2.居場所
「ああもう! 今日は一体どこに雲隠れしたんだ、あの巫女姫さまは……!」
少々語彙の荒っぽい愚痴をこぼし、汗と焦りを滲ませながら走るのは月巫女の護衛騎士、ルイス=クリフェードだ。彼の言動を咎める者はおろか、彼の周囲に他の人の気配はない。
彼が今居るのは、大きな白亜の神殿を取り囲む木々の中。雲間から満月が覗く夜空の下を駆ける彼の傍に、彼が守るべき少女の姿はない。それこそが、彼が駆け回っている理由なのだが、その原因は約一刻前まで遡る。
***
沈んだばかりの夕陽の赤が、宵闇と共に空にグラデーションを描いていた頃。ルイスは翠緑色の瞳を瞬かせ、口を開いた。
「『エマが来るまで誰も通さないでほしい』……ですか?」
その言葉に対し、彼よりも頭一つ分ほど小さな主――リオン=レスターシャは三日月の髪飾りを揺らしながら頷いて言った。
「少し疲れてしまったから、眠りたいのです。だから、エマが来るまで一人にしてもらえませんか?」
「それは構いません、が……」
そこで言い淀んだ彼は、主をじっと見つめる。眉を寄せる彼の言わんとすることを察したのか、彼女は困ったように笑みを浮かべて言った。
「本当に休むだけですから」
「……承知、いたしました」
そうして、不承不承ながら彼は、扉向こうに消える彼女の背を見送った。
それから、まもなく一刻が経ち、宵闇が色濃くなり始めた頃。濡れ羽色の緩いウェーブがかったポニーテールを揺らしながら、一人の巫女が優雅ながら早足で彼の元へ真っ直ぐ向かってきた。
彼女とすれ違う巫女たちが纏うのは、紅白の巫女装束。それに対し、黒髪の彼女が纏うのは形も異なり、色も白と若葉色と特徴的だ。
金の三日月と琥珀でできたペンダントを揺らしながら、彼女は彼の真ん前で立ち止まる。彼よりも頭半個分ほど背の低い彼女は、琥珀色の瞳を真っ直ぐルイスに向けて言った。
「ルイス様、護衛お疲れ様です」
「エマもお疲れ様」
「月巫女さまは中に?」
「ああ。エマが来るまで休みたいとのことで、休んでおいでだ」
そんな彼の言葉に『了解した』とばかり頷けば、巫女――エマは扉を二度ノックして口を開いた。
「月巫女さま、エマです」
そう声をかけるも、待てど暮らせど返事は来ない。その状況にルイスは訝しげな表情を浮かべるも、中の気配を探った彼の顔から血の気が失せる。
「月巫女さま、失礼いたします」
「え、ルイス様?」
ノックの返事を待たずに主の部屋に押し入ったルイスの行動に、戸惑うエマの呼び声が彼を追う。だが、ただならぬ気配を察したのか、彼女もまた躊躇いながらも部屋へと入った。
灯の入らない暗い部屋を支配するのは沈黙。そんな中、窓から入る夜風が二人の頬を撫でる。大きく開いた窓にツカツカと近付いた彼は、額を押さえて唸るように言った。
「やられた……!」
彼の目の前には、小さなバルコニーの手すりに結びつけられたシーツが、地面に向かい伸びている。やや遅れ、後ろから覗き込んだエマもまた、目を大きく見開く。そんな彼女に、ルイスはため息交じりに言った。
「エマは部屋を暖めて待っててくれ。オレは月巫女さまを探しに行ってくる!」
そう言って彼は、彼女の返事を待たずに、窓の手すりに手をかけてひょいと乗り越えれば、二階から地面に向けて跳躍する。難なく着地した彼は、辺りを見回したあと、人の気配の少ない方――神殿を囲う森へ向かい駆けだした。
***
そうして現在に至る。
「なんだって巫女姫さまは、オレが護衛のときに限ってなんでこう毎度毎度……。殺気がない上に慣れきってない分、ただでさえまだ気配を察知しにくいっていうのに、阻止した脱走を含め何度目だ?」
苛立ちと呆れ混じりにボヤきながらも、彼は主の姿を探し、森の中を駆け回る。だが、かの少女が持つ髪は、夜の闇に溶け込む青藍色だ。そう簡単には見つからない。
そうして、聖湖と呼ばれる大きな湖の手前まで来たところで、彼の足が止まる。その湖は神殿内でも、神聖視されている特別な場所が故に、如何に護衛騎士と言えども、容易に立ち入ることのできない場所だったからだ。
やや上がり気味の呼吸を整え、ルイスが足の向きを変えようとしたときのことだった。
「……かに……ているの……」
「……歌?」
微かではあるが、比較的はっきりと彼の耳に届いたのは高く澄んだ歌声。探し人とよく似た歌声に、彼は辺りを見回し、自身と声の主以外人の気配がないことを確認すると、そのまま先へと足を進めた。
静かな歌声に導かれ、聖湖の畔へと足を運んだ彼は、見つけた人の姿にホッとすると同時に、相手のいる場所を見て微かに息を呑んだ。
「月巫女、さま……?」
聖湖の湖の中に立っていたのは、彼が探していた守るべき主――月巫女のリオンだった。
月巫女の装束でもある桜色の長いスカートの裾が濡れるにも構わず、彼女は静かに歌を紡ぐ。静かに満月を見上げて歌う彼女の後姿はあまりにも儚く、ともすれば消え入りそうな雰囲気を醸し出している。
その姿を見たルイスを、焦燥感にも似た感情が襲う。聖域とも称される湖の中には入らないよう細心を払いながらも、彼は思わずといった様子で彼女の手を掴んだ。
それに対し、驚いたように振り返る瑠璃の瞳が彼の姿を認めると、キョトンとした様子で首を傾げた。
「え……? ルイス、どうして……」
危機感など皆無の主の様子に、ルイスは切れ長の瞳を僅かに細め、眉根を寄せて言った。
「『どうして?』ではありません。一体あなたは何をなさっているんですか、こんな所で」
「こんな所って……。一応ここ、身を清めたりする聖湖……」
「それは存じております。そういう問題ではなくてですね……。いえ、とりあえず、こちらにお上がりください。このままではあなたが風邪を召されます」
そう言って、半ば強引に湖から彼女を岸に上げる。その瞬間、小さなくしゃみが彼女の口から飛び出す。そんな彼女の瞳をまっすぐに見て、彼は問いかけた。
「無礼をお許し頂けるのなら、御身を今すぐにでも神殿にお連れしたいところなんですが……」
「それは、できたらもう少し見逃してほしい、です」
返ってきたのは、拒否と悲しげなリオンの微笑み。それに対し、ルイスは小さく息をつくと、肩の留め具を外し、彼女の肩に翠緑色のマントをふわりとかけていった。
「ならばせめて、こちらで火を熾す許可をくださいませんか?」
「それは大丈夫、ですけど……」
「ありがとうございます。では、少し冷えるかとは思いますが、しばしそれで我慢してください」
そう言って、ルイスは辺りを見回す。そんな彼に、リオンは肩にかけられたマントを押さえながら問いかけた。
「でも、ルイスは寒くないのですか……?」
「寒いか寒くないかと問われれば、やや肌寒いです。日が落ちれば冷え込む時分、どこかの巫女さまが薄手のお召し物で水遊びしているのを見たので、心身共に冷えました」
柔和な笑顔とは裏腹に棘が混じる言葉に対し、リオンはバツが悪そうに視線をそらした。そんな五つ年下の主の様子に小さく息をつくと、ルイスは彼女と目線を合わせ、真顔で問いかけた。
「私の寒さが気になるようでしたら、神殿に戻られますか? エマも心配しているでしょうし、私としてはそちらの方が助かりますが」
「それは……」
言い淀むリオンの口から『戻る』という言葉は出てこない。言葉に詰まる彼女に対し、彼は仕方ないとばかりに苦笑を浮かべる。
両手を握り締め俯くリオンに対し、彼は静かに言った。
「これは私の憶測になりますが。恐らく戻り次第湯浴みとなり、その後、エマから説教を受けることにはなることは不可避だと愚考いたします」
彼の預言に、ギクリとリオンの肩が跳ね上がる。
視線を忙しなく彷徨わせるリオンと、苦笑を浮かべたルイスの脳裏を過るのは、眉尻を釣り上げ、笑顔を浮かべながら仁王立ちするエマの姿だ。その姿に両者共、顔が僅かに引き攣る。想像した姿に対し、躊躇うように瑠璃色の瞳が揺れ動く。そんな彼女に、ルイスは続けて言った。
「彼女の説教を、少しでも軽く済ませられたいのでしたら、まずは濡れた足を拭き、冷えた身体を温めることです。もっと言わせていただくのならば、私のことよりもまず、御身を何より大事にすることを覚えてください」
告げられた言葉の意味がわからなかったのか、リオンの目が瞬く。だが、その意味に気付くと顔を綻ばせ、彼女はしっかりと頷き返した。
その後、リオンの案内により、身を清める際に火を熾す場所へ移動し、ルイスは周囲に落ちていた枝を集め、焚き火を熾す。その温もりに手を翳せば、彼女はホッとした様子で息をついた。
しばしの間、火の爆ぜる音だけが辺りに響く。そんな中、沈黙を破るように彼女はポツリと言った。
「手間をかけてしまってごめんなさい」
彼女の謝罪に振り返った彼は、苦笑いを浮かべて言った。
「そう仰られるなら、できれば何も言わずにお隠れになるのを止めていただけるとありがたいです」
「それはちょっと、約束はできない、かも……」
視線を逸らし、尻すぼみに小さくなる声に、ルイスは嘆息して言った。
「護衛について早一月、私もそれなりに慣れて来ましたし、善処はいたします。ですが、あなたをお守りするのが私の役目です。ですから可能なら、何故このようなことを繰り返されるのか、理由をお聞かせ願えないでしょうか?」
ルイスが真っ直ぐ見つめて問いかければ、彼女は逡巡した様子で月を見上げて言った。
「一人になりたいというか、私になりたいだけなの」
「自分になりたい、ですか?」
「そう。今みたいな時間は、私が月巫女でいなくてもいい限られた時間だから。だけど、神殿の中にいる間はどうしたって『月巫女』として扱われるから、ここに来るの。潔斎がない限り、ほとんど誰も来ないここでしか私は『リオン』になれないから」
月巫女としてではなく、素の口調で紡がれた言葉に色濃く滲むのは諦観だ。ただ静かに耳を傾ける彼の沈黙に、リオンはハッとした様子で慌てて笑顔で言った。
「ごめんなさい。いきなりこんなこと言われたって困りますよね。そろそろ身体も温まりましたし、今日はもう戻りましょう」
再び月巫女としての口調に戻した彼女は、腰掛けていた小さな岩から立ち上がろうとした。だが、そんなリオンの腕を、ルイスの手が掴んで阻む。腕を掴んだまま、真っ直ぐ見上げてくる彼に、瑠璃色の瞳が戸惑い瞬く。
「えと、ルイス……?」
――この方は、こういう顔もするんだな。
困惑した様子の主に対し、そんなことを内心で呟きながら彼は、真摯な眼差しを向け真顔で言った。
「私が今お仕えしているのはあなたです。主がまだ戻りたくないと望むのならば、危険がない限り無理強いはいたしません。ただ私は『リオン=レスターシャという名の主を守る』自分の役目を全うするだけです」
彼の言葉は予想外だったのか、リオンの瞳が呆気に取られた様子で瞠目する。ようやく彼が言外に言わんとすることを理解したのか、彼女は瞳を揺らしながら言った。
「じゃあ、もう少しだけ、付き合ってください」
そう言って彼女は、今にも泣き出しそうな目で、嬉しそうに微笑んだのだった。
※ 一刻=約2時間
(月夢の時間概念は、江戸時代の不定時法を元に、春分・秋分の長さで固定したものとご理解いただけると幸いです)




