9.帰るなんて言うなよ その2
「……来てたんだ」
遥がわたしをまじまじと見て、ようやくつぶやくようにそう言った。
「う、うん……。やっぱり帰ってくるの、遅かったんだね。遥の言った通りだったね。こんなところに立ってないで、早く部屋に入って。里中……せんぱいも」
かなり酔っているように見える彼女も、やっとわたしがいることに気付いたのか、遥にからめていた腕をほどき、ごめんなさいと言って俯いたまま中に入ってきた。
明るめのブラウンに染められたロングのウェーブヘアーが、すれ違いざまにわたしの頬に少し触れた。
一瞬、とてもいい香りがした。
これが大人の女性の香りなのだろうか。
なんだかわけもなく、泣きたくなった。
胸がぎゅうっとしぼられるような得体のしれない痛みに襲われる。
けれど、黒い感情に支配される直前で気持ちを奮い立たせる。遥を信じよう。信じるんだと。
床に腰を下ろした二人を見届けるようにして、カセットコンロと鍋をテーブルから降ろし、インスタントコーヒーを手早く入れて、二人の前に置いた。
どうしたのだろう。恋人が別の女性を自宅に、それも夜中に連れ込んでいるというのに、わたしったら意外と平気なんだ。
取り乱すこともなく淡々とするべきことをこなしていく。
黙って片膝を立てて座っている遥が、時折こちらを見る。
彼が里中先輩を部屋に連れ帰ってきたのは、まぎれもない事実だ。
それが何を物語っているかは、いくら鈍感なわたしでもわかる。
二人はあれから何も言わない。口を堅く結んだまま視線すら合わそうとしない。
こうなった言い訳くらい話してくれてもいいのにと思ってしまう。
最終電車に間に合わなかったとか、あるいは急に先輩の体調が悪くなったとか……。
何でもいいから言って欲しい。
ねえ、遥。里中先輩。黙ってないで、何か言って。
そしてわたしを安心させて。
すると里中先輩がおもむろに顔を上げる。そしてゆっくりと口を開いた。
「蔵城さん。こんな、時間に、おじゃまして……ごめん、なさ、い」
充血した目をわたしに真っ直ぐ向けて、ありったけの気力を振り絞って話そうとしているのがひしひしと伝わってくる。
でも、それも長くは続かない。すぐにまた俯き加減になる。
やけに赤みを帯びて、まるで誰かを誘うように濡れてきらめく形のいい唇を小さく動かしたかと思うと、吐息混じりのかすかな声がようやくわたしの耳に届くのだ。
「ちょっと、いろいろあって、ハルに、お世話に、なっちゃった……。今は何を言っても、言い訳にしか、ならないから。とにかく、ごめんなさい、ね。あなた、たちのこと、知らなかった、わけじゃ、ないの。なのに……。なのに、こんな夜中に、ここまでついてきちゃう、なんて、あたし、どうか、してた。……帰る。あたし、もう帰るわ」
「先輩! 」
立ち上がったとたんにバランスを崩し倒れそうになった里中先輩を、遥が抱きかかえるようにして支えた。
テーブルの上のコーヒーが、たぷんと揺れてこぼれ、褐色の小さな池を作る。
「ハル、もういいの。お願い……。タクシー、呼んでくれる? 」
遥の腕をすり抜けて崩れ落ち、床の上に倒れた里中先輩は、そのまま動かなくなってしまった。
身体が小さく上下して、呼吸をしている。
すーすーとリズム正しい寝息が聞こえてきた。
どうやら眠ってしまったようだ。
もう四月の下旬だ、といっても夜中の床の上はまだ冷える。
遥とわたしとで先輩を抱き起こし、どうにかベッドに寝かせることが出来た。
ベッドの下に座り、目を閉じている先輩の青白い顔をそっと窺い見た。
何があったのかは知らないが、先輩は遥を頼ってここまでついて来たのは間違いようのない真実。
そして遥は、それを受け入れているように見える。
あんなにべったりと寄り添う先輩をまるで恋人のように抱きかかえるようにして、玄関先に立っていたのだ。
それって。この二人はもしかして……。
付き合ってるのだろうか。
いや、付き合いはじめたのかもしれない。
いつの間にこんなことに。
だとしたら……。わたしがこんなところにいるのはおかしい。
遥の心は、すでにわたしではなく、この人に向いているのであれば、ここから出て行くのは先輩ではなくて、わたしの方なのかもしれない。
いや、きっとそうだ。
わたしはカバンを手にして、立ち上がった。
「突然来ちゃってごめん。一緒にお鍋でも食べようと思ったんだけど……。遥の都合も考えずに黙って押し掛けて……。わたしって、なんでこんなにタイミングが悪いんだろう。ホントにホントにごめんね。先輩、なんだか、すごく酔ってるし。遥のこと、頼ってるみたいだから……。わたし、帰るね」
出来るだけ明るくそう言った。
笑顔を浮かべるまでは出来なかったけど、以前、あふれんばかりの愛情を注いでくれた遥を冷たく拒んだのは、このわたしだ。
それが彼の気持をひどく傷つけてしまったことも理解している。
それでも遥はずっと待ってくれていた。
わたしが彼を受け入れる時が来るまでいつまでも待ち続けると言ってくれていた。
彼のすべてを受け入れる人が、先輩だと言うのなら。
ここは、わたしが身を引くべきだろう。
「柊、ごめん……」
遥がわたしの腕をつかみ、謝る。
「柊が来てくれてるなんて、思いもしなかったから。でも、帰るなんて言うなよ。先輩が起きたらタクシー呼んで帰すから。だから、ここに居てくれ。頼む! 」
わたしは、反射的に彼の手を振りほどいていた。
先輩に触れたその手で、わたしを触って欲しくなかった。
「わたし、今夜、ここに泊まる用意もしてないし……。大通りに出ればタクシーに乗れる。遥、お願い! 先輩のこと、見てあげて……」
「ひいらぎっ! だから違うんだ。お願いだから帰るなんて言うな。なあ、ひいらぎ」
遥が呼び止めるのも聞かず、玄関でスニーカーを履こうと腰をかがめた時だった。
「ハル……。どこ? ハル。行かないで……。一人に……しないで」
里中先輩の甘えたような、そしてすがるような細い声が、わたしの背後で繰り返し聞こえる。
「お願い、ここに来て。ねえ、ハル……」
もう迷わなかった。
それでも尚、引き止めようとする遥の手を乱暴に振り切ると、わたしは彼のマンションを飛び出し、大通りに向かって、ただひたすら夜の道を走り続けた。