25.祈り願う夜
※ 文章の終わりにイメージイラストが複数あります。
南東の空に満月がそろそろ差し掛かろうかという頃合いのこと。人気がない神殿の中で、明かりがまだ灯されている神官長の執務室からそれは聞こえてきた。
「何故ダメなんですか!?」
強い口調でそう問いかけたのは、軍服を模したような紅藤色のドレスを纏い、髪を一つに結い上げたリオン。その両目は充血し、その周りも微かに腫れている。しかし、ほんの僅か一刻前まで絶望に染まっていたはずのその瞳には、確かな光が戻っていた。
そんな彼女が両手の拳を握りしめ、怒りを露わに見つめる先に居るのは、その部屋の主である神官長だった。彼は机越しに相対しているリオンの様子に気圧されているのか、及び腰になりつつも、毅然とした態度で言った。
「穢れるからでございます」
「彼は私を庇って、今なお生死の淵を彷徨っているというのに、たったそれだけのために、私に報いる機会すら棒に振れと仰るのですか?!」
「月巫女であるあなたが穢れに触れるなど、決してあってはならないことです」
「……そうですか」
リオンの語気が落ち着きを取り戻したことに、神官長はホッと胸を撫で下ろした。それは彼女の後ろで事の成り行きを、ハラハラとした様子で見守っているエマとグレンにも言えることだった。が、それもつかの間。リオンはその目に宿した光はそのままに、にっこりと微笑んで言った。
「でしたら今日、私はすでに神官長様が仰る穢れに触れましたから、もはや月巫女としての資格はなく、ただの一巫女ということですね」
静かながらきっぱりと宣言されたそれに、神官長は言葉を失い、黒檀の瞳を大きく見開いた。リオンの後ろでは、彼女が投下した爆弾発言にエマはあんぐりと口を開き、グレンも目を瞠っている。そんな彼らの様子を気にする素振りもなく、リオンは続けざまに言った。
「一巫女としてでしたら、別に穢れに触れたところで構いませんよね? 巫女としての責務を果たす前に潔斎を行えば済むことですので」
「それは……ですが!」
「ですが、なんでしょうか? 繰り返し申し上げますが、私の護衛騎士の血に触れることを穢れだと仰るのなら、もうすでに私は触れています。それは神官長様もその目でご覧になられたはずですよね?」
淡々と告げられる事実に、神官長が言葉に詰まり黙っていると、リオンは畳みかけるように言った。
「月巫女が一切の穢れすら許されないと、そう仰るのでしたら、すでに私に月巫女の資格はございません」
「……ですが! 国には、いえ民には、月巫女の力と存在が必要なのです。今日のようなことがあった今、あなたを欠く訳には……!」
「では、神官長様は一度穢れに触れている私に、月巫女の資格があるとお考えなのですか?」
そう言って、リオンが真っ直ぐ瑠璃色の瞳を向ければ、神官長はぐっと唸りつつも、絞り出すように言った。
「潔斎を行いさえすれば、問題は……、ないかと……」
「でしたら、私が彼の看病についたとしても問題はございませんよね? 仮にもしも血に触れることがあったとしても、潔斎を行えばよいのですから」
「しかし、今日一日の儀式でお身体が……」
「問題ありません」
「ですが……」
「問題ありません」
頑として一切の譲歩を許す気配はなく、リオンはバッサリと切り捨てるように、一言一句同じ言葉を強く繰り返した。そんな彼女に対し、神官長はそれ以上、説得する言葉が見つからなかったのか、渋々ながら彼女の要求を受け入れたのだった。
「やはりお越しになられましたな」
グレンとエマを連れ立って医務室へやってきたリオンを見るや、老医官……パチルは鈍色の瞳を柔らかく細め、微苦笑を浮かべて彼女を迎えた。そんな彼にリオンは恐る恐る問いかけた。
「パチル様、ルイスの容態は……?」
「口で説明するよりも、直接ご覧になられた方が早いでしょう。こちらへ」
そう言って、彼が奥へ向かうのに合わせ、リオンはポニーテールの髪を揺らしながら、その後についていく。もちろん、グレンとエマも、だ。
そうして、三人がパチルの後を追って向かった先で目にしたのは、浅く荒い呼吸を繰り返しながら、大粒の汗と苦悶の表情を浮かべるルイスの姿。彼の傍には一人の医官の姿があり、彼はルイスの状態を見ては逐一手元の羊皮紙に記録をしているようだった。そんな医官が持つランプの暖色の灯の下でも、はっきりとわかるほどルイスの顔は青白い。血の気のない彼を見て、リオンもまた微かに顔色を失いながら、口元に両手を当てて固まった。そんな彼女にパチルは静かに告げた。
「団長殿にはすでに伝え申しましたが、今夜が峠になりましょう」
「……パチル様、彼の傍についていても構いませんか?」
「もちろんですとも。今、椅子を用意させましょう」
そうして、準備された椅子に腰かけると、記録と共にルイスの看護を行っている医官の邪魔にならないよう気をつけながら、リオンはルイスの左手を両手で握りしめた。しかし、彼女は一瞬目を見開いた後、眉を顰めて呟いた。
「今朝はあんなに温かかったのに、氷のように冷たい……」
「毒と闘っておる証拠です。解毒薬とルイス殿の体力が毒に勝てさえすれば、血も巡り温かさも戻りましょう」
そんな彼の言葉にリオンは、唇を引き締めると、握りしめた彼の手の甲に額を当てた。朝寝ぼけてしたときとは異なり、目を閉じた彼女の口からは祈りの詩が旋律と共に紡がれる。そんな彼女の行動に倣うように、エマも反対側へと回れば、ルイスの右手を両手で握りしめ、リオンの旋律に合わせるように祈りの詩を奏で始める。そんな二人の巫女によって静かに紡がれる、たった一人の無事を祈るためのその詩は、まるで子守唄のような温もりがあるものだった。
そんな彼女たちをしばし見つめていたパチルは、少し離れた場所に立つグレンの隣へ移動すると、彼女らの詩に耳を傾けながら言った。
「昼間はあれほどショックを受けていたというに、気丈な方々じゃのう」
「ええ、そうですね……」
「……叶うことなら、幸せになってほしいものじゃの」
「パチル殿、それは……」
「なぁに、『誰と誰が』とは言うとらん。それに所詮は老いぼれの戯れ言じゃよ」
そう言って朗らかに笑うパチルの鈍色の瞳には、切なげな感情が見え隠れしていた。戯れ言と称した彼の顔を見たあと、グレンは祈りの詩を休みなく紡ぐリオンへと視線を向けた。いつにも増して真剣な表情で詩を奏でる彼女の様子に、彼は眉尻を下げると、何かを堪えるかのように唇をきつく結んだのだった。
そうして、短いようで長い時はゆっくりと過ぎ、だんだんと東の空が白み始め、夜明けが近いことを知らせ始めた頃。リオンはルイスの手を握りしめ、途切れがちになりながらも、祈りの詩を紡ぎつつ、うつらうつらと船を漕いでいた。そんなリオンの手や顔には僅かながら、赤いものを拭った後が薄らと残っていた。
ルイスを挟んだ反対側では、ルイスの手を握ったままベッドの端に頭を乗せて静かな寝息を立てているエマの姿。リオンと同様、頬や手に赤いものをつけたまま眠る彼女の肩には、申し訳程度に真紅のマントとブランケットがかけられていた。
そんな中のことだった。ピクリとルイスの手が動き、その微かな動きにリオンがハッとした様子で目を開いて顔を上げたのは……。
「ルイス……?」
左手を握る両手に力を込めつつ、その顔を覗き込みながら、恐る恐る彼の名を呼んだリオンの目の前で、ゆっくりと瞼が持ち上がっていく。そうして、ずっと隠れていた翠緑色の瞳が、朝の白い光に照らし出されれば、それはゆっくりと瞬いた。ややあって、それが目の前にあるリオンに焦点を合わせれば、彼は安堵したように目を細め、笑みを浮かべて言った。
「無事で、よかった……」
「それはこっちの台詞だよ、バカ」
ルイスの第一声に対し、咎めるような言葉とは裏腹に、リオンは涙をポロポロとこぼしながら、心底嬉しそうに微笑んだ。止む気配のない涙に右手を動かそうとしたルイスは、動かせない右手を怪訝そうにのろのろと見やった。そして、右手がエマにしっかりと握られている状況を見て、微かに目を瞬かせると、再度リオンを見て苦笑しながら言った。
「心配かけて、悪かった……」
「ホントだよ……。リックも団長さんもみんな心配してたんだからね?」
涙を片手で拭いながら、顔をくしゃくしゃにして告げるリオンに、ルイスは彼女のもう片方の手をしっかりと握り返しながら、『ありがとな』と小さく呟いたのだった。
そんな二人の変化に気付いたグレンが微かに慌てた様子で近付けば、ルイスは緩慢な動きでグレンを見るや僅かに目を瞠った。
「団長、何故……? それにその格好……」
「リックは無理矢理休ませたからな。格好は仕方ないだろう、着替える暇なんかなかったんだ」
「お手数おかけして、すいません」
「いーや。元気になったらみっちり働いてもらうからな。覚悟しておけよ?」
「……はは、わかり、ました……」
いつもどおりの明るい声でグレンが言えば、ルイスは微かに苦笑いを浮かべて返事をすると、再びその目を閉じた。が、その顔には僅かながら赤みが戻り、浮かぶのは苦悶ではなく穏やかな微笑み。微かに聞こえる静かな寝息とその寝顔に、リオンとグレンは顔を見合わせると、ホッとしたように微笑みあったのだった。
***
それから数日後の昼どきのこと。
「ですから、自分で食べられますので……」
「利き腕まだ吊ってる状態なのに、何言ってるの?」
「左でも何とか食べられますし、いざとなればリックや医官の手もありますので……」
そんなやりとりと交わしているのは、ベッド上で起き上がっているルイスと、食事の入った器とスプーンを手に彼の傍らに腰かけているリオン。ルイスは右腕を三角巾で吊り、左の掌を胸の高さでリオンに向け、苦笑いを浮かべながら上半身を仰け反らせていた。
そんな彼の言葉を受けたリオンは、少々眉を寄せながら、周囲で彼らを見守っていたパチル含めた複数の医官と、護衛で付き添っていたリックを真顔で振り返った。すると、不機嫌そうなその視線と目を合わせるのを恐れたのか、パチル以外の医官はそそくさと何食わぬ顔で仕事に戻っていく。
そんな中、リックはと言えばリオンを見たあと、じっと真顔でルイスを見返すと、にっこりといい笑顔で言った。
「元はと言えば、月巫女様や私を含め、今回随分と心配かけるような無茶な真似をした隊長が悪いので、大人しく月巫女様の言うことに従ってください」
『というか、少し反省しろ、このボケ』
そんな幻聴が聞こえそうなほどの怒りを宿した碧眼とその言葉に、ルイスは気まずそうに視線を外し、そのままパチルを伺うように目を向けた。が、彼はといえば、好々爺然とした笑顔でリオンの視線を受け止めたあと、縋るように見つめてくるルイスにも同じ笑みを向けながら言った。
「ルイス殿、人の好意は素直に受け取るもんじゃて」
その場における唯一の年長者の言葉に、ルイスは口元を引き攣らせ、対照的にリオンの顔がぱぁっと明るくなる。それはもう、彼女の背後に色とりどりの花の幻が見えそうなほどに、だ。そんな様子でリオンはルイスの方へ振り返り言った。
「ほら、パチル様だってこう言ってくださってるんだし!」
「しかしですね……」
「つべこべ言わない!」
そう言って、細かく刻まれ少々とろみのついたものを一口スプーンで掬えば、リオンはルイスの口元へそれをずいっと近づけた。
その状況が何を意味するか全く理解していないのか、ただただ嬉々とした様子で微笑むリオンに、ルイスは口元を引き攣らせたまま、突き出されたスプーンを見やる。そして、陥った現状に微かに頬を染めると、もう一度だけリックとパチルをチラリと見やった。しかし、全く態度を変える様子のない二人に、どうやっても退路がないことを理解したのか、ルイスは諦めたように肩を落とした。そうして、気まずそうにしつつも、頑として閉ざしていたその口を開いたのだった。
***
「あの時は生まれて初めて、本当の意味で身近な人が死ぬかもしれない恐さがどんなものなのかを知って、生きた心地しなかったよ。それこそ、その前日のことなんて比じゃないくらい」
苦笑しながら呟いたリオンは、多少荒れているもののまっさらな掌を見たあと続けて言った。
「あの夜はね、本当に長くて大変だったんだよ? 咳き込む度に血は吐くし、汗も次から次へとだったし。医官の方は難しそうな顔で何度も注射してるし。もうね、血と汗でぐっしょりになる布を見る度に、それと同じだけ不安に押しつぶされそうになったんだからね? それなのに、起きて人を見るなり『無事でよかった』とか言うし。もうね、本当にこっちはそれどころじゃなく心配だったのに、人の気も知らないで暢気に笑うから怒りそびれたじゃない」
指を折りながらそう告げた彼女は、彼の目と同じ色の石を見ながら少し口を尖らせたものの、ふっと口元に弧を描くと柔らかな微笑みを浮かべて言った。
「でもね、だからこそ目が開いたとき、本当によかったって思ったの。私の祈りに意味があったのか、それは正直今でもわからない。だけど、諦めなくてよかったって、そう心から思ったし、今でもそう思ってるよ」
そこで一度言葉を句切ったリオンは、一度目を閉じると、そよ風に揺れる木々の葉音と微かな波音に耳を微かに傾けた。そうして、再度目をゆっくり開くと空を見上げて言った。
「エマの言葉がなかったら、私はきっと神官長様にあんな風に逆らってまで必死になんてなれなかった。でも、言われたことをただ守っているだけだったら、不安で眠れなくて祈るどころでもなかったと思うし、そうしたらきっと後悔しかしなかったと思うの」
そう言うと、リオンは両手を胸の前でぎゅっと握り合わせ、視線をその両手へと落とした。
「あのときのことは今思い出しても恐くて仕方ないけど、でもあのとき初めて、ようやく私は私になれた気がするの。誰かに言われるがままになるんじゃなくて、自分の意志で選んで、決めて、貫き通した初めてのことだから……。まぁ、後のことを考えると、あのときもっと冷静に上手く動けていたらよかったなとも思うけどね」
落とした視線を戻しつつ彼女は、小さく息をついて言った。
「行動したこと自体は後悔してないの。ただ、もっと上手く立ち回れてたらって……。そうしたら、ルイスに迷惑かけることもなかったし、あんな形で真実を知ることもなかったのかなって……。何を選んでも変わらなかったのかもしれないけど。それでもやっぱり、真実なんて知らずにいられたらよかったのにって今でも思うの」
そう言って、リオンは憂いを帯びた苦笑いを、ただただ静かに浮かべたのだった。




