9.芽吹く想い
※ 文章の最後にイメージイラストがあります。
「フラグだかなんだか知らないが、アイツは予言者か何かか。全く……」
そんなことをボヤいたのは、タオル一枚を腰に巻いただけの姿のルイスだ。彼の傍にリオンとリックの姿はない。
彼が今いるのは、屯所に併設された宿舎にある水場だ。衝立を境として、奥の大きな丸桶型の湯船には絶え間なく湯が注がれ、溢れた湯がタイルを伝い排水溝へ落ちていく。その手前には大きな井戸が一つと手桶が数個。入り口近くの籠には、汚れた衣類やリネンが山を成していた。
貸し切り状態の中、井戸から汲み上げた冷水を、彼はそのまま頭からザバーっと被る。火照った体を冷ますように数回繰り返すと、彼は汲み上げた桶の水をジッと見つめた。次いで徐に井戸の縁に手を置くと、彼は大きくため息をついてしゃがみ込んだ。
「一体何してるんだ、オレは……。騎士団のヤツらがどういう反応をするかなんて、粗方予想できてたはずだろ」
ズーンと重苦しい空気を纏う彼の脳裏に、リオンの手を恭しく取ったネルソンの姿が過る。その瞬間、翠緑玉の瞳が苛立たしげに細められた。井戸の縁を掴む手に力が入れば、彼はハッとした様子で頭を左右に振り、再度水を頭から被る。
「別に珍しいことでもないのに、なんで今日に限ってこうも苛々するんだ?」
滴る水を見つめながら呟いた彼の声音に滲むのは、隠しきれない苛立ちと困惑だ。そんな中、『あー!』と声をあげ、わしゃわしゃと乱暴に髪をかきむしったかと思えば、彼は大きく肩を落として長嘆息をつく。
「よりにもよって、主の前で感情的に振る舞うとか……。どんな顔して戻ればいいんだよ。いっそ今日はこのままリックと交代……」
不意に彼が思い浮かべたのは、リオンとリックが楽しげに並ぶ姿。それに対し、またも彼の意志に反して機嫌は急降下していく。
「ないな。――って、そもそも任務に私情を挟むとか、何考えてるんだオレは!」
気持ちを切り替えるように頭を左右に振った彼は、ため息交じりに立ち上がる。湯船のお湯を数回かけて冷やしすぎた身体を温めれば、ざっくり身支度を整え、彼はその場を後にした。
水を帯びた髪をタオルで拭きながら、ルイスは石造りの廊下を通り、階段を登っていく。屯所内の騎士の大半が訓練場にいるためか、宿舎内に人の気配はほとんどなく、すれ違う者もいない。
「応接室で別れてだいたい四半刻か。少し急がないとな……」
懐中時計をしまい込んだ彼の目前に広がるのは、二階の廊下に並ぶたくさんのドア。各扉には交差する二本の剣のレリーフがかけられている。そんな中、突き当たりの角にある翠緑玉と青碧玉がはめ込まれたレリーフの扉を、彼は無造作に引いたのだった。
***
遡ること約四半刻前、リオンの姿はリックと共に屯所内の応接室にあった。
華やかさこそないものの、シンプルながら重厚感のある黒革のソファーに腰掛けつつ、彼女は物珍しそうに調度品を眺めていた。
「こんなものしかお出しできませんが、よかったらどうぞ」
「ありがとうございます」
彼女の目の前に置かれた無地の白いティーカップに入っているのは、湯気を立てている紅茶だ。それを一口飲むと、リオンはカップを置いて言った。
「騎士団の屯所の中って、神殿の中とは全然違うんですね」
「ここは基本的に騎士しかいない男所帯ですし、訪れる者も男性が多く、みな見た目にはさほど拘りがありませんからね」
「そうなんですね」
互いに笑顔ながら無難な受け答えに会話が途切れると、窓の外から剣戟の音と声が微かに響く。その音に反応したリオンが窓際へと移動すれば、見えたのは階下の訓練場で剣を合わせている騎士達の姿。中には訓練を終えたのか、休憩中なのか、上半身裸で軍服とシャツを肩にかけて座っている騎士も何人かいる。
そんな彼らを、瑠璃の双眸が物珍しげに眺めていたときだった。
「のし足りなかったかなぁ……」
「のし……?」
ともすれば、聞き逃しそうなほど小さな呆れの滲む声がリオンの耳朶を打つ。彼女が隣を仰ぎ見れば、碧眼を細めて眼下の光景を見つめるリックの姿があった。
目を瞬かせるリオンの視線に気付くと、にっこりと人好きのする笑みを浮かべて彼は言った。
「いえ、こちらの話です。あ、そういえば、月巫女さまは焼き菓子お好きでしたよね?」
「ええ、好きです、けど……」
突然の話題転換に対し、彼女の顔に疑問符が浮かぶ。
リオンは気付いていないものの、階下では二人に気付いた騎士たちが慌ててシャツを着込む。そんな同僚の様子を目の端で一瞥すると、リックは穏やかな笑みを保ったまま、主に向かって言った。
「先日街で買った焼き菓子が私の部屋にあるのですが、もしよろしければお茶の共にいかがですか?」
「え、いいんですか?」
「もちろんです」
「じゃあ、是非お願いします」
笑顔でリオンが頷けば、リックは自然な動作で彼女を窓際から引き離し、ソファーに座らせて言った。
「では、お持ちいたしますので、こちらで少々お待ち頂けますか?」
「わかりました。……あ、リック!」
「はい?」
応接室のドアを開けようとしていたリックが振り返れば、リオンは視線を彷徨わせ口籠もった。
「えーと……。その、リックにもう一つ、お願いしたいことがあるのですが……」
「なんでしょうか?」
お願い、と聞いてリックは体ごと振り返り彼女の言葉を待つ。まっすぐ投げかけられる眼差しに対し、瑠璃色の視線があちこち彷徨う。
「大したことではない、んですけど……」
「はい」
「よ、よかったら……その……」
もごもごと言い淀む彼女の言葉に、不思議そうに彼は首を傾げる。それでも、彼女から明確な言葉はなかなか出ない。しばらく口を開けて閉じてを繰り返したリオンは、諦めたように息を一つつくと、苦笑しながら言った。
「行ってみたい場所がもう二カ所だけあるのですけど、ついて行ってはダメですか?」
「場所によっては隊長が戻ってからの方がいいと思いますが、どちらへ?」
その問いに対し、返された彼女の行き先に、リックは碧眼を僅かに見開いたのだった。
数分後、二人が居たのは、ベッドと机、クローゼットが二つずつしかない簡素な部屋の中。左側は書類などの他に様々な小物類が乱雑に置かれ、反対側はベッドに無造作に放られている翠緑色のマントの他は整理整頓が行き届いている。使い手たちの性格が如実に表れた部屋、そこが二人の今いる場所だった。
ぐるりと部屋を見たリオンが、意外そうに口を開く。
「何だかリックの印象が少し変わった気がします」
「うっ……。こちらはその、あまり見ないで頂けると助かります」
「でも、ここからだとそちらしか見えないですし。あ、そちらのベッドに腰かけたらいいですか?」
「いえ! それだけはご容赦ください」
リオンが腰かけているのは、マントが放置されているベッドの端。そんな彼女の目の前にあるのは、デザインこそ同じものの、毛布が不自然にこんもりと膨らんでいるベッドがあった。慌てた様子で両腕を広げたリックがそれを隠すように立ち塞がれば、リオンはクスクスと楽しげに笑いながら言った。
「わかりました。でも、まさかルイスとリックが相部屋とは思わなかったです」
「今でこそ隊長と副官という立場にありますが、元々同い年の同期ですので、入団当初からなんです」
「それなのに敬語なんですか?」
「個人の付き合いは別として、立場的に私は彼の部下ですので」
苦笑しながらそう答えたリックの言葉に、リオンは思案顔で口を噤む。ややあって、何かを閃いた様子で彼女が口を開こうとした瞬間だった。
小さな開閉音と共に部屋の扉が開き、リオンは驚いた様子で、リックは呆れ顔で振り返る。二人の視線の先には、ドアを開けた状態で硬直しているルイスの姿があった。何とも言えない微妙な沈黙の中、鳶色の髪から滴る水滴が床に落ちれば、リックがため息をつきながら言った。
「隊長。せめてシャツのボタンは留めた方が良いのでは?」
彼の指摘にルイスはハッとした様子で息を呑み、自分の出で立ちを見やる。ズボンはしっかりと履いているものの、裾はブーツに入っていない。シャツもボタン全開で袖に腕を通しているだけ。その状態に気付くと、彼はやや上気気味だった顔を真っ赤に染める。そうして、慌ててシャツの合わせを片手で押さえると、バタンとドアを閉めて彼は姿を消した。
室内に残された二人はと言えば、リオンはキョトンとした様子で目を瞬かせ、リックは肩を落としながら苦笑を浮かべる。互いに顔を見合わせると、普段あまり見ないルイスの動揺っぷりに笑い合ったのだった。
***
「悪かったな、その……いろいろと」
夕日が全てを赤く染める頃。リオンの私室へと戻るや否や、ルイスが告げたのは謝罪の言葉だった。その言葉にリオンは目を瞬かせたが、ふわりと微笑んで言った。
「さっきも言ったけど、別に気にしてないから大丈夫だよ? 神官様の言いつけがなかったら、騎士さまたちとゆっくりお話ししてみたかったけど」
「頼むからそれはしばらく勘弁してくれ。主にオレの神経が削れる」
「ふふっ、確かにルイスは大変そうだったよね。あんな風に戦うのも、怒るのも初めて見たよ」
クスクスと笑うリオンとその言葉に、ルイスは顔を赤くして気まずそうにそっぽを向く。そんな彼に、彼女は思い出したように付け足して言った。
「あ、あと、二人の部屋で見たルイスの慌てっぷりも初めて見た気がする」
その言葉に、僅かに唸ったあと、彼はもごもごと言った。
「あ、あれは、オレが汗を流している間、てっきり応接室で待ってるとばかり思っててだな……。ノックをしなかったのは、悪かったと思ってる」
「部屋にお邪魔してたのは私の方だし、そんな謝らなくても……」
「そうは言っても、見苦しいものを見せたことに変わりはないからな。あとできたら、頼む。早く忘れてくれ」
「えー……。むしろ、普段見ない姿でちょっと新鮮だったし、忘れるのはもったいないからヤダ」
そう言って悪びれた様子もなく、舌をペロリと出してリオンが笑う。唖然とした様子で振り返ったルイスは、ますます顔を赤らめ、戸惑ったように視線を彷徨わせた。
「あんなの令嬢の前でする格好じゃないだろ」
「あれ、お転婆扱いする割に、私のこと令嬢扱いしてくれるんだ?」
にんまりと微笑んだ彼女が、逃げる翠緑玉を追うように覗き込む。そんな彼女と目線を合わせないまま、彼は気まずげな様子で言った。
「そりゃ、まぁ……。一応は歴とした月巫女で公女だし」
「ルイスはいつも一言余計だと思う」
不満げに唇を尖らせたリオンだったが、ふっと表情を和らげると、微笑んで続けた。
「でも、本当に気にしてないよ? 待ってる間に窓から見えた訓練場にも上半身裸の人はいたし」
「あいつら……」
楽しげな言葉に対し、こめかみを押さえながら、彼は小さくため息をつく。
「屯所は男所帯だからな、女性がいなければ日常茶飯事だ。とはいえ、お前がいるとわかってるのに見せる格好じゃないんだよ。……宿舎だからと気を抜いていたオレが言える話じゃないが」
「でもおかげで、団長さんほどじゃないけど、ルイスって他の人よりもがっしりしてるんだなって発見出来たよ!」
「なっ……! おお、お前、そんなとこ見てたのか!?」
ドヤ顔で拳を握りしめて告げられたリオンの言葉に、彼はギョッとした様子で振り返る。赤みがどんどん増していく彼に対し、彼女は不思議そうに目を瞬かせるばかりだ。
「何か拙かった?」
「……いや、お前が拙いとかではないんだが……。今の話、神官長さまとかに聞かれても黙っててくれないか?」
「それは構わないけど……どうして?」
「オレ含めた騎士数名、良くて厳重注意、最悪軽い罰則もありそうで、な……」
「なんでそうなるのかはさっぱりだけど、わかった」
訝しみながらも、首を縦に振る彼女に、ルイスは小さく肩を下ろし、ホッと息をつく。そんな彼の方へ、両手を後ろで組んで身体ごと向き直り、彼女は花綻ぶように微笑んで言った。
「リックには屯所の入り口で別れたときに伝えたけど。今日は二人の過ごす場所が見られて、すごく嬉しかった。案内してくれてありがとう、ルイス」
「どう、いたしまして」
窓から差し込む夕日の光も相まって、耳まで真っ赤に染めたルイスは、照れくさそうに頭を掻きながら、視線を明後日の方へと逸らす。そんな少々ぶっきらぼうながら、いつもと変わらない彼の返事に、リオンは幸せそうに笑みを深めたのだった。




