93.大きな賭け その1
いつも遥の告白は突然だ。
なんで今なの? どうしてここで?
数々の疑問が脳裏を駆け巡るけれど、答えは何ひとつ見つけられなくて。
信号待ちになったとたん遥がこっちを向き、まだ彼をじっと見たままのわたしと目が合う。
顔が熱い。車のエアコンが効いているはずなのに、身体中がカッカと燃えるようだ。
突然遥の手が伸びてきて、わたしの頬に触れる。
「俺も悪かったよ。柊が大河内と今更どうこうなる……なんてこと、あるわけないのにな。わかってるんだ。けど、あいつを見ると、どういうわけか平常心を保っていられなくなる」
遥の少し冷たい手が今のわたしにはちょうど心地いい。
信号が青に変わって、また車が動き出す。
わたしの頬にあった彼の手が、無情にもそれに合わせてハンドルの定位置にもどっていく。
ああ。やっぱりわたしも遥が好き。
誰がなんと言おうと好き。死んでしまいそうなくらい好き。
このまま遥の体の一部分になってしまいたいくらい……大好きだと思った。
言ってしまおうかな……。わたしも遥が好きだよって。
いつもだとすぐに言えるのに、こういう肝心な時、決まって何も言えなくなってしまう。
どうしよう。気持ちをそのまま伝えればいいだけなのに言えない。
でもわたしも、彼の素直な言葉がこんなに嬉しかったのだ。
遥だって好きと言われて嫌なわけがない。もう迷ってる場合ではない。
よし。ちゃんと伝えよう。
わたしは大きく息を吸い込んで、遥の横顔に向かって口を開いた。
「わたしも、す、す……」
「何? どうした? ……スって何だ? 調味料の酢か? そういえば、おまえんちの酢、ほとんど空だったよな? あとで、スーパーに寄ってもいいけど」
わたしがはっきり最後まで言わなかったものだから、遥が勘違いをしてしまったのだ。
もちろん、酢の買い置きはないけれど、そうじゃなくて……。
運転に集中しないといけない遥に、これ以上インパクトのある発言は慎むべきなのかもしれないと思い直す。
「その酢じゃなくて。あの……。す、す、すごい車だね」
好きって言うべきところが、いつの間にか車の話にすり替わってしまった。
タイミングを逃した今となっては、これも仕方ない。
さっきからずっとこの車のことが気になっていたので、これでよかったのかもしれないと気持ちを改める。
それにしてもこの軽自動車。遥の長い足が閊えて狭そうに見えるのは気のせいだろうか。
「はあ? なんだ、この車のことか」
遥がようやく、わたしの言い損じた告白を車のことだと理解してくれた。
そして、俄かに得意げな顔になる。
「まだ柊に言ってなかったっけ? 」
「うん。何も聞いてないよ」
わたしは小さく首を横に振った。
「それは失礼しました。実は、本田先輩の知り合いから、安く譲ってもらったんだ。ただ同然の価格で」
「ただ同然の価格で? そうなんだ」
「柊のお袋さんのと同じ車だろ? これなら柊も運転できるだろうと思って、二つ返事で決めたんだ。前の持ち主が丁寧に乗ってるから、中古にしてはいい状態だと思うよ。エンジンの調子もいいし、タイヤも換えたばかりみたいだ。まだ数年は問題なく乗れるんじゃないかな」
「そ、そうだったんだ。遥ったら、突然車でやって来るんだもの。ホントにびっくりしたんだから。でも駐車場とかは、どうするの? 」
都内で駐車場を月極めで借りると、とんでもなく高いと聞く。
ただ同然の買い物がそれ以上に高くつくというわけだ。
それに車の維持費だって無視できない。
ガソリン代はもちろんのこと、車検やその他のメンテナンス代もかかるし、保険だって必要になる。
「駐車場なら心配いらない。今は本田邸のゴージャスな駐車場の片隅を使わせてもらってるから、何も問題ないんだ。維持費はちゃんと稼ぐから心配するな」
「そっか。それならよかった。これから便利になるね」
「ああ。これなら、もう道端で誰かに呼び止められることもないし、柊と一緒でも移動しやすいだろ? 実家にもこれで帰れる。ばあちゃんを連れて来ることもできるし、荷物も積める」
「そっか、そうだね。おばあちゃん、喜ぶだろうね」
「多分な。で、今日これから行く場所なんだけど……」
「え? どこかに連れて行ってくれるの? 」
さっきから知らない道を走っているのはそういうことだったのだ。
いったいどこに連れて行ってくれるのだろう。
「今からマンションを見に行く。あと十分くらいで着くから」
マンション? わたしは遥の真意がわからず首をかしげる。
「なんだ、その顔は。そんなに驚いたか? 実は……。事務所がマンションを借りてくれることになったんだ」
「マンションって、そのマンションだったんだ。それで? 」
「しいていえば社宅なんだけど、これから仕事も増えるし、時間も不規則になる。そんな状態でいつまでも先輩の世話になるわけにもいかないだろ? 牧田さんが駐車場付きのいい物件を見つけてくれたんだ。ただし1LDKでちょっと狭いけど、最小限の荷物で住めば、なんとかなるんじゃないかと思う。給料も結構もらえるし、柊を養えるメドもたった。また、一緒に暮らそう。な、柊」
そうだったんだ。自分の稼いだお金で生活していくメドが立ったっというわけだ。
でもわたしは、遥に養ってもらおうだなんてこれっぽっちも思っていない。
これからもバイトは続けるし、大学を卒業したらバリバリ働くつもりなので、資格の取得にも前向きだ。
「夏休み中に、もう一度おやじさんと直談判するよ。それで帰省したついでに籍も入れてしまえばいい。うちの親は俺が何とか説得する。柊は何も心配しなくていいから」
「遥……」
遥の口調から、強い意志が感じられた。
さっきの告白の先には、こういう答えが待っていたのだ。
「もう、こんな生活、本当にキツイんだよ。これ以上柊と離れてたら、俺、頭がおかしくなってしまう。……わかるだろ? 」
もちろんずっと一緒にいたいのはわたしも同じ。
ただ、遥のキツイという気持ちは、別の意味もあるということを、この数ヶ月でたっぷり学習させてもらった。
素直にうんと頷くのは、少々ためらわれる。
彼の笑顔に包まれて、そっと抱きしめられて、髪を撫でられた日には……。
わたしなら、もうそれだけで身も心も充分に幸せでいられるのに、遥ときたら、そんなもの何の足しにもならんなどと言ってすぐにふて腐れる。
女心をわずかたりとも理解してくれない遥には、いつもうんざりさせられているのだ。
まさか彼がこんなに節操がない生き物だったとは想像だにしてなかったので、一緒に暮らし始めた頃は彼のあまりに大胆で赤面物の行動の数々に、かなりショックを受けていた。
やなっぺに言わせれば、男は皆同じだよと鼻で笑うのだが、わたしはまだあきらめていない。
いつの日か、遥がおとぎ話の中の王子様のように、優雅に優しくふるまってくれることを願ってやまないのだ。