10.淡い恋心
※ 文章の最後にイメージイラストがあります。
薄紅葉を小夜風が揺らす宵の口。祈りの歌声に合わせるように、コオロギの鳴き声が微かに神殿内に響く中、また別の歌声が紡がれる場所があった。
「いつの間にか そばにあった温もり
いつの間にか 当たり前になっていた温もり
それはいつも 暖かくて 優しくて
そっと闇夜を明るく照らしてくれた
そばにいると 心が温かくて
そばにないと 胸が苦しくて
いつも浮かぶのは優しさと笑顔
いつも願うのは温もりと笑顔
ただ傍にいてほしい
ただ隣で笑っていてほしい
何も返すことはできないけれど
あなたが幸せであるように
今だけはあなたのためだけに
この祈りを捧げよう-……」
どこか楽しげな歌声が響くのは、祈り場ではなく神殿内にある湯殿だ。ともすれば、泳げそうなほどに大きな石造りの湯船には、中心にある天使を模した像が持つ壺から絶え間なくお湯が注がれている。
天井のシャンデリアと壁のランプの明かり、そして湯気に覆われたそこでリオンは一人、湯浴衣を纏って湯浴みをしていた。傍には緩くウェーブがかかった濡れ羽色の髪を結い上げた巫女――エマが一人控えているだけだ。彼女はリオンの歌声が途切れたタイミングで、白の狩衣の袖を絞って捲り上げて言った。
「リオン、そろそろ上がらないと上気せるわ」
「はーい」
彼女の言葉を受けて湯船を出たリオンは、衝立の裏でバスタオルを広げて待ち構えていた相手の姿を見て、困ったように笑いながら言った。
「エマ、私、自分でもできるよ?」
「そりゃ、教えたのは私だから知ってるけど、私も自分の仕事はしないとね?」
「むー……」
「気持ちだけありがたくもらっておくから、ここは私に任せてちょうだい」
やんわりと言い聞かせるように話をしながらも、水気を拭き取りから着替えまで無駄なくあっという間に済ませていく。夜着の上からナイトガウンを羽織らせたリオンをドレッサーの前に座らせると、エマは濡れた青藍色の髪を丁寧にタオルで拭き始めた。
「……名前で呼んでくれるようになったのは嬉しいけど、やってることは全然変わらない気がする」
そんな言葉に、エマが琥珀色の瞳をドレッサーに向ければ、鏡にリオンの仏頂面が映る。不満げな瑠璃と目が合えば、困り顔に苦笑いを乗せて、エマは言った。
「私にだって役割があるんだから仕方ないじゃない。ルイス様だって話し方を変えた他は変えてないんでしょう?」
「それは、まぁ……。そうだけど……」
「リオンの不満もわからないでもないんだけど。ただね、私もルイス様も、一応月を預かる身だから、そこは妥協してくれると助かるわ」
苦笑しながら言うエマの胸元で、月を遇ったペンダントが琥珀と一緒に輝く。その意匠はどことなくルイスが首から提げているペンダントと似ていた。
それを目にしたリオンは、諦めたように小さく息をついた。
「わかった……」
「ありがと。あ、そういえば、今日はずいぶんご機嫌だったみたいだけど、何かあったの?」
「え?」
突然の話題の転換に、口を尖らせていたリオンが目を瞬かせる。そんな彼女にエマは『おや?』と言わんばかりに首を傾げつつ、タオルをブラシに持ち替えて髪を梳きながら言った。
「さっきも楽しそうに歌ってたから、何かいいことあったのかなって思ったんだけど、違った?」
「ううん、たくさんあったよ。今日実はね、騎士団の屯所案内してもらったの」
そうして、リオンは昼間あった騎士団の屯所訪問の出来事を楽しげに語る。ルイスとリックの案内で回った場所のこと、訓練場での出来事、そしてルイスとリックの部屋で待っていたときのハプニングまで全て。
「へぇ……。護衛になるくらいだから強いんだろうなとは思ってたけど、ルイス様ってそんなに強かったのね」
「団長さんの次くらいに強いってリックは言ってたよ?」
「そうなんだ。でも、それだけ強いのに、リオンに半裸姿を見られただけで硬直するなんて、思ったより可愛いところあるのね、彼」
「可愛い? かっこいい、じゃなくて?」
リオンがキョトンと不思議そうに首を傾げれば、クスクスと笑っていたエマは、一瞬呆けた顔を見せた後、微かに苦笑を浮かべながら言った。
「あー、リオンにとってはそうかもしれないわね」
「どういうこと?」
「リオンにとっては特別な人だから、かっこよく見えるんじゃないかしらってこと」
「護衛でいつも傍にいるし、それは当たり前じゃないの?」
「じゃあ、逆に聞くけど、どうしてもう一人の護衛騎士でもあるリック様には名前呼びをお願いしないの?」
エマの問い返しに、リオンは少々考え込んで言った。
「んー……、お願いしたくないわけじゃないし、何度か言おうとも思ったんだけど。何故かお願いするのが憚られるというか、畏れ多く感じるというか?」
「え、どういうこと?」
「私もよくわからないんだけど、リックといるとどうも儀式のときに感じる緊張感と似たものを感じちゃって……。それでなかなか言い出せないの」
「ルイス様よりも物腰柔らかで接しやすそうなのに、不思議なこともあるものね。ルイス様よりも護衛につく日数が少ないからかしら?」
完全に予想外だったのか、返ってきた答えにエマは少々戸惑った様子で目を瞬かせ、首を傾げる。それに対し、リオンは苦笑いを浮かべ、頬を掻きながら言った。
「そういうわけでもない気がするけど……、それがどうかしたの?」
「うーん……。予想と大幅に違ったから例えを変えるわ。えーと……、あ、そう、あれ! さっきの即興歌!」
「歌?」
歌がどうしたのかと言わんばかりに小首を傾げるリオンに、エマは大きく頷いて言った。
「さっきの歌、まるで想いを寄せる誰かに向けたように聞こえたのよね」
「想いを、寄せる……?」
「そう。誰か大切に想う人でもできたんじゃないかなって。そう感じさせる歌だったから……」
告げられた言葉を飲み込むように、リオンは小さく反芻する。
「大切に想う人……」
その言葉と共に彼女の脳裏に真っ先に浮かんだのは、翠緑色の瞳の騎士の顔。そして、刺々しい言葉とは裏腹に、呆れながらも可能な範囲で願いを叶えてくれる彼の優しさだった。それと同時にリオンの上気した頬が微かに赤みを増す。それを見逃さなかったエマがさらに追い討ちをかけるように言った。
「今思い出しているのが誰か、当ててあげる」
「え?」
「ずばり、ルイス様でしょ?」
湯殿の入り口を出てすぐの場所で待機している本人には聞こえないよう、エマは細心の注意を払い、リオンの耳元で声を潜めて囁く。そんな彼女の言葉に、今度こそリオンの頬が文字通り真っ赤に染まる。『やっぱり』と確信を持って微笑むエマに、年若い主は唖然とした様子で口を開いた。
「な、なんで……」
「リオンは自覚ないかもしれないけど、ルイス様のことを話すとき、すごく穏やかな表情してるのよ? 一緒にいるときはそれはもう楽しそうだし。そんなのを何度も見てたらさすがに気付くわよ」
そう言って苦笑するエマに、リオンは不安げに尋ねた。
「エマ。私、変になったのかな……?」
「え……?」
告げられた言葉に、琥珀色の瞳が困惑した様子で瞬く。彼女の反応に対し、リオンは徐々に視線を落としながらポツリポツリと語る。
「だって、ルイスはリックみたいに優しくないし、エマみたいにたくさんお話しをしてくれるわけでもないんだよ。全く優しくないわけじゃないけど、基本は言うこと意地悪だし……」
「えーと、リオン……?」
「それなのに、休みで居ないと何してるのかなとか気になって、ぼーっとしていろいろ失敗するし……。一緒に居たら安心感もあるけど、時々胸が苦しくなったりするし……。今までこんなことなかったのに……」
最初こそ戸惑いながらリオンの言葉に耳を傾けていたエマだったが、全て聞き終えれば、思わずといった様子で小さく吹き出した。小さな笑い声に俯きがちだった顔を上げたリオンは、呆気に取られたあと、口を尖らせて鏡越しに自分の侍女をじとっと見つめる。不機嫌な視線を感じたのか、ひとしきりに笑った後、エマは目にうっすら涙まで浮かべながら言った。
「ごめんごめん。まさかそんな風に思ってたとは思わなくて……」
「人が真剣に悩んでるのに、酷い」
「ごめんって。でも、別に変になったわけじゃないと思うわ」
「ホント……?」
「まぁ、ある意味厄介な病の一種ではあると思うけどね」
『病』と聞いてリオンの顔が微かに青ざめる。そんな彼女の反応に、エマは慌てて両手をぶんぶん振りながら言った。
「あ、でも病は病でも、恋の病って言うヤツじゃないかしらっ! ……たぶん」
「恋の、病?」
「あれ、リオンにこの手の話したことなかった?」
そう問われれば、リオンは首を左右に振って、じっと懇願するように琥珀の双眸を見つめる。彼女のその視線に、エマは思案顔で考え込んだ後、首を傾げながら問いかけた。
「私の主観にはなるけれど、いい機会だから、恋愛講座でも始めようか?」
「何がなんだかよくわからないけど、解決に繋がるならお願い」
真っ直ぐ迷いなく告げられる言葉に、エマはもったいぶった態度で『かしこまりました』と返す。そして、茶目っ気たっぷりに笑顔を浮かべ、人差し指を立てて言った。
「ちなみに、ルイス様やリック様、その他男性方には内緒よ? 恋の話は女の子同士でするのが一番楽しいんだから」
「うん、わかった!」
楽しげなエマの言葉に、リオンはキラキラと目の色を輝かせて大きく頷いたのだった。
その日こそは、いつもより時間がかかっている彼女たちを心配したルイスから声がかかり、恋愛に関する談義は中断を余儀なくされた。しかし、その日を境に、男性陣の居ない湯浴みの時間帯は、二人の恋の話を楽しむ時間へと変わっていったのだった。
***
「恋に関する話、エマにたくさん教えてもらったんだ」
そう告げたあと、彼女は思い出したように『そうそう』と続ける。
「エマもね、あのとき好きな人がいるって言ってたんだよ。誰なのか聞いたら、ルイスきっと驚くんじゃないかな? 恋がどんなものか簡単に教えて貰ったあとだったから、私も最初に聞いたときはすごく驚いたし。私の知る限りではそう接点なかったはずなんだけど、恋って不思議だよね」
まるで相手がそこにいるかのように楽しげに話していたリオンだったが、少し間を置くとポツリと呟いた。
「ねぇ、ルイス。もしもあの日もその後も、ずっと恋っていう想いを知らずにいたら何か変わってたと思う? 何も知らず、何も望まずに居られたのなら、あの頃のままで居られたのかな?」
相変わらず、波と時折聞こえる鳥の声以外静寂に包まれる中、彼女は『なんてね』と自嘲気味に笑ったのだった。




