89.遥、待って
「遥、どこ行くの? 待って。ねえ、待って! 」
すぐに遥の後を追って店を出たが、表通りにはもう彼の姿はどこにも見当らなかった。
向いのおしゃれなコーヒーショップから出てきたカップルに、じろっと睨まれる。
まだ支払いを済ませていないことを思い出し、踵を返して喫茶店に舞い戻ったが、ちょうど店から出てきたばかりの大河内とぶつかりそうになり、はっと顔を見合わせた。
「はい、これ」
折り目どおりにきれいにたたまれた一万円札が、わたしの手に載せられる。
「きっとこれでコーヒー代を払えってことだろうけど……。これ、君に渡しておく」
大河内が目を細めて、そう言った。
「あ、ああ……。そうだね。これ、遥の、だよね。わたし預かっておくね。あの、さっきのお茶代は? 」
「いいよ。まとめて払っておいた」
「そんなわけにはいかない。あの、じゃあ、せめて遥とわたしの分だけでも払わせて」
わたしはバッグの中をごそごそとかき混ぜる。
大河内を前に気持ばかりが焦ってしまい、動作が乱雑になってしまった。
やっと、遥から誕生日にもらったお気に入りのクリーム色の財布を見つけ出し、ファスナーを開けたけれど。
「蔵城、もういいって。それより、堂野は? 本当に行ってしまったのか? 追いつかなかったんだ……」
絶対に代金を受け取ろうとしない大河内に負けて、わたしは再びバッグに財布を戻す。
自分のみっともなさに、気分が滅入るばかりだ。
「悪かった。君にも、堂野にも。僕がいつまでも未練がましいことを言うから、君にまで気を遣わせてしまって」
「そんなことないよ」
「君は、いつだって優しいよ。そうやっていつも周りに気を配ってる。中学の時もそうだった。そんな君だからこそ僕は惹かれたんだと思う。あー。またこんなことを言ってしまった。君を困らせるつもりはないんだけどなあ……。堂野の言うことはもっともだ。蔵城の気持ちは嬉しいけど、堂野と一緒に居る君を見るのも相当辛いんだ。だから、僕も三人で会うのは反対だ。僕たちはもう会わないほうがいいと思う」
さあ、送るよと言って、通りを歩き出す。
「堂野が君んちに戻ってくるかもしれないんだろ? なら、早く帰った方がいい」
大河内が手を上げてタクシーを呼び止め、同乗することになった。
後部座席に並んで座ったが、何も話すこともないまま時だけが過ぎていく。
「堂野とはいつ婚約したの? 最近? 」
わたしが車の窓から目を離し前を向いたタイミングで、大河内が口を開いた。
いつって……。いつだろう?
家族公認になったのは先月実家に遥と一緒に帰った時だったから、その時だろうか。
いや、プロポーズされたのはもっと昔だから、そっちの方が可能性が高い。
今日も遥が、ホテルの階段の踊り場で、そんなことを言っていた。あれから五年も経つと。
「えっと、いつだったかな。はっきりと結納をしたとか、そういうのはないんだけど。その……。二人で結婚の約束をしたのは、中三の時なんだ」
余程びっくりしたのだろう。大河内がぽかんと口を開け、わたしをじっと見ている。
そりゃあ当然だ。普通、世間一般の中学三年生は、婚約したりしない。
「で、でもね、親公認になったのは先月。わたしの父と遥のお母さんは、私たちのこと、多分、心の中ではまだ反対してると思う」
「へえ、そうなんだ。家の人は厳しいの? 交際とかに」
「うん。それもあるけど。わたしの家も遥の家も、いろいろあるんだ。跡取り問題とか……」
「なるほどね。君たちの住んでるあたりは、古くから続く地域だよね。いろいろ大変なことがあるんだろうな」
「うん、まあね。それに、わたしったらいい年して、遥としか付き合ったことがないから、こんな風にいざこざが起きるたび、どうしていいのかわからなくなって。それでいつも、大騒動になっちゃうの……」
「君も、苦労してるんだね。それにしても、中三で婚約とは、これまた早いというかなんというか……。ということは堂野も君しか知らないんだ。それって結構すごいことかもしれないな。お互い、相手への思いが強すぎて、八方ふさがりになってるってことはない? 」
大河内が隣で腕を組み、うーんと唸った。
「こんなことになるのなら、中二で蔵城と同じクラスになった時、何が何でも君に告白するべきだったな」
またもやそんなことを言い出す大河内に、返す言葉が見つからない。
「なーんてね。ああ、気にしないで。もう昔のことだから。これからはさっきも言ったとおり、君には絶対に会わないよ。バイト先のハンバーガーショップにも行かない」
わたしは複雑な気持のまま、こくりと頷く。
これはつまり。わたしのせいで、彼の行動範囲を狭めてしまったのだ。
でも、もうどうすることもできない。
「君の家、このあたりなんだろ? どこで止めてもらったらいい? 」
そうだった。大河内はわたしが住んでいるアパートの位置までは知らない。
大河内を疑うわけじゃないけど、教える必用はないと思っていた。
アパートまで、まだ少しだけ離れているけれど、その時表示されていた乗車料金を無理やり大河内に渡し、最寄のコンビニ前で車を降りた。
大河内が窓越しに手を振っている。
眼鏡の奥の目は、微かに微笑んでいるようにも見えた。
もうこれで二度と大河内に会うことはないのかと思うとちょっぴりセンチメンタルな気分になる。
これから先も決して大河内に恋愛感情を持つことはないと断言できるけれど、今回ばかりは、異性間で友情を育てることの難しさをこれでもかというくらい思い知らされた。
遥が大河内に対して過敏になりすぎだと思う反面、逆にわたしが遥の立場なら、やっぱり同じように不安になるだろうなと想像がつく。
遥の嫌がることはしたくない。
大河内を乗せたタクシーを見送りながら、これでよかったのだと自分に言い聞かせた。
アパートに帰り着いた時には、零時を過ぎていた。
少しだけ期待したけれど、真っ暗な部屋にはやはり遥の姿はなかった。
しぐれさんにパーティーのお礼のメールを送り、シャワーを浴びてベッドにもぐりこむ。
そして、手にしたままの携帯を何度も覗き込んだ。
遥からの連絡は何もない。
まだ怒っているのだろうか。
もうすでに、本田邸に帰りついたのかもしれない。それとも、一人でどこか違う店に行ったのかも……。
どこでどうしているのだろう。
考えれば考えるほど心配で、眠れなくなってしまった。
遥のことを考えるだけで、泣きたくなる。
わたしは遥の番号を呼び出し、意を決して通話ボタンを押した。
携帯を耳にあてながら、遥の返事を待った。