17.新月の願い
※ 文章の終わりにイメージイラストがあります。
「それじゃ、ルイス様、あとはよろしくお願いします」
そうルイスに告げたのは、空桶と空の水筒などが入った鞄を持ったエマ。
「ああ、お疲れ様。お茶もありがとな」
「え……? ああ、いえ、こちらこそ。捨てる手間が省けたし助かったわ。それじゃ、おやすみなさい」
ルイスの言葉に一瞬首を傾げたエマだったが、理解すると苦笑しながら返し、改めてその場を後にしようとした。が、何かを思い出したのか、にっこりいい笑顔で振り返った。
「そうそう。次は温かいうちに飲むことをおすすめしておくわ。温かいものは温かいうちが一番美味しいし。それと私、ルイス様は紳士だと信じてるから、期待、裏切らないでくださいね?」
「? よくわからないが、一応心に留めておく」
目を瞬かせつつも頷くルイスに、意味深な笑みを残して今度こそエマはその場を去った。そうして残ったのは、護衛のルイスただ一人。
その場から窓越しに見えるのは、篝火による光とそれによって少しかすんでいる星の光。周囲の警戒をしつつ、彼がそれを眺めていると、彼の背後で不意に扉の開く音がした。彼が小さく息をついて振り返れば、薄くドアを開けた先には夜着を纏ったその部屋の主がそっと顔を覗かせていた。
「……エマに夜着で人前にはあまり出るなって言われてるんじゃなかったか?」
「少しだけ顔を見て話したいことがあって……。ダメ、かな?」
「いつものように扉越しじゃできない話なのか?」
「できたら……」
そう言って上目遣いで見上げてくる瑠璃色の瞳に、ルイスはほんのり頬を染めつつ、誤魔化すように小さく咳払いをして言った。
「少しだけだからな?」
「うん!」
ぶっきらぼうに返された返事だったが、嬉しそうに微笑むリオンに、ルイスは微かに苦笑を浮かべながら、彼女が開いたドアの奥へと足を踏み入れた。
暖炉には煌々と火が焚かれており、中央にある応接用のテーブルには二人分の湯気を立てるティーカップ。テーブルを挟んで向かって右側には乳白色の、左側には透明な琥珀色の、液体がそれぞれ注がれていた。そんな明らかに寝る前の状態ではない部屋の状況を見て、ルイスは苦笑を深めて言った。
「エマもグルだった、ってことか」
「私だと上手くお茶を淹れられないし」
「だよな。というか、『次』ってこのことか……」
「え?」
「いや、こっちの話」
そんな話をしながら、リオンは右側、対するルイスは左側のソファーへとそれぞれ座った。そうして、互いに喉を潤し、しばし沈黙した後、ルイスはカップをソーサーに戻して言った。
「それでどうしたんだ?」
「えーっと……。ちょっと、謝りたいこととお願いしたいことがあって」
「お願いはともかく、謝りたいって……。謝られるようなこと何かあったか?」
とんと思い当たる節のないルイスが不思議そうに首を傾げれば、リオンは膝の上に置いた手をギュッと握りしめて頭を下げながら言った。
「その……。私、あんまり主らしいことちゃんとできてなかったから、いろいろと今までごめんなさい」
「え……?」
「エマともさっき話したんだけど、これから月巫女としての勉強とかいろいろ頑張るから!」
「い、いやいや、ちょっと待て。主として頑張るのはいいことだと思う。けどオレ、なんで謝られてるのかイマイチわからないんだけど……?」
戸惑いを露わにして、制止をかけたルイスに、リオンは視線を落としながら言った。
「私、自分のことばっかりで、ルイスやリック、エマがどれだけ心を砕いてくれてたのか、気付いてなかったの。たくさん振り回して我が侭聞いて貰ってたのに、甘えてそれ以外全然見ようとしてなかった。だから、それを謝りたかったの」
「別に謝るほどのことでもないと思うけど」
「でも……」
「我が侭に関して否定する気はない。けど、他の貴族たちに比べたら、リオンはむしろ従者であるオレたちを大切にしてくれてる方だろ。それに……」
「それに?」
「その様子だとエマにかなり絞られた後、なんだろ?」
確信を持って聞かれたルイスの言葉に、気まずそうにリオンの視線が逸れる。そんな彼女の様子に、彼は目を柔らかく細めて言った。
「それならオレがわざわざ言うほどのことはないだろうし、頑張るって決めたのならそれを支え見届けるまでだ」
「見てて、くれるの?」
「当然。お前が嫌になってまた窓から脱走したときに、主に誰が探しに行くハメになると思ってるんだ?」
ルイスの言葉に、リオンがポカンとした顔をすれば、彼はニヤリと笑みを浮かべた。そんな彼に、リオンは顔を赤くして眉をつり上げると、肩を怒らせながら言った。
「脱走なんてもうしないし!」
「ま、そこはお手並み拝見だな」
「あ、信じてないよね、その顔!」
「いやいや、そんなことないぞ? ただ、人間そうすぐには変わらないからなー」
「私だってやればできるし。だいたい、ここ半年くらいはした覚えないんだけど?!」
頬を膨らませ子供じみた怒り方をするリオンの様子を見て、ルイスはフッと微笑んで言った。
「やっとらしくなったな」
「え?」
「いきなり謝りだしてから、ずっと思い詰めた顔で、こーんな感じに眉間に深い皺寄せまくってたからな」
そう言って、自分の眉間を指しながら眉を寄せたルイスの顔を見て、リオンは目をパチパチと瞬かせて問いかけた。
「え、私そんな顔してた?」
「してたしてた。けど、そこまで思い詰めることはないし、リオンはリオンらしく、お前のペースでお前が信じるもののために精一杯頑張ればいいと思う」
そんなルイスの言葉に、リオンはしばし唖然としていたが、僅かに時間をかけて言葉を飲み込むと、嬉しそうに微笑んで言った。
「私は私らしく、私の信じるもののために……。うん、わかった。脱走は本当にもうしないつもりだけど、それでもちゃんと傍で見ててね?」
「もちろんだ」
「ありがと、ルイス。これからもよろしくね?」
「主の御心のままに……」
そう言ってルイスが座ったまま略式で騎士の礼を取れば、リオンは複雑そうな顔で彼の名を呼んだ。
「ルイス……」
「主として頑張るなら、従者としてはこれくらいの方がいいだろ」
「……なんかそれ距離感じるからヤダ」
「ヤダってお前な……。はぁ、わかったわかった。オレの方こそよろしく頼む」
「うん!」
「らしくとは言ったけど、別に我が侭も今までどおりにしろとまでは言ってないんだけどな……」
「何か言った?」
「いーや、何も?」
ニッコリといい笑顔で微笑むリオンに、ルイスはいつも通り両手を上に向けて肩を竦めた。そんないつもどおりのやりとりに、二人はどちらからともなく、小さく吹き出し笑い合ったのだった。
「じゃあ、オレは警護に戻るけど、もう遅いんだから、お前は早めに寝ろよ?」
「うん、ありがと」
そう言って、ルイスは部屋を出ると、扉横の定位置に立った。そんな彼を、リオンは扉の内側のノブに手をかけたまま、もの言いたげにじっと見つめた。
「どうした?」
「ルイス。あのね、もう一つだけ、約束してほしいことがあるんだけどいい?」
「オレにできないことじゃなければ構わないが……。なんだ?」
ルイスがそう尋ねれば、リオンはしばし視線を彷徨わせたあと、彼の足下を見つめながら言った。
「あ、あのね、今日は上手く伝えられなかったけど、いい主になれたら、そのときはちゃんと伝えるから。だから、そのときはまた今夜みたいに聖湖に付き合ってほしいの。今度は満月の時に」
「え……?」
「そ、それだけっ! おやすみなさいっ!」
ルイスが目を瞬かせているうちに、リオンは彼の返事を聞かないまま扉を閉めて、姿を消した。
残されたルイスはと言えば、しばらく放心したかと思えば、ハッとしたように慌てて警護姿勢を取った。そして、扉の向こうへ姿を消す前に見せた彼女の真っ赤な顔と今夜あった一連の彼女の言動について思考を巡らせた。そうして時間が経つにつれ、徐々に熱を宿し始めたその顔を隠すように彼は手をあてた。
「まさか、星のあれは本当に……? いや、まだ勘違いっていう可能性も。でも、さすがにあれで違うというのは無理が……。そもそも、本当にそうだとしてもオレ明日からどんな顔して会えばいいんだ……?」
頭に血が上りかけたルイスは、窓辺に近付き外気に冷やされたガラスに額を当てて目を閉じた。しばしそうして、熱を奪われて落ち着いたところで、彼は泣きそうな顔で呟いた。
「妹のようなものだと、あり得たとしても断る以外の選択肢なんてないと、そう思って万が一のときは傷つける覚悟も決めたのにな……。勘違いかもしれないとわかっているのに、それでもこんなに嬉しいと思うなんて……」
そう呟くと、窓の外を見やり、いつもなら月が見えるはずの宵闇を見つめると、金色の髪とルイスよりも少し高いテノールの声が脳裏を過る。それはいつかの朝に投げかけられた言葉。
――リオンのことを、異性として好きなんだろ?
「現実味を帯びた途端にはっきり自覚するのも何だかな……。でも、いっそ浚ってしまえたら、なんて一瞬でも思う程には好きになってたんだな、オレ……」
自分でも気付かなかった想いを的確に言い当てた相棒の言葉に、微苦笑を浮かべて彼は自分の足下に落ちる闇をじっとと見つめた。
そうしてどのくらい経ったか、彼は扉の方へ振り返ると、彼女のベッドがある方向を真っ直ぐ見つめて誰にともなく言った。
「いい主になるために頑張る、か。なら、オレもせめてほんの少しでもお前の願いを叶えることができるように、もう一度足掻いてみるか……」
そうして、一度目を閉じた彼は、難しい顔で夜空を見上げた。
「そのためにも、まずは話をしないとな。手遅れになる前に……」
そんな彼の言葉は、誰に届くこともなく、冷たい宵闇の空気の中へと消えていった。
***
「今思えば、あの頃が一番幸せだった気がするよ。エマがいて、リックがいて、貴方がいた。些細なことで喧嘩して、笑って……自由はあまりなかったけど、それでも楽しかったし、幸せだった。好きって気持ちに振り回されて、悩んだり落ち込んだことも全部」
ついには膝を抱えて地面に直接座り、石碑に笑いかけながらリオンは言った。
「全部、貴方が居なきゃ感じることさえできなかったものだから。ただ、後悔していることがあるとしたら、あの頃の私には、それがどれだけ幸せなことだったのか気付けなかったこと、かな」
そう言うと、自嘲気味な笑みを浮かべながら、僅かに視線を下げてリオンは続けた。
「あの頃は、どうしたらエマのように頼って貰えるかなとか、どうしたら振り向いてくれるかなってことばかり考えてたのを覚えてる。そこには確かに好きの気持ちはあったけど、叶ったら自由になれるって打算的な気持ちも結構あったんだ。……でも、そんな気持ちで振り向かせようなんて思ってたから罰が当たったんだよね、きっと」
そう言ったリオンの脳裏に、切羽詰まったテノールの声が響く。
――リオン!!
「何でもない日常こそ、いつ何が理由で崩れてもおかしくなかったのにね……」
そう呟くと、リオンは両膝に顔を埋めた。そんな彼女の髪を撫でるかのように、小風がふわりと吹き抜けていったのだった。




