90.涙色の空 その1
何度電話をかけても、遥から応答はなかった。
電源が切られている可能性があります……と、お馴染みのアナウンスが虚しく繰り返されるばかりで、一向に受信する気配のない携帯を胸元で握り締めていた。
全く眠れないまま夜を明かしたわたしは、部屋の隅にたたんで置いてあった薄いブルーのTシャツとデニム地のスカートを大急ぎで身につけた。
大学に行くことにしたのだ。遥を待ち伏せするために。
朝ごはんも食べずに、一目散にキャンパスに向った。
今日は一限目に日本経済史の前期試験があるはずだ。ここで待っていれば、きっと遥に会える。
わたしを見つけた遥は、なんでこんなところにいるんだ、と言って、いつものように不機嫌な顔で憎まれ口を叩き、それでいて優しい目をして寄り添ってくれるかもしれない。
つながらない携帯にしても、またいつものように充電を忘れているだけで、そこに他意はないと信じたい。
政治経済学部のF棟ホールで今か今かと彼を待つ。
次々とやって来る学生たちを目で追うが、遥の姿はどこにもなかった。
もしかして、場所を間違えたのだろうか。
いや、そんなことはないはずだ。
目の前を通り過ぎていく二人連れの学生が、遥がいつも話題にしていた教授の名前を口にしている。
その手には見慣れた日本経済史の分厚いテキスト。この建物で間違いないようだ。
というのも、わたしが通っている文学部キャンパスは、ここの敷地内にはない。
ここは第二キャンパスで、基本、文学部の人間は、学祭と特別講義の時以外は出入りする必要がない。
めったに来ないので、同じ大学と言えども、自分が部外者のように感じてしまうのだ。
すれ違うのは男子学生ばかり。たまに見かける女子学生もパンツやジーンズ姿の人が多く、きらびやかな文学部のイメージとはほど遠い。
人の波のピークが過ぎ、とうとう一限目が始まってしまった。
待てど暮らせど遥は来なかった。携帯もまだ繋がらないままだ。
どうしたというのだろう。試験も受けられないくらい、夕べのことで腹を立てているのだろうか。
それは、やっぱり、わたしの優柔不断さが招いた結果なのかもしれない。
ここで待つのをあきらめ、オープンテラスのある学内カフェで休むことにした。
雑誌でもたびたび紹介されるこのカフェに来るのは、今日が二回目だ。
一回目は、遥と一緒に暮らして初めての朝を迎えた日だった。
同じベッドで目を覚ましたのが妙に気恥ずかしくて、目を合わせることすらできなかったあの日。
今までに経験したことがないほどのけだるさに襲われながらも、彼の愛に包まれて目覚めたあの日、午前中休講だったわたしは、大学に行くため先にアパートを出ようとした遥を見送りながら、不覚にも泣いてしまったのだ。
遥の背中が涙で滲んで見えなくなるくらいに、声を上げて泣いてしまったのだ。
夜になればまた一緒に過ごせるのに、遥がもう戻ってこないような気して、不安で不安で仕方なくて。
あまりにも幸せだった夜から一夜明けてみれば、いつにも増して無口でよそよそしい遥がいて。
もはや、遥に愛想をつかされたのかとネガティブな思考しか浮かばず、彼の上着を握って離さなかったあの日。
遥はそんなわたしをあきれたように見たあと、手を差し出してくれて、結局そのまま一緒に大学に向かうことになった。
そして、連れて来られたのが、ここのカフェだった……というわけだ。
あの時と同じアイスティーを飲みながら、遥のことばかり考えている。
夕べあの後、先輩の家にも戻らずに、他の店に行ったのだろうか、とか。
行く当てもなく公園のベンチで夜を明かしたのだろうか、とか……。
それとも、ネットカフェで一人寂しく朝を迎えているのかもしれない……などと思ってしまう。
それならまだいい。
考え事をしながら道路にふらふらと飛び出して交通事故にあってたらどうしようと、最悪の事態まで想像してしまう。
あるいは、行きずりの女性と一夜を共に過ごしたり……とまで思ったところで、思考を止めた。
止めたつもりなのに、また悪い方に悪い方にと想像を膨らませてしまうのだ。
まさか、里中先輩のところに行っているのでは……などとあの時の悪夢が押し寄せてくる。
ない。絶対にない。ないと……思う。でも……。
どんどんとマイナス思考に陥っていく。
このままもう二度と彼に会えなくなるのではないかと、最悪の結末すら脳裏をよぎり始める。
以前、遥が真夜中に里中先輩を連れて帰ってきたことがあった。
遥を許せなかったわたしは、彼からの電話を拒否し続けて、やなっぺのところに身を寄せた。
もう、顔も見たくなければ、声も聞きたくないと思ったあの時がなまなましく蘇る。
もしかして。遥は今、あの時のわたしと同じ気持ちになっているのかもしれない。
あの時の遥は、今のわたしみたいに、ずっと連絡を待っていてくれたのだ。
だとしたら。
わたしがもう一度きちんと謝って、大河内とは今後一切接点を持たないと約束すれば……。
そうすれば、わたしに歩み寄ってくれるのかもしれない。