27.つかの間の平穏
※ 文章の終わりにイメージイラストがあります。
微かに温もりを帯びるようになった陽光が窓から降り注ぐ中、ルイスは上半身裸でベッドの上に正座をしていた。緊張した面持ちをした彼の背後には、鼻眼鏡ごしに目を細めて彼の背中を診ているパチルの姿がある。彼はあちこちルイスの背中や腕を時に直接触れながらじっくり観察すると、眼鏡を外して言った。
「傷の経過はまぁまぁと言ったところかのぅ。完全に塞がるまでは毎日体を清潔にしたあと薬を塗って包帯を変えてもらう必要はあるが、剣を振るう以外ならもう問題ないじゃろう」
「剣はいつ頃からなら振れるのでしょうか?」
「お主が儂や医官たちに隠れて鍛錬などせずに、さっさとその熱を完治させることじゃな」
「え、ルイス様、そんなことなさってたんですか?!」
パチルの方へと体ごと向き直ったルイスの背後で、そんな素っ頓狂な声を上げたのは、彼の病衣を片手に立つエマ。そんな彼女の言葉に、ルイスは肩をギクリと強張らせながら、気まずそうに顔だけで振り返った。その先には驚きと怒りを露わにした琥珀色の瞳。そんな彼女の視線に、苦笑いを浮かべながら気まずそうに目を泳がせたルイスを見るや、彼女は呆れたように大きく息をついて言った。
「毒の後遺症は残ってないと伺っていたのに、微熱が続いているのはどうしてかと不思議に思ってましたけど……。全くルイス様、何なさってるんですか?」
「いや、まぁ、その……体がなまりそうでつい……」
「つい、で熱を長引かせてどうなさるんですか!」
「まぁまぁ、エマ殿、落ち着きなされ」
じと目で抗議していたエマがついには声を荒げれば、パチルは微苦笑を浮かべてそれを宥めた。そうして、エマが落ち着きを取り戻したのを確認すると、そのまま静かにルイスを見て言った。
「じゃが、ルイス殿、エマ殿の言うことはもっともじゃ。焦る気持ちもわからんでもないが、今はとにかく体を休めるのがお主の仕事じゃ。そうしないと治りが遅くなる一方じゃぞ?」
「しかし……」
「ルイス様、あまりごねるようでしたら、諸々月巫女様にお伝えいたしますけど、それでもよろしいですか?」
にっこりと微笑むエマの言葉に、ルイスの全身が硬直する。目を見開いて恐る恐る振り返る彼に、エマは続けて言った。
「今のところ、無用の心配をかけるのもどうかと思ったので、熱がまだ引いていないことなどは敢えて伏せているんです。ですが一度、月巫女様にお灸のお手紙でもしたためていただけないか交渉してみましょうか?」
「エマ、それは……」
「それは……?」
「…………善処させていただきます」
怒気のこもった笑みにルイスががっくりと項垂れて答えれば、エマは再度小さく息をついた。そんな二人のやりとりに、パチルは微笑ましげに笑うと小さな薬壺と包帯をエマに差し出しながら言った。
「ま、何はともあれ、今日の診察はこれで以上じゃ。あとはいつもどおりお願いしてもよろしいかな?」
「はい、もちろんです」
「ルイス殿、今日から宿舎での生活に戻ってもらって構わんが、その前に必ず医務室に薬を取りに来るんじゃぞ。良いな?」
「わかりました」
二人の素直な返事に、パチルは満足げに頷くと、ゆったりとした足取りでその場を後にした。そうして、一人分のベッドの他、必要最低限の家具しかない小さな病室にはルイスとエマの二人だけが残され、しばし沈黙が降りる。が、エマは病衣をベッドの空いた場所にそっと置くと、薬壺の蓋を開けながら言った。
「じゃあ、薬つけますね」
「ああ、いつもすまない」
「別に構わないわ。ルイス様のことはリオンから頼まれてるし、包帯巻くのももう慣れたもの」
「そうか……」
淡々とした様子のエマにルイスが苦笑を漏らせば、エマは微かにムッとした様子で薬を塗る手を止めずに言った。
「全く、リオンの頼みとは言え、毎日看病してる身としては、さっきの話を含め笑い事じゃないのだけど? 実はルイス様って結構バカなんですか?」
「……いや、そこまで言うほどでは……」
「言うほどです」
ぴしゃりと言い切るのと同時に、あてたガーゼの上から軽くぱしっとエマが平手打ちすれば、ルイスの口からくぐもった呻き声が零れる。そんな彼の様子に、エマは薬壺の蓋を閉じて脇へ置くと、ガーゼを覆い隠すように包帯を巻き付けながら言った。
「この程度で痛がる程にはまだ怪我治ってないんですから、ちゃんと治るまで無茶しないでください。リオンが知ったら心配で飛んで来かねないでしょう?」
「お前が話さない限りは大丈夫だと思ってるんだが……」
「そうね。ちゃんと治療に専念してくださるなら、言いませんよ?」
「……エマ、包帯が苦しいんだが……」
「あら、ごめんなさい。ちょっと力こもってしまったみたい」
ほほほ、とわざとらしい笑い方をする彼女の言動の節々に滲み出ている怒りに、ルイスが気まずげに視線を彷徨わせたそのときだった。パチルが出て行ってから静かだった病室のドアを控えめにノックする音が響く。
それにルイスは目を瞬かせてエマと顔を合わせた。が、さほど間を置くことなく、ルイスが返事をすれば、そっとドアを開けて顔を覗かせたのは、青藍色の髪と瑠璃色の瞳。それはルイスにとって八日ぶりに見る主の顔だった。本来であれば、今ここにいるはずのない彼女の顔を見たルイスとエマが驚きに目を見開く中、彼女――リオンは小首を傾げながら言った。
「パチル様はいらっしゃる?」
「いえ、先ほど出られたばかりですが……。何故、月巫女様がこちらに?」
「リオンがルイスのことで無茶しようとしてたから、息抜きに?」
そう答えたのは、リオンに続いて病室に入り込んでドアを後ろ手で閉めたリック。そんな彼の言葉に、ルイスは眉根を寄せながらリオンを見つめた。
「無茶って……、お前何しようとしてたんだ? まさかとは思うが、まだオレの謹慎処分の撤回諦めてなかったとか言わないよな?」
「……えーと……」
リオンの目が明後日の方向へと逸らされると、じと目で見つめていたルイスは大きく嘆息して言った。
「頼むから、自分でわざわざ敵を作るような真似はするなよ。ついでに、謹慎中のオレに会いに来るのもダメだ。見つかったら余計に面倒になるだけだぞ?」
「う……。それは昨日リックに言われたし、今はわかってる、つもりだよ。それに、今回は会うのが目的で来たわけじゃないから大丈夫!」
気まずげに言い訳染みた言葉を並べたあと、両手の拳を握り絞めて訴えるような視線で堂々と告げられた言葉に、ルイスは胡乱げにリックを見た。その視線を受けたリックはと言えば、全く動じた様子もなく、飄々とした笑みを浮かべて言った。
「パチル様に用事があって医務室行ったら、こっちだって聞いたから来ただけで、会ったのはたまたまだよ」
「たまたま、ねぇ……」
「そ、たまたま。症状が落ち着いて個室の病室へ移ったルイスの居所なんてオレたちは知らないし、あくまでもパチル様に用事があって探しに来ただけだからね」
「……随分と都合のいいたまたまもあったものだな?」
睨めつけるように見つめても、ニコニコと無言で微笑みを浮かべるリックの様子に、ルイスは額を抑えて小さくため息を漏らしたのだった。一方で、そんな彼らのやりとりに、ようやく事態の全容を把握したのか、エマは少々呆れを滲ませた様子でリオンを見て言った。
「リオン、気持ちはわからないでもないけど、あなたが無茶したらその分、神官様方に咎められるのはルイス様とリック様なのよ? そこはちゃんと気付いてる?」
「それは……」
そこまでは思い至っていなかったのか、リオンの視線が不安げにルイスとリックへと向けられる。そんな彼女の様子に、エマは小さく息をついて言った。
「全く……。言い出したのはリック様のようだけど、こんな無茶はルイス様の謹慎が解けるまではもうしないこと。下手すればルイス様の謹慎期間延ばされるわよ?」
「え、それは嫌!」
「なら、ルイス様が謹慎中の無茶はこれっきりになさい」
「……わかった」
そう言って渋々ながら頷いたリオンは、しばし視線を彷徨わせたあと、ルイスをじっと見た。その視線を受けたルイスが不思議そうに首を傾げるも、リオンはそれには応えずに、そろりとエマを伺うように見て問いかけた。
「ところでエマ。その……包帯の交換、私にやらせてもらっちゃダメ?」
「え……?」
リオンの言葉にエマとルイスが目を瞬かせて同時に声をあげる。そんな中、エマが訝しげに目を細めると、リオンは慌てた様子で両手を左右に振って言った。
「あ、いや、無茶したのは悪かったと思ってるし、反省もしてるよ! ただ、今戻ったらあと半月は会えないから、できることはしておきたいなって……」
「うーん……。まぁ、ガーゼは当ててあるから平気かしら……」
「ホント?!」
「ただし、血が滲んできたりするようなら、そのときはすぐ私と交代するのよ?」
「うん、わかった」
もはや姉妹というよりも母娘を彷彿とさせるやりとりを交わすと、リオンはエマから巻きかけの包帯を受け取り、ルイスの背中に回った。そんな彼女の気配に、様子を見守っていたルイスは微かに緊張した面持ちで姿勢を正した。
「きつかったら言ってね?」
「あ、ああ……」
そんな言葉を交わすと、ルイスは気持ち両腕を挙げ、リオンはエマが巻いていたところから、たどたどしい手つきで包帯を巻き付けていく。しかし、その包帯は緩く弛んでいて、全く抑えの意味を成していなかった。それに対し、ルイスは申し訳なさそうに言った。
「リオン、悪いんだけど、もう少しきつめにしてもらってもいいか?」
「えっと、このくらい……?」
「いや、もうちょっと」
「じゃあ、これくらい?」
「いや、もう少し思い切って、もっ……?!」
ぐいっとリオンが力任せに包帯を引っ張った瞬間、ルイスの語尾が不自然に上がる。そんな彼の様子に、彼女は目を瞬かせ、引っ張る力を緩めた。すると、ルイスは、はーっと大きく息を吐き出し、恨みがましい目で彼女を振り返り言った。
「お前、実はふざけてないか……?」
「なっ……!! これでも大真面目にやってるよ!」
「にしたって、ほどけそうなほど緩いか、息苦しくなるほどに絞めるかって、極端すぎるだろ……」
「エマの見よう見まねだし、初めてなんだから仕方ないじゃない」
顔を真っ赤にして言うリオンに、ルイスは呆れたように小さく息をついて言った。
「いつ包帯の巻き方覚えたのかと思ったけど、そうじゃなかったんだな」
「覚える前に謹慎期間になっちゃっただけだもん……」
「全く……、そういうことは先に言え。包帯を持つ手を体から離さないで、添わせるように巻くんだよ」
「え?」
「包帯を上手く巻くコツ」
「わ、わかった」
ルイスの体から離すように持っていた包帯を、くるくると巻き取り直すと、リオンは彼に言われたとおり、体に添わせるように包帯を持つ手を動かす。それに対し、ルイスが一言二言アドバイスをしながら、作業は進んでいく。
それを傍目から眺めていたエマは口元を微かに引き攣らせながら、隣に立っているリックにぼそりと小声で言った。
「交代したのは間違いだったかしら……?」
「んー……何だかんだ、まんざらでもなさそうだし、楽しそうだしいいんじゃないかな」
「それは確かに……。というか、なんかこの部屋、空気が甘ったるい気がするのは気のせいかしら?」
「いや、この上なく甘ったるいと思うなぁ。というか、砂を吐くって言葉は二人のためにある言葉だとオレは思うね。本人たちは至って真剣で全く自覚はないみたいだけど」
「……じゃれてるようにしか見えませんよねぇ……」
「同感」
そんな半ば呆れた様子で眺めているエマとリックを他所に、彼らの目の前ではどうにかこうにか包帯の固定にまで辿り着いたリオンが、やりきった様子で息をついた。
「これでどう?」
「そうだな……。特にほどけたりもしなさそうだし、初めてにしては上出来なんじゃないか?」
「よかった」
上半身を軽く動かしながら告げられたルイスの言葉に、リオンは嬉しそうに微笑んだ。しかし、背中と右腕を覆う包帯を再度見ると、彼女は眉を顰めて彼の背中にそっと手を当て、軽くその手を握りしめた。その温もりに、腕を上下させていたルイスはピタリと動きを止め、頬を微かに染めながら彼女の方へと振り返った。
「リオン?」
「私のせいでごめんなさい」
ぽすっとルイスの背中に額をつけたリオンが紡いだのは謝罪の言葉。その言葉と微かな震えを帯びた彼女の声に、ルイスは僅かに目を瞠ると苦笑しながら言った。
「それ目が覚めてからもう何度も聞いてるぞ?」
「……だって、私ルイスに守って貰ってばかりで、ルイスのために何もできてない」
「こうして包帯巻いてくれたり、謹慎前までは看病だってしてくれただろ。それで十分だよ」
「十分なんかじゃない。みんな、ルイスのこと好き勝手噂してる。それなのに、今の私じゃそれを上手くどうにかする方法が見つけられないの……」
そう言ったリオンが彼の背中に当てた両手に微かに力を込めれば、ルイスは目を細めて言った。
「オレなら平気だ」
「え……?」
ルイスの言葉にリオンが顔を上げれば、彼はベッドの上で体ごと振り返り、彼女を真っ直ぐ見つめて言った。
「謹慎の残りもせいぜい二十日程度だし、そんなのやるべきことを片付けてたらあっという間だ」
「でも、その間いろんな人がルイスのこと、あることないこと言うかもしれないんだよ?」
「別にそれはオレだけじゃなくて、お前にだって言えることだけどな。まぁ、前より少し注目されやすいだけの話だろ」
そう言ってリオンの頭をポンポンと撫でると、ルイスは苦笑しながら言った。
「ちゃんと怪我も治すし、謹慎解けたら戻るから、心配するな」
「ここが嫌になって居なくなったりしない……?」
「しない。約束しただろ、見届けるって」
ルイスが間髪入れずに否定したあとで口にしたのは、新月の夜に二人が交わした約束。それにリオンは微かに目を見開いたあと、僅かに涙を浮かべた瑠璃色の瞳を、ホッとしたように細めて微笑んだ。そんな彼女の笑顔を見て、ルイスもまた柔らかく目を細めて微笑み返したのだった。
そうして、穏やかな時が流れたのもつかの間。ルイスはハッとしたように、リオンの頭を撫でていた手をパッと戻すと、そろ~りとドアの方を振り返った。
そこには、リオンとルイスにとっては、もはや空気と同化しかけていたリックとエマの姿。どこか呆れたような目をした二人の様子に、ルイスが口を開こうとすると、先んじてリックが手をひらひらさせながら口を開いた。
「あー、廊下に出るといろいろバレそうだからここにいるけど、オレたちのことはお構いなく。次の公務まであと半刻くらいはあるし、ごゆっくり~」
「そうそう。別に空気が甘ったるかろうが、全然気にしてませんから」
そんな二人の言い分にルイスは口をパクパクさせながら顔を真っ赤にさせた。が、リオンには通じなかったのか、彼女は小首を傾げて言った。
「空気が甘いってどういうこと?」
「今までリオンとルイスが醸し出してた空気のことだよ」
「そうなの?」
「……頼む。そこでオレに振るのは勘弁してくれ」
不思議そうに問いかけるリオンに、ルイスは真っ赤になった顔を片手で隠しながら気まずそうに視線を逸らした。そんなルイスにリオンは首を傾げ、リックとエマは顔を見合わせて笑い合った。
そんないつかのような温もりあるやりとりに、リオンはいつしか心底嬉しそうに微笑んだ。そして、そんな彼女につられるように、ルイスもまたぎこちなく笑みを浮かべたのだった。




