐息は僅かに空へと近付くように昇れば、夜気と混ざり合い霧散していく。
そのとき、階下で地を踏む足音が、微かに彼の耳朶を打つ。その音に彼が階下を覗き込めば、月明かりの中、姿を見せたのは軍服姿のグレッグだった。灯りを持たず、気配を殺している彼に、ルイスは静かに声をかけた。
「グレッグ、こんな時間にどこへ行っていたんだ?」
「えっ……?」
頭上から降ってきた声に、グレッグが弾かれたように顔を上げる。そうして、静かに見下ろす翠緑色の瞳を見るや、その紫玉を大きく見開かせた。
「隊長、どうして……」
「オレは仕事合間の休憩だ」
「部屋着で、ですか?」
「元はオレの仕事じゃなくて、リックの持ち帰り仕事だからな」
おどけた調子で肩を竦めながら言う彼に、グレッグは目を瞬かせた。次いで、微かに顔を綻ばせた彼を、ルイスは静かに見つめた。
「で、お前は?」
繰り返された問いに、グレッグの体がギクリと強張る。僅かに瞳を揺らしつつも、彼は真っ直ぐルイスを見上げて言った。
「ぼ……いえ、私は少々寝付きが悪かったので散歩を……」
「軍服で、か?」
「その、私服で神殿内をうろついては不審者と間違えられかねないかと思いまして……」
「灯りも持たずに出歩く方がよほど怪しいだろ」
ルイスの指摘にグレッグの頬を冷や汗が流れ落ち、その目は不安げに彷徨う。年下の騎士のその反応に、ルイスは一つ息をついて言った。
「まぁ、いい。だいぶ夜も遅い、早めに休んでおけよ」
「はい。そうします」
そう言って、グレッグは一礼し、立ち去ろうと足を踏み出した。宿舎の入り口へと向かう小柄な背が、徐々に遠ざかる。そんな彼の背を見送っていたルイスは、手すりを掴む手に力を込めて口を開いた。
「グレッグ!」
「はい?」
やや強めに呼ばれた己の名に、グレッグはキョトンとした様子で振り返った。そんな彼を真顔で真っ直ぐ見つめて、ルイスは問いかけた。
「お前はどうして騎士になろうと思ったんだ?」
その言葉の直後、二人の間をザァッと冷たい風が吹き抜ける。枯れ葉を舞い散らした風が通り過ぎると、グレッグは体ごと振り返り言った。
「力を得ることで私のような者が増えないようにしたい。ただそれだけです」
「……お前のような、というのは……?」
「私は昔、野盗に全てを奪われました。故郷も、友人も、家族も。情けないことに、ある騎士たちが来るまで、私は震え隠れていることしかできませんでした」
そこまで言うとグレッグは、左耳で揺れるイヤリングに手を伸ばし、そっと目を伏せる。続く言葉を聞き逃すまいとするように、ルイスは彼をじっと見つめた。そんな彼の視線に気付いているのかいないのか、グレッグは淡々と静かに続けた。
「そんな自分が情けなかった。力のない自分が嫌でした。そんなとき、その騎士たちが言ってくれたんです」
そう言って、彼はルイスを見上げ微笑んだ。儚げな笑みを浮かべつつも、まるで宝物の話をするかのように彼は続けた。
「どうしても自分を許せないときは騎士団においで、と。騎士になって、誰かを守れる人になれ、と」
「……今も許せないのか?」
ルイスの問いに対する答えは、自嘲気味な微笑み。そこに込められたグレッグの答えに、彼の眉間に皺が刻み込まれる。彼の唇が真一文字に引き締められると、グレッグは真っ直ぐ翠緑玉を見つめて言った。
「だから私は決めたんです。誰かの力を頼らないと身一つ守れない者が、暴力によって大事なものを奪われない。そんな、優しくて幸せな国になるよう、私にできる全てを為そうと。例えそれで――」
続くグレッグの声が、再び吹いた風の音にかき消される。しかし、その唇が象る形を見たルイスは、瞠目して息を呑んだ。風が止んでもなお、言葉を発せずにいる彼に、グレッグはにっこり微笑んで言った。
「話が以上であれば、私はこれで。隊長も夜更かしは程々にしてください。それでは失礼いたします」
「ちょ、グレッグ、まだ話は……!」
ルイスの呼び声も虚しく、グレッグは踵を返すと振り返ることなく、宿舎の表玄関へと向かい、闇へと姿を消した。やや遅れ、扉の開閉音が小さく響く。その音はまるでルイスを拒絶するかのようだった。
そうして、一人その場に残された彼は、小さくため息を溢し、くしゃりと髪を掻き上げた。
「『例えそれで、自分を含む誰が犠牲になったとしても』か……」
呟いたそれは、唇の動きから彼が読み取ったグレッグの言葉。それに対し、ルイスの表情が怒りと悲しみで歪む。
「お前やリオンを犠牲に成り立つ国の、一体どこが優しい幸せな国なんだ。オレはそんなことのために『騎士になれ』なんて言った覚えはないぞ、グレッグ……」
やるせなさが色濃く滲んだその言葉は、誰に届くこともなく、夜の静寂に溶けて消えていったのだった。
***
その翌日、高くなりつつある朝の日差しが世界を染める頃。ルイスは一月ぶりにリオンの自室へやってきていた。その胸元には、月と剣を象ったペンダントが、光を受けて輝いている。
彼の目の前には、両手を胸の前で合わせたリオン。そんな彼女を前に、彼は敬礼をし、キリッとした表情で言った。
「大変ご迷惑をおかけいたしました。ルイス=クリフェード、本日より復帰いたしま……っと」
彼が最後まで口上を言い切る前に、それを遮ったもの。それは、半ば突進するように彼に抱きついたリオンだった。
彼女の勢いを押し殺せなかった彼の片足が、僅か後ろに下がる。咄嗟に彼女を抱き留めたこともあり、彼の体勢がそれ以上崩れることはなく、その場に踏みとどまる。それに対し、彼の口から小さく安堵の息が漏れる。そして、徐に腕の中にいるリオンを見やると、半ば呆れた様子で言った。
「復帰初日の挨拶くらい、最後まで言わせてくれてもいいだろ?」
「建前の挨拶はいらないからいい」
「いいって、お前なぁ……」
顔を上げずに首を左右に振る彼女に、ルイスは困った様子で頬を掻く。そんな彼の胴に回した腕に僅かに力を入れると、彼女は彼の胸に顔を埋めたままポツリと言った。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
嬉しさが滲むリオンの声とその言葉に、彼の表情も柔らかな微笑みへと変わっていく。離れる気配のない彼女の頭に手を伸ばせば、ルイスはそっと彼女の髪を梳くように撫でた。
そんな中、穏やかな沈黙を破る音が、部屋の片隅から小さく鳴る。その音に、彼が顔を上げて振り返れば、暖炉の火にかけられているヤカンを、ミトンで掴み上げるエマの姿。
彼女が居たという事実に、リオンの頭を撫でる彼の手が止まる。顔を赤く染めて固まったルイスに対し、エマは彼を振り返るとニッコリと微笑んだ。そして無言のまま、彼女はヤカンを片手に部屋の片隅へと移動していく。
そんな彼女の行動に、ルイスは顔を引き攣らせ、リオンの両肩に手を置いて言った。
「えと、リオン。その、くっつき過ぎな気がするから、少し離れてくれないか?」
「嫌?」
「嫌とかそういうわけじゃないんだが……。その、色々とだな……」
眉をハの字にさせ、不安げに見上げる彼女に、ルイスの口元が引き攣る。困った様子の彼は視線を彷徨わせ、最終的にはテーブルの傍でお茶の支度をしているエマを見た。
そんな彼の視線を感じたのか。或いは、不自然に途切れた彼の言葉を不思議に思ったのか。顔を上げた彼女の琥珀色の瞳が、ルイスと目が合うや呆気に取られた様子で数回瞬く。次いで彼女の顔に浮かんだのは、優雅な微笑み。
「私のことならどうぞお構いなく。もう慣れましたし、その程度じゃ動じませんから」
「……それはそれでどうなんだ?」
「一体、誰と誰のせいだと思ってるんです?」
にこやかに告げられたその言葉に、ルイスの顔の赤みが増す。そんな彼にエマは眉尻を下げて言った。
「それに、リック様や私の前では平気な顔して見せてましたけど。ここ数日、ろくに眠れてなかったようだから、気の済むようにさせてあげてください」
告げられた言葉にルイスは目を見開き、リオンはギクッと肩を強張らせて顔を背ける。そんな彼女の両頬に手を添え、自分の方へ振り向かせれば、彼はじっと彼女を見つめた。落ち着かない様子で、リオンは目線だけ明後日の方向へと逸らす。だが、白粉で隠しきれない隈を誤魔化すことは、土台無理な相談だった。
彼女のそれに気付いたルイスは痛ましげに眉根を寄せると、華奢な体を労るように抱きしめて言った。
「悪い。不安がないわけなかったよな……」
「ルイスは何も悪くな……っ……」
言い切る前に、彼女の声には小さな嗚咽が混じり、瑠璃色の瞳からポロリと涙がこぼれ落ちていく。小刻みに震える彼女の体を抱きしめる腕に、彼は僅かに力を込めた。
「まだお前に無理を強いることになると思う。けど、オレの前でまで無理に隠さなくていい」
そう言って、彼が彼女の背中をあやすように撫でれば、くぐもった嗚咽と共にはらはらと雫があふれ出る。そして、彼女の目から溢れたそれは、静かにルイスの軍服へと染みこんでいった。
声を抑えながらも、緊張の糸が切れたように泣くリオン。そんな彼女を静かに見つめるエマは、微苦笑を浮かべて小さく息をついた。その顔に浮かぶのは、安堵とほんの少しの寂寥感。呆れなどの色は一切ない。そんな彼女のそれは、さながら子を見守る母の面差しに似ていた。
それからしばらくして、リオンの涙が落ち着いてきた頃。お茶の香りによって、現実に引き戻された二人は、いつもの席でエマが淹れたお茶を飲んでいた。
そんな中、徐にカップを置いたルイスは、斜め真正面に座るエマを見て真顔で言った。
「エマ、色々面倒をかけてすまなかった」
「そう思うなら、これまでのような無茶は極力控えてください」
「次がないことはオレも祈りたいところだな」
すまし顔でカップを傾けながら告げたエマに、ルイスは軽く両肩を竦めて見せた。そんな彼の返事に、彼女の眉間に皺が寄り、瞳には僅かに険しさが滲む。それを苦笑いで受け流した彼の目は、エマの隣に座るリオンへと向かう。まだ目元を赤く染めたままの彼女に、ルイスはそっと問いかけた。
「リックから報告はざっくり聞いてはいるが、記憶の変化はないか?」
「今のところはない、と思う……」
今ひとつ歯切れの悪い彼女を、ルイスは訝しげに見つめる。心配の色がありありと見て取れる彼に対し、リオンは気まずげに言った。
「エマには昔の話、リックには最近あった話をしてもらってはいるんだけど……。覚えてないことがあっても、それを忘れてる理由がどれかわからなくて……」
「自然のものか、忘却水によるものか。忘却水だとしても、それがライル=フローレスのときのものか、今回のかってことか……?」
ほぼ確信を持って告げられた問いに、リオンの顔がコクリと小さく上下する。そんな彼女の反応に、彼は眉を寄せ、頭を掻きながら言った。
「確かにその辺の判断は難しいよな……。全く、副神官長も厄介なことをグレッグに命令してくれたものだ……」
苦々しげにそうぼやいたルイスの口から、大きなため息がこぼれ落ちる。そんな中、ソーサーごとテーブルにカップを置いたエマが、おずおずと口を開いた。
「ルイス様、そのグレッグ様の件なのだけれど。彼、本当にリオンに忘却水飲ませようとしてるのかしら?」
そんな彼女の言葉に、リオンとルイスは瞠目し、エマを振り返る。二人がマジマジと彼女を見つめるも、その琥珀色の目に浮かぶのは、純粋な疑問の色。それに対し、ルイスの目が鋭さを帯びて、僅かに細められる。
「どうしてそう思ったんだ?」
「ここ数日、リオンの傍にいるときは、彼の行動には気を配っているのだけど。これといって何も変わらないのよ」
訝しげな表情で、頬に手を当て告げたエマの言葉に対し、彼の顔に困惑の色が浮かぶ。そんな彼の翠緑色の瞳を真っ直ぐ見つめて、彼女は続けて言った。
「リオンとリック様から話を聞いたとき、リオンの食べるものに混ぜようとするんじゃないかと思ったわ。だけど、彼が配膳を手伝うと言ってくることはおろか、水差しも含め、リオンの食べ物に近付く気配が全然ないのよね」
「そうなのか?」
「私が知る限りは。そもそもリオンが働きかけないと、彼自身そう滅多に部屋にも入ってこないですし。その辺りは、護衛になったばかりの頃のルイス様方と同じですよね?」
「一応、それが基本ではあるからな。しかし、どういうことなんだ……」
彼女の話を聞いたルイスは、顎に手を当て難しい顔で黙り込む。彼が黙ったことにより、その場に緊張感を帯びた静寂が降りる。
「完全に言いなり、というわけじゃないのか?」
やや間を置いた後に零れた彼の言葉に、張り詰めていた空気が僅かに緩む。そんな中、リオンは手元に視線を落としながら口を開いた。
「ねぇ、ルイス……」
「なんだ?」
呼ばれて顔を上げたルイスに対し、彼女の瑠璃色の瞳が不安げに揺れる。一呼吸の間を置くと、彼女は手元で揺れる赤橙色のそれに映る自分を見つめながら、躊躇いがちに尋ねた。
「ルイスの謹慎が解けても、グレッグは護衛騎士のまま、なんだよね?」
「一度任命された以上、よほどの理由がない限り外すのは難しいな……。団長にも相談はしてるんだが、今可能なのは、極力オレとリックが護衛する時間を増やすことまでだ。……すまない」
その言葉に対し、視線を伏せた彼女は、ゆるゆると首を左右に振った。だがそれに反し、彼女のカップを持つ手に微かに力が籠もる。そんな彼女の様子にルイスの顔が申し訳なさそうに歪む。
互いに黙した二人の様子に、見かねたエマが口を挟んだ。
「今回の話はよほどの理由だとは思うのだけど……。証拠になりそうなものはないんです?」
「残念ながら、証人が消された今、二人を犯人と断言するものはまだだ」
悔しさを滲ませながらもハッキリと口にするルイスに、エマの顔も曇る。しかし、そんな中、ルイスは二人を見て言った。
「だが、必ず見つける」
力強く発せられたその言葉に、伏せられていたリオンの顔がハッとした様子で上がる。顔を上げた彼女が見たのは、揺らぐことのない翠緑玉。それを見た彼女の肩と強張った顔から僅かに力が抜ける。そんな彼女を真っ直ぐ見つめ、ルイスは続けた。
「それまで、もう少しだけ頑張れるか……?」
そんな問いかけに、リオンはソーサーとカップをテーブルに置くと、両手を膝の上に乗せ、それを見つめながら言った。
「……正直に言うと怖いけど……」
そこで一度言葉を区切った彼女は、一度目を伏せたあと、真っ直ぐルイスを見上げて言った。
「それでも頑張るよ。私のことなのに、ルイスたちだけ頑張らせるのは嫌だもん」
そう言って彼女はにっこりと笑って見せた。そんな彼女の精一杯な強がりに、彼は申し訳なさげに、しかしホッとした様子で微笑んだのだった。
 




