14.
不実を咎められたヘンリックはしばしの間押し黙り、全身の力が抜けたようにソファにもたれ掛った。その後絞り出すような声で切り出した。
「俺はいったいどうしたんだろう……すまない、マルグレット。君にはいつも過ちを正される。物怖じせずに俺に理を説いてくれていた君がいてくれていたから……」
「ヘンリック様―――」
ヘンリックは居住まいを正して。
「もう、駄目なのだろうか。君は俺の隣に戻ってはくれないのだろうか」
負抜けた様子の先までと異なり、凛としたその声には真摯な響きがこもっていた。その声音と真っ直ぐな瞳は、ラウラが現れてからパウマン家に別れを告げるまでの間、ずっとマルグレットが欲していた『ヘンリック』だった。
正面から視線を交える二人だったが、マルグレットの答えは既に決まっている。
「ヘンリック様。何を言われようとも私の答えは同じです。事件の後、私は天命の番いの特性、番いに対する恋慕に甘えていたことに気付いたのです」
マルグレットはそこでついとアベルに視線を移して微笑んだ。
「その後私はアベル様に魅力を感じて好意を持ち、自分の意志で伴侶になることを決めました。運命に任せきりにするのではなく、自分で決めたのです。私はアベル様を愛しております。ですから、私はアベル様と共にテスガルトに赴きます」
そう断言した。
長年の付き合いから彼女の決意が揺るぎないことを容易に察してしまい、ヘンリックは哀切の表情となった。
「―――俺は君が好きだった」
ヘンリックから零れるのは後悔の言葉と深い溜息。
「それなのにあの魔術師に負けてしまった。試作品とはいえ魔払いのネックレスもラウラに反応していたのに、褒めに徹した彼女に言われるがまま自分で外してしまった。あれは身に着けていなければ効果が激減することもわかっていたのに……それでもアベル様への効果の報告のために持ち歩いてはいたから、あのネックレスがなければあの時俺はマルグレットを間違いなく」
「ヘンリック様っ!」
名を呼んだマルグレットは、静かに首を振ってそれ以上言わぬようにと示した。
「運命に任せきりにした……そうだな。天命の番いの特性で、マルグレットはいつでも俺を愛してくれていると信じきっていた。今回も君は無条件で俺を許し、諭し、隣に戻ってくれると当然のように」
「それは私も、です。かつての私はヘンリック様の心が私に戻るようにと神に願うばかりで、自分で何も致しませんでした」
ヘンリックは隣に座るアベルに目もくれず、マルグレットだけを凝視して彼女に問いかける。
「君はアベル様を愛しているんだね」
「はい」
「君は、幸せなんだね」
「はい」
微笑んで静かに、けれど確固たる返事をするマルグレットにヘンリックは苦笑した。もうマルグレットは過去に向けていた微笑を自分には向けてくれないことは十分理解した。そして彼女が隣にいる人物と幸せになるであろう未来も。アベルもまたマルグレットを心から愛していることを、ヘンリックはこの部屋に来てから十分に感じていたのだ。彼の瞳がマルグレットを見つめていた時の己の瞳と同じなのだから。
「マルグレット。謝罪がこんなに遅くなってすまない。君を傷つけて悲しませて本当に申し訳なかった。君が痛みで苦しみ、孤独になり寂しい時にも傍にいてあげなかった。本当に、悪かった」
立ち上がったヘンリックは長い時間深く頭を下げ、そしてゆっくりと頭を上げた。
「俺はこれから君を傷つけた責任を取りに行くよ」
「ヘンリック様、それは……」
「君が好きだったヘンリックに戻りたいんだ」
今、目の前にいるのは仲が良かったころの、満面の笑顔で名を呼んでくれた頃のヘンリックだとマルグレットは思った。
―――心が通じ合っていた頃の、ヘンリック様。
「ヘンリック様……ありがとうございました」
天命の番いであった時は本当に幸せで、ヘンリックがいたからこそ様々な苦難を乗り越えられたこと、魔払いの助力は有ったけれど命を奪わなかったこと、全てに対しての感謝を伝える。しかし、それは別れの言葉でもあった。
そしてヘンリックからは別れの言葉でも感謝でもなく、
「末永い幸せが君に、お二人に訪れますように」
未来への祝福の言葉を返された。
その後ヘンリックはアベルとマルグレットに一礼をして退室する。ドアを開け、廊下で待機していたステファンに気付き
「俺が言うのも変ですが、マルグレットのことをお願いします」
礼をして、ヘンリックは振り返ることなく真っ直ぐグリーディ家の玄関へと歩みを進めた。
去っていく背中をステファンは見送り、書斎に入る。すると、アベルが不意に立ち上がった。
「マルグレット、君が自分の意志で選んだと言ってくれて嬉しかった。実は、二人に見てもらいたい物がある」
言うなりアベルは以前マルグレットがしたように上衣をはだけその背を二人に見せた。
そこにあったのは背中全面に描かれた花のような赤痣。その痣を遮る、赤く腫れあがった傷痕。それを見て、ステファンもマルグレットも驚きで目を丸くした。アベルの背の紋様はマルグレットやヘンリックと同じなのだが、傷痕の位置や形はマルグレットと同じだったのだ。
「マルグレットと同じ紋様?」
「私と同じ、傷痕?」
アベルは小さく頷き、装いを正す。そして再びソファに腰かけた。
「シュバルシェが私の魔力を脅威と思ったのか、魔術師が封印の魔術を完成させると予見したのかはわからないが、生まれてすぐに私は魔の魔術師の息が掛かった暗殺者の手によってこの紋様を傷つけられた。その傷のせいで紋様は輝きを無くし、私は神の子の登録を外された」
マルグレットもステファンもそういえばと以前アベルが言っていたことを思い出す。
『命は狙われる。うんざりだ』
『神の子の登録が外されることは今までにもあった』
アベルは紋様を持ったが故に王位継承の騒動に巻き込まれ、神の子を退いた人間だった。
「マルグレットの番いが正式に発表されるまで五年かかったのは、ヘンリックだけではなく登録されていた私の紋様とも同じだったからだ。輝いていないとはいえ紋様は同じで王位継承に関わる選定だからな。五年待ち、輝いたのはヘンリックとマルグレットだったから二人が天命の番いとされた」
「そう、だったのですか」
驚きでかすれた声しか出ない。
「魔の魔術師がいる限り私も安心して生活はできない。だから魔術の研究に没頭していたのだよ。けれど、いつしか私は君に惹かれた。パウマン家の教育が行き届いていたこともあって……マルグレット、君は思っている以上に周囲の評価は高かったのだよ。けれど君には天命の番いがいた」
「アベル様……」
「今日はヘンリックが未だに君を求めていて、君がヘンリックの元に帰ると言い出さないか不安で……ついヘンリックにあたるような言い方をしてしまっていた。」
アベルの眉根が寄せられ渋面になる。
マルグレットが普段のアベルらしくないと思っていたのはそれが理由であり、それは本人も自覚していたようだ。
「マルグレット、私のことを器の小さな男だと失望しただろうか」
アベルが不安そうに伺い見る。彼の突拍子のない質問にマルグレットは数回瞬き、にっこりと笑った。
「いいえ、むしろ安心しました。アベル様は全てにおいて冷静で完璧な方と思っておりましたが、私と同じ不安を抱える普通の人間なのだと知り、嬉しく思います」
マルグレットの返事に、アベルは安心したように小さく息を吐いた。
「この背のことは、いつ話そうかと悩んでいたのだ。天命の番いで君が傷つき、またも私の背に紋様があることを君が知ったら、私を愛することに怯えてしまうのではないかと」
「アベル様。私は先ほども言いましたように……」
「ああ。自分で決めたと言ったね。私がどれだけその言葉を嬉しく思ったか、君にはわからないと思うよ」
「そんなこと」
マルグレットが苦しんでいた時に常に傍にいてくれたのはアベルだ。危険が及んだ時に助けてくれたのも、守ってくれたのも。自分こそどれだけアベルの存在を、言葉を嬉しく思ったかとマルグレットはそれを口にしようとすると。
「―――おや、どうやら神も二人を祝福したようだよ」
「え?」
突然のステファンの言葉に、二人は同時に彼を見た。
「二人の背が輝いている。この国では二人にしかない、琥珀色での祝福だよ」
マルグレットとアベルが互いの背を見れば、衣服の上からでも光が漏れ出ていた。それはアベルがマルグレットに贈ったあのネックレスの石と同じ色。
二人は顔を見合わせ。微笑み、手を取り合って喜びを分かち合った。