91.涙色の空 その2
わたしったら、大学生にもなって、ほんとうに何をやってるんだろう。
同じ過ちを繰り返し、進歩のない日々が続く。
小学校の低学年の頃、遥と顔を合わせるたび、ケンカばかりしていたのを思い出す。
泣かせたり、泣かされたり。叩いたり、叩かれたり。
嫌い、大嫌いとののしり合ったりもした。
これじゃあ、あの頃と少しも変らない。小学生以下だ。
でも昔はそれでも良かった。次の日にはケロッとしてあっという間に仲直りしてたから。
なのに今は……。
こんなことばかり繰り返してたら、本当にお互いの気持ちが離れてしまう日が来るような気がする。
でもわたしと遥の場合、普通の恋人同士のように、スパッと別れることはできない。
実家が隣同士な上に、親戚でもある。
気まずい思いを抱えたまま、一生親戚付き合いを続けていかなければならない。
わたしは、離れて行った遥をずっと思い続けて、ひとり寂しく一生を終えるのだ。
遥には……。そう、彼には新しい家族が出来て、幸せそうに暮らしているのを常に身近に感じながら、わたしはずっと一人ぼっちで生きて行く。
そんな生活に耐えられるのだろうか。
遥がわたしじゃない女の人と仲良く暮らしているところなんて、想像すらしたくない。
他の女の人が産んだ子どもをあやす遥なんて、絶対に見たくない。
携帯を取り出し、また何度も電話をかけた。
女性のアナウンスが、遥の声に変わるのを願いながら冷たい機械を耳に当て続ける。
遥、お願い。電話に出て。メールでもいいから。連絡して。
携帯を握り締める手が震える。
ここでは絶対に泣かないと思っていたのに。
無意識に零れ落ちた涙が頬を伝い、携帯を操作する指先を濡らす。
まるで朝顔の花から朝露が零れ落ちるように、それは何の前触れもなく静かに滴り、携帯にまで滲み込んでいく。
アイスティーのグラスを動かした時に残った水溜りと、わたしの涙で出来た小さな小さな水溜りが、くっつき合うようにしてひとつの水溜りになる。
次々と溢れる涙を手のひらで拭う。手の甲で、そして指先でも拭う。
拭っても拭っても、それを止めることは出来なかった。
いつしかわたしは、両手で顔を覆って、声を上げて泣いていた。
オープンテラスのオーニングの向こうに見える七月の空の色は、まだ気象予報士が梅雨明けの宣言もしていないというのに。
抜けるようなブルーが、どこまでもどこまでも、はるか遠い山並みの向こうまで続いていた。
七月のカフェテラスは風もなく蒸し暑さがあたりを満たしていく。
流れる涙をそのままに、そっと指の間から周囲を見渡してみた。
わたしの様子が余程彼らの目に奇異に映っているのだろうか。
あからさまに離れた席に座って、訝しげな視線をこちらに向けている。
あの子いったいどうしたんだろうね……と、ひそひそ話をしながら。
さっきより、随分、太陽の位置が高くなってきた。
もうすぐ一時限目の試験が終わる。
アイスティーをグラスに半分残したまま、返却口に運んだ。
氷もすべて融けてしまったそれは、すっかり薄まり、ぬるくなってしまっていた。
さすがにこれ以上遥を待っても無駄だと悟ったのだ。
わたしは今日、試験の予定はない。
気持を切り替えよう。今すぐアパートに戻って、バイトに行く準備をしようと思った。
遥のことは……。またあとで考えればいい。
アパートに戻り、シャワーを浴びて着替えて。
冷凍しておいたご飯を電子レンジで解凍して、あり合わせのおかずと一緒に食べた。
おばあちゃんと母が育てた野菜がいっぱい入っている味噌汁をすする。
遥にも食べさせてあげたかった。
ジャガイモもニンジンも。タマネギもインゲンも入っている、色とりどりの野菜の味噌汁。
かつおのだしが効いているはずなのに、何も味がしない。
一人で食べる昼ごはんは、少しもおいしくなんかなかった。
けれど、残さずに全部食べた。最後は無理やり、口に押し込んだ。
食器を片付けて、洗濯物を干して。
鳴らない携帯を握り締めて、わたしは家を出た。
「蔵城さん、どうしたの? 顔色悪いね」
店長が心配そうに気遣ってくれる。
睡眠不足くらいよくあることだし、八時までの五時間だけがんばれば、後は家に帰って寝るだけだ。
これくらい……平気。最後までがんばるつもりだ。
とは言っても、帰ってから、試験勉強はしなければいけないが……。
そんな時に限って、カウンター前に行列が出来る。
大通りで配ったクーポン券のせいだ。
それを提示すれば、どのセットメニューもいつもより五十円から二百円近く安くなる。
効果てきめん……というわけだ。
注文を間違えないように受けて、出来上がったものをテーブルに運んだつもりだったが、ハンバーガーの数が足りない。
わたしの不始末に気付いた店長が、すぐに別のトレーに載せて、それを運んで来てくれた。
申し訳ありませんでしたと深く頭を下げる店長に、胸が痛い。
その後も小さなミスが重なり、日頃温厚な店長が眉を顰めて、わたしに耳打ちする。
今夜の蔵城さんは、注意が足りないよと。
すみませんと謝った後、とうとう接客から厨房内の仕事に変えられてしまった。
ようやくバイトが終わり、帰り道、かすかな期待をこめて携帯をチェックしてみた。
メール受信が数件あったが、遥からの連絡は一切そこにはない。
登録している家庭教師のバイト先からの派遣依頼とレンタル店のメルマガが、やけに張り切った文章に見えて、わたしの気分を逆なでする。
家についてからも、ベッドに入ってからも。やっぱり遥は何も連絡してこなかった。