94.大きな賭け その2
「わ、わかってるって。遥の気持ちはよくわかってる。けど……」
わたしはあれこれと妄想を巡らせているうちに返事に詰まってしまった。
「けど? なーんか煮え切らないな。まあいい。これからそのマンションで、牧田さんと落ち合う予定になっているんだ。俺は、そのまま契約するつもりだからな」
自信満々にそう言いきる遥は、今度はきちんと親に知らせて、籍も入れて同居しようなどとのたまう。
いよいよわたしたち、結婚する……みたいだ。
ということは、この前の帰省時に父に言ってたように養子縁組をするわけだから、遥も蔵城姓になる。
それって、大丈夫なんだろうか?
それこそ仕事に差し支えなければいいが、前途多難であることは間違いない。
でもきっと大丈夫。遥にまかせておけばすべてうまくいくような気がする。
多分、心配ない。多分……。
どうやら目的地に着いたようだ。
マンション前のロボットゲートの駐車場前で、牧田さんが待っているのが見えた。
牧田さんは、出版社からの出向と言う形で、遥のマネージャーも兼務している。
これからもずっと二人三脚でやっていくのだと、この前聞いたばかりだ。
「まあ、久しぶり。柊さん……だったわね。今日は彼の住むところのチェックかしら? それはそれは、オアツイことで」
遥はわたしのことをそれとなく事務所や牧田さんに伝えてあると言っていた。
多少のことは多めに見てくれるらしく、恋愛にも寛容な様子がうかがえる。
車を降りて、笑顔までもがキリっとした印象の牧田さんに、こんにちは、お久しぶりですと挨拶をした。
「じゃあ、早速部屋へ行きましょう。不動産屋の担当者も来てるので、異存がなければさっさと契約してしまいましょうね。こんないい物件は他にはないわ」
颯爽と前を歩く牧田さんについてエレベーターに乗り、七階で降りる。
エレベーターから数えて三つ目の扉が、遥とわたしの新居だ。
南向きの明るい部屋だった。
八畳くらいの洋室と十畳くらいのリビングダイニングがある。
あとはユニットバスとウォークインクローゼットが付いている。
「な、いいところだろ? 日当たりもいいし、電車の駅にも近い。洋間が広いから、ダブルベッドが置けるぞ」
さも満足そうに遥が部屋を眺めている。
その時、牧田さんの顔色が少し変わったような気がした。
牧田さんは腕を組み、遥に近付いた。
「堂野……君? まさかとは思うけど。ここに柊さんも一緒に住むって言うんじゃないでしょうね? 」
遥は、はっとしたように牧田さんを見た。
そして、姿勢を正し、彼女に返事をする。
「そのつもりですけど……。ダメですか? 」 と。
「ダメですかって、冗談はよしてよ。これからデビューしようって人が、いきなり同棲中ってのはいくらなんでも虫が良すぎる話だと思うんだけど。違うかしら? 」
「もちろん、そう思います。だから俺たち、同棲などしませんよ。当たり前のことです」
「まあ、そうなの? ならよかった。あたしの取り越し苦労だったってわけね。それなら、ダブルでもクイーンでもキングでも。何でも置いてもらってかまわないわ。気に入ったベッドで、疲れを取って、仕事に邁進してくれれば何も言うことはないわ」
再び笑顔を取り戻した牧田さんに、遥が突如立ちはだかる。
「堂野君、な、何? まだ何かあるの? 」
牧田さんが訝しげに遥を見上げた。
「ええ、牧田さん。聞いていただきたいことがあります」
「あら、何かしら。この部屋じゃ、不満? 」
「そうじゃないです。広さも、水回りの配置も、すべて完ぺきだと思います。実は俺たち、この夏に結婚するつもりなんです。だから。こいつと一緒にここに住もうと思っています」
牧田さんの眉がピクッとつり上る。
そして一瞬にして、彼女の顔面から血の気が引いていくのがわかった。
「堂野君? いったい何言ってるの? 」
牧田さんが色をなくした唇をぴくぴくと震わせながら、遥ににじり寄る。
「だから……。こいつと。蔵城柊と結婚するんです」
システムキッチンについて説明をしようとしていた担当者も、上部の戸棚を半分開けたまま、ピタリと動きを止めた。
「ば、馬鹿なこと言わないで。冗談よね? 将来結婚したらこんなところに住みたいって、夢の話しでしょ? 堂野君、そうでしょ? 」
「牧田さん。真面目に聞いてくださいよ。俺、本気ですから」
遥はこれみよがしにわたしを片側に抱き寄せ、あくまでも結婚すると言い張るのだ。
「ちょっと待って。何を言ってるんだか。あなたたち、まだ学生じゃない。それに、ご両親だって反対されるに決まってる。ええ、きっとそうよ」
牧田さんが落ち着きなく早口でまくし立てる。
彼女の目は猜疑心で溢れていた。
「両親のことですけど……。実は、俺たちのことはもう報告済みなんで。柊の親父さんにも、一応結婚の許可はもらってます。予定より時期が早まったので、近日中に改めて相談に行くつもりですが」
牧田さんの出方をためすような遥の態度に、どこか違和感を覚える。
いつもの遥じゃない、と思った。
「そんな……。それは困るわ。そもそもモデル契約も、あなたが独身であることが前提になってるはずよ。せめてあと一年。いや半年でもいいわ。その結婚、延ばせないかしら? それにご両親の許可があるって、それ、本当なの? とても信じられないんだけど」
牧田さんの声が上ずってかなり動揺しているのがわかる。
その隣で担当者が、ずり落ちたメガネを元に戻し、牧田さんに同意するようにこくこくと頷いた。
そんな二人に比べて、遥はこの上なく落ち着いているように見える。
結婚の許可は確かにもらっているけど、それは社会人になってからの約束だったはずだ。
今すぐ結婚するとなると、またひともめするだろうことは容易に想像できる。
わたしは、今ここでこの話を持ち出した遥の真意を測りかねていた。
「牧田さん……」
遥が話し始める。
牧田さんの目を見て。言葉を噛み砕くようにゆっくりと。
「俺と柊は親戚同士で、おまけに俺は、こいつの両親に育てられたようなものなんです。だから何も不都合はありません。先月、両家を交えて家族会議をして、結婚の許諾を取り付けました。それでもだめですか?」
「親戚? そうだったの? それじゃあ、あなたたちのご両親は全て納得されているのね。でも、何も急いで今すぐ結婚する必要はないでしょ? まさか、その……。子どもが出来た、とか……」
牧田さんのストレートな言葉がわたしの胸に突き刺さった。
「それは……ないです」
遥が否定したあと、ややためらいがちにわたしと目を合わせる。
そ、それって。わたしに再確認ってことだろうか。
もちろんそんなことはありえない。大丈夫なはずだ。
先週二日間ほどお世話になった鎮痛剤を思い出しながら、確信する。
「あっ、ないです。絶対にそれはないです! 」
とにかく潔白を証明しなくてはいけない。
わたしは牧田さんに信じてもらうために、必要以上に大きな声で返事をした。